【4】 第3話 仕事熱中症 ~その1~
ガタンゴトンと電車に揺られる。車窓を眺めているうちにうつらうつらと眠気に襲われつつあった。降りる駅の名前がアナウンスされ、慌てて目を覚ましにかかるが、どうにも頭がぼうっとする。さっさと仕事を終わらせて家に帰りたい。そんなことを思いながら電車から降りて目的地へと歩き進めていた。しばらくすると交差点に差し掛かり、赤信号のため歩みを止める。そうして奥田からもらった一枚の紙きれをカバンから取り出した。
不登校児童および生徒診断カルテ
後藤桃香(一四)
学年:中学二年生
病名:仕事熱中症
診断データ:ツッコミ三点(ノリツッコミ〇回)、ボケ〇点(天丼〇回)、フリートーク二点
総合評価:三点
仕事熱中症。これは一体どういう意味なのだろう。それにしても補足説明などがもっとあってもいいのではないかと思う。ツッコミが何点などという情報は正直なところどうでもいい。念のためカルテを裏返してみるも、そこには何か書かれているわけでもない。奥田に言いくるめられ、引き受けてしまったけれども、もう少し情報を聞いておくのだったと後悔した。
信号が青に変わり、ため息をついてから再び歩き始める。後藤桃香がいる場所はいかにも郊外という言葉にふさわしいところだった。見渡せばいくつか田畑も見えるし、だからといってド田舎というわけでもなく、住宅地や商業施設もほどよく存在する、そんな場所だった。
しばらく歩いていくと木の板に後藤と墨で書かれた表札が見えた。後藤桃香の家はなかなかの大きさだった。家自体はもちろんのこと、もう二、三軒くらい家が建つほどの広さの庭もある。瓦屋根の昔ながらの家という感じだ。今から本当にこの家に入るのかと迷っていると声を掛けられた。
「いらっしゃい。お待ちしておりましたよ」
杖をついたおばあさんが前に立っていた。白髪交じりの髪を後ろで束ね、老人らしい地味な色の服装をまとった、いかにもおばあさんという感じの人だ。どうぞどうぞと促されて家の中へと入り、自分はおばあさんの後ろを追うようについていく。おばあさんは足が悪いようで歩くのが非常に遅かったが、廊下から見える庭の花や植木、池などをわき見しながら歩くにはちょうどいい速度だった。
客間に通され、出されたお茶をゆっくりと飲みながら後藤桃香を待つ。かれこれ十分が経とうとしていた。桃香どころか、先ほどのおばあさんも全く来やしない。忘れさられたのだろうかと思ったところでおばあさんが戻ってきた。
「せっかく来ていただいたのに申し訳ないです。桃香は今、畑に行ってしまったみたいでして」
「畑、ですか?」
「ええ、おじいさんと一緒に畑仕事をしているみたいでして。ついさっきまでは家にいたんですけどねえ。すみません」
本人がいないのなら仕方がないと思い、おいとましようかと考えたが、せっかくだからおばあさんに聞き取りをしておくのもいいかもしれない。
「桃香さんが不登校だと聞いておりますが、どうしてそうなったのかご存じであれば教えていただいてもよろしいですか?」
「ええ、いいですよ。桃香は責任感が強くてとてもやさしい子でねえ。私が足を悪くしたって聞いて私の代わりに畑仕事をしてくれるんですよ。私もおじいさんも助かってはいるんですけど、桃香に学校を休んでまで手伝うことはないよって常々言ってはいるんですけれどねえ」
つまり家の仕事を手伝っているから不登校ということだろうか。昔ならまだしも今の世の中では珍しい気もする。ただ家庭の事情というのもある。一見お金に貧しくないように見えても、実際は経済的に余裕がないのかもしれない。そう思うと積極的にずけずけと質問するのもはばかられる。
するとおばあさんは気を使って声を掛けてくれる。
「もしよろしければなんですけれど、桃香はここから五分くらい南に行ったところにいるんですけどねえ、今から直接会いに行ってもらっても大丈夫ですよ」
「ご迷惑じゃないですか? 畑仕事の」
「いえ、とんでもありません。本当は今の時間、家にいるように言ったんですけどねえ、畑に行ってしまって。私が行って呼び戻してきたいところですが、足が悪いもので」
「そうですか。それなら畑の方に行って会ってきます。その前に申し訳ないのですが、お手洗いを貸していただいてもよろしいでしょうか?」
喉が渇いてもいないのにお茶を飲んだせいか、トイレに行きたくなる。おばあさんはトイレの場所を案内してくれるようだったが、足が悪いのに歩かせるのも気がひけるので口頭で場所を聞いて教えてもらった。
