楓
久しぶりに入る楓の部屋は、昔に遊びに来た時と同じように、甘い匂いがした。
玄関先に置かれたアロマスティック。可愛らしい色合いの小物やカーテン。相変わらず楓らしい可愛い部屋。隣同士なのに、随分懐かしい香りがした。
「今日は、彼氏はいないの?」
「うん。……忙しい人だし、まだ、一緒に住む部屋を探している状態だから。別々に住んでるのぉ」
「そうなの」
あたしは頷きながら、部屋を見渡す。室内は、以前の楓の部屋のままで、男物の物は見当たらなかった。
「それで、美玖はどうしたの?」
お茶の入ったグラスをあたしに渡すと、楓はあたしの隣に腰を下ろす。あたしは一度唾を飲み込むと、口を開いた。
「さっき、しまこちゃんとすれ違ったって、言ったでしょう。……あの子、最寄り駅が、この近くの地下鉄みたいで、毎日、ここを通っているみたいなの」
「そうなんだ……。毎日アパートの前の道をね……」
楓は顎に手を当てて、考え込む。あたしはコクリと頷いた。
「それで? 美玖は、しまこちゃんが犯人だって思ったの?」
楓の質問に、あたしは静かに頷く。
「楓が言ったこと、正しいのかもって思った。確かにタイミング良すぎるし、のりぽんと会ってたってのも、気になった」
「美玖……」
「でも、それ以上に疲れちゃった」
あたしは大きく息を吐くと、座っていたソファの背もたれに倒れ込む。
「しまこちゃんのことも、のりぽんのことも。疑いの目でしか見れなくなった。最低よね。あたしを慕ってくれているのに」
「仕方ないよぉ」
そう言って、楓はあたしの隣に座り、そっと背中をさする。柔らかく微笑むと、楓は「大丈夫」と頷いた。
「あたし達だって人間だもん。嫌がらせされたらつらいし、嫌なこと言われたら悲しいもん。仕方ないよ」
それに、と続けて、楓はあたしを抱きしめる。柔らかい感触と、久々に伝わる人のぬくもりに、どこか泣きそうになった。
「だって、家に脅迫状が届いた次の日に、家の前にお客さんがいるなんて。疑って当然だよ」
そう言う楓に、あたしは違和感を覚える。
「ねぇ、楓」
あたしは、違和感の正体を確かめるために口を開く。
「どうして、あたしの家に脅迫状が届いていることを知っているの?」
「え?」
あたしの問いに、楓は表情一つ変えず、首を傾げる。
「変なこと聞くねぇ。美玖が教えてくれたんじゃない」
「教えてない」
あたしは、もう一度そう口を開く。
「教えてないよ。あたし」
自分の声が震えるのを自覚しながら、あたしはそう答える。楓は、あたしを抱きしめていた腕を離すと、小さく息を吐く。
「あーあ、しくじったなぁ」
楓はそう呟くと、立ち上がる。そして、机の引き出しを開くと、そこには、身に覚えのある紙の束が入っていた。
赤い文字が乱列された、白い紙。あの脅迫状が何故、楓の部屋から出てくるのだろう。
答えはわかりきっていた。
「なんで、楓があたしに……?」
脅迫状を書いたの、とは言えなかった。グッと唇を噛んで俯くあたしに、楓は「そうね」と引き出しを閉じた。
「美玖が、憎らしくてしかたがなかった。よくある理由だよ」
「おかしいでしょ」
ぐちゃぐちゃになる頭で、あたしは必死に言葉を吐き出す。
「だって、あんた。あたしにないモノ全部持っているじゃない。容姿にもスタイルにも恵まれて、人気だってあって。ちょっとしか出勤してないのに、すぐに客の視線奪って。かと思ったら、あっさり彼氏作って、結婚決めて。どこに嫉妬する理由があるのよ。あたしの欲しいモノを全部持っているくせに。《化石》なんて呼ばれているあたしに、なんであんたが」
「ほしいモノ、ね」
「それ、こっちのセリフ」
そう言って、楓はこちらに視線を向ける。ぞっとするほど冷たい表情。初めて見る顔だった。あたしは静かに息を呑む。