長い廊下を歩いていく途中で子ども部屋と思われる一室が見えた。高校か中学校の制服と思われるセラー服がハンガーにかけられている。桃香か、あるいはその姉妹のものではなかろうか。机の上には靴が横に向けられた状態で置かれている。よくある靴というわけではなく、底の部分に金属の針のようなものがついていた。山登りに使用する靴には滑り止めとして金具がついているという話をどこかで聞いたことがある。
そのまま廊下を直進していくとトイレがあった。桃香、あるいはその姉妹は山登りをしたりするのだろうか、そんなことを考えながら用を足す。
その後、おばあさんから桃香がいる畑の場所を教えてもらうと家を後にした。おばあさんの話だと畑まで五分と口では言ってはいたけれども、実際に歩いていくとその三倍の時間がかかった。歳をとると時間が短く感じるというのは確かに本当なのかもしれない。
畑にはおじいさんと髪型がショートカットの女子が共に農作業の服を着て、くわを持って耕していた。
「こんにちは」
とりあえず手始めに声を掛けてみた。すると二人から元気な挨拶が返ってくる。
「こんにちは」
「不登校対策委員会の小池と申します。後藤桃香さんでしょうか?」
このように話すとショートカットの女子は警戒の眼差しをこちらに向けた。
「そうだが」
「桃香さんにお話ししたいことがあってきました。少し時間をいただいてもいいですか?」
桃香のきりっとした目つきに思わず敬語になってしまった。相手は年下だというのになさけない。
「私はあいにく仕事中だ。くだらない話に付き合っている時間はない」
詳細を話す前にきっぱりと断られた。桃香はすぐさま仕事を再開する。不登校対策委員会のことを毛嫌いしているようにも見えた。仕事中だと言われてしまうとこちらとしても何も言えない。どうしようかと戸惑っていると、おじいさんが桃香に言葉を投げかける。
「良いじゃないか。桃香。お友達が来ているんなら、畑仕事はいいから話しておいで」
おじいさんは優しくにこやかに笑みを浮かべている。桃香は若干の不服そうな表情を一瞬浮かべたものの、おじいさんの言葉に逆らうこともなく、意外にも素直にこちらへ歩いてきた。
「何の用だ」
遠巻きに見て感じていた桃香の威圧感がこうして接近することでより強まった気がした。彼女は本当に中学生なのだろうかと疑ってしまうほどに。
「桃香さんに質問をしたいのですが、どうして学校に行かないんですか?」
鋭い眼差しがさらに鋭くなった。何を馬鹿なことを、と目がそう言っている。すると案の定。
「何を馬鹿なことを! 私が学校に行かないだと。学校に行けない、いや違うな。行く必要がないからだ」
「学校に行く必要がない?」
学校に行く必要がない。どこかの小学生も似たようなことを言っていたことを思い出す。
「そうだ。私は今、必要だと思うことをしている。祖母が足を悪くして、祖父だけでは畑仕事がままならない。だから私が畑仕事をする必要がある。家が忙しい時に学校など行ってられるものか。学校など暇人が行くところだ!」
あまりの迫力に委縮してしまいそうになったが、ひるんでいる場合ではない。こちらとしても反撃をせねば。
「おばあさんも学校を休んでまで畑仕事をすることはないと言っていました。おばあさんのその気持ちを尊重するためにも学校に行った方がいいんじゃないですか?」
「何ぃ? 祖母と話をしたのか?」
「はい、先ほど少し話をしました」
呆れた表情を浮かべたのちに桃香は説明する。
「祖母は優しいから私のためにそう言っているだけだ。実際問題として祖父だけではこの畑を管理することはできない。母は十年前に他界して、父は現在海外赴任中。きょうだいがいるわけでもない。そんななか家族でこの畑を手伝うことのできる人間は私しかいない。私がやるしかないのだよ。わかるな?」
はい、と頷くこと以外は決して許されないような雰囲気だった。再度、桃香は問う。
「わかるな? 貴様」
「はい」
気づいた時にはその同意の言葉が口から漏れ出ていた。それにしても「貴様」なんて言葉をマンガやアニメ以外で実際に使う人間がいるなんて思いもしない。
***
翌日の放課後、高校の最寄りの駅へと向かっていた。もちろんそのまま家へと帰れるわけではなく、桃香の不登校の問題を解決するために彼女の家へと向かっているのだった。その途中で見覚えのある小学生女子の姿が見えた。すぐ近くの横断歩道を渡っている。ランドセルを背負っていないことから、下校中というわけでもなさそうだ。そんなことを考えていると、相手もこちらに気づく。