「あたしにはなかったよ。美玖みたいに、頑張れる力なんて」
楓はそう自嘲すると、そっとお腹を撫でる。
「あたしは、こんなに腐っちゃったのになぁ」
そう呟くと、楓は玄関を指さす。
「お店にはチクってもいいよぉ。だから、帰って?」
「楓」
「お願い、これ以上みっともなくしないでよ!」
声を荒げた楓を初めて見た。いつも、穏やかに微笑み、飄々と店に現れた楓はそこにはいない。顔を覆い、余裕なく、泣きわめく楓は、これまで情けなく泣き続けた夜のあたしによく似ていた。
「あたしだって、アイドルになりたかった。でもなれなかった。アイドルグループに入っても、ワンナイト狙いの男に群がられるだけ。あたしのダンスなんて見ていない。有名事務所は年齢で弾かれる。一年で限界だった。なのに美玖は、諦めずにずっと夢を追い続けた。あたしは腐って、子どもも出来ちゃって。デキ婚なんて嘘。よく見てよ。あたしの部屋。男の気配なんてないでしょ」
「楓、それってどういう」
「なんで。あたしだって」
楓の瞳から大粒の瞳があふれ出す。楓はその場に崩れ落ちると、顔を皺だらけにして子供のように泣きじゃくった。
「楓」
「お願い、帰って。これ以上、みじめにさせないで」
その声に力はなかった。あたしは無言で頷くと、楓の横を通り過ぎ、玄関へ向かう。楓のすすり泣きを背に、そっと外に出た。随分と長い時間を過ごした気がしていたのに、外は相変わらずの熱気と激しい日差しが照り付けている。あまりの暑さに立ち眩みをし、あたしはすぐに自宅へ戻る。家、隣なのに。顔を合わせたらどうすればいいのだろう。小さくため息をつきながら、扉に背中を預け、玄関に座り込む。
「そうだったのね、楓……」
あたしはポツリと呟くと、長いため息を吐きだす。
楓に《羨ましい》と思われているなんて、思ってもみなかった。楓はいつも笑顔だった。店に出ない間も、《アイドルになりたい》なんて夢は忘れて、ずっと、幸せに楽しくやっているのだと思っていた。
実際の楓は、全然幸せそうじゃなかった。彼氏との子どもが出来て、男に逃げられてしまった。哀れな女。
隣の芝生は青い、とはよく言ったものだ。
「でもね、楓。哀れなのは一緒よ。あたし、夢を追いかけてたんじゃないの。縋ってたのよ。九年間の努力を無駄にしたくなくて、《アイドル》になるって夢に、ずっと」
あたしは、そこにいない楓に語り掛ける。どこかで、楓の笑い声がした気がして、そっと口元を緩ませた。
「やっぱりすごいと思うよ。ちゃんと、区切りをつけられたあんたが」
あたしは、どうしよう。
ふと、時計を見る。時刻はもうすぐ正午を回る。そろそろ、出勤する準備をしないといけない。
そろそろ出よう。あたしは立ち上がり靴を脱ぐ。そして、部屋の中に入ると、クローゼットを開け、出勤用の服を選んだ。
何かが、足元に落ちてくる。拾い上げると、それは一枚の紙たっだ。
その紙は、オーディションの不合格通知だった。
日付は今から九年前で、確か、一番初めに受けたオーディションの合否通知だ。このオーディションは、初めて受けたにしても、本当に酷いものだった。歌えば声が裏返り、踊れば躓き、自己アピールも、噛みすぎて何を言っているのか、自分でもわからない始末。
懐かしさと恥ずかしさを思い出しながら、あたしは紙を見つめる。
それでも、ずっとオーディションを受け続けた。年齢制限がかかるようになっても、とにかく調べて調べて、どうにか受けられるオーディションを見つけて、挑戦した。
だって、あたし達、もう二十四じゃない。
楓の声が、脳裏に過ぎる。
「そうね。もう、二十四だ」
小さく笑うと、あたしは合否通知をくしゃくしゃに丸めて、ゴミ箱に放り込んだ。