「お久しぶりです」
「おお、久しぶり」
と、まさか西本薪奈の方から声を掛けてくるとは思ってもいなかったので、思わずそっけない挨拶になってしまった。
「この前私が出したレポートは書けましたか?」
「えっと……」
薪奈のいうレポートとは、学校に行く意義について述べるよというもの。この宿題が出てから数か月が経とうとしているが、一向に完成する気配がなかった。薪奈はじっとこちらを見つめている。彼女が何を考えているのか正確にはわからないが、そんなにまじまじと見られると威圧しているようにも思えてきた。
「申し訳ありません。もう少し待ってください」
道端で小学生に頭を下げ、謝罪する高校生というのは、そうそう見かけるわけでもない。周囲を偶然歩いていた人々は何があったのかと、ちらちらとこっちを見ていた。
「わかりました。あと一週間あげます。それまでに必ず完成させてください」
「一週間? もう少し期間がほしいんだけどなー。今日だって不登校対策委員会の仕事があってその人の家に行ったりするわけだし」
薪奈は手を顎に当てて少し考えてから言う。
「わかりました。そのような事情がおありなら仕方がないです。二週間後でいいですよ」
「助かったー」
レポートが二週間で書ける保証があったわけではなかったが、なぜだか自然と安心した。
「ちなみに今日はどんな方にお会いする予定なんですか?」
薪奈がこんな質問をしてくるとは思わなかった。以前なら他人に対しての関心がなかったようだったので、これから何をするのか、どこへ行くのかといったことは聞いてくることはなかっただろう。以前に「他人を受け入れるように」と自分が発した言葉が届いたのかもしれない。と、考えてしまうのは少し思い上がりすぎだろうか。
「これから会うのは中学生の子でさ、家の仕事が忙しいから、そのせいで学校に行けないっていう人。その子もまた特徴的で、誰からの異論も認めないっていう……なんというか軍曹って感じの人でさ」
「随分と変わっていますね」
お前が言うか。君もかなり変わり者だよと言おうと思ったが、薪奈はボケで言っているわけではなく、素でそう思っているだから、つっこんでも仕方がないだろう。
「彼女に対して説得を試みたんだけど、『家が忙しい時に学校など行ってられるものか。学校など暇人が行くところだ!』って言われちゃってさ。どうしたもんかなって」
天才小学生の薪奈から何か解決策やヒントとなるものが得られないかと思い、桃香についてのことを話してみたのだった。それにしても小学生に相談する高校生とはなんだか不思議な構図だ。
すると薪奈は何の脈絡のない話をし始める。
「学校のゴゲンって知ってます?」
「五限? 国語かな? ていうか君の小学校の五限目が何かなんて知らないよ」
「何を忍たま乱太郎のボケみたいなことを言っているんですか」
怒られた? いや、ツッコミか。口ぶりが平坦なためどちらなのかわからない。そもそも彼女が忍たまを知っていることに驚きだ。アニメを見たりするのだろうか。
「私が言っているのは学校という言葉の由来です。もっと言うとスクールという言葉の語源について知っていますか?」
「スクールの語源? 英語は得意じゃないんだよ」
「語源の話をしているんですから、英語ができるかどうかは関係ないと思います」
「まあ、そうだけど」
「スクールはもともと暇という言葉からきているんです」
ここでようやく薪奈が脈絡のない話を突然し始めた理由がわかった気がした。薪奈は話を続ける。
「昔、学問を学べたのは生活に余裕のある貴族の身分の人しかできませんでした。その貴族たちが生活の余暇を利用して教養を身につけたことから、暇なときにする、学問を学ぶ場所をスクールというようになったそうです」
昔は子どもであっても家の仕事をしていて学校に行っていなかったという話は聞いたことがあった。暇という言葉から由来しているという話は頷ける。
「なるほど桃香が言っていたことは、あながちめちゃくちゃなことを言っているわけじゃなくて、学校の語源から考えると筋が通っているってわけか」
「筋が通っているかどうかはともかくとして、それでも家の仕事が忙しくて中学校に行けないというのは現代ではやはり珍しい例だと思います。もしそれが本当なら家庭の経済状況という根本的な問題から解決しなければいけないですので、簡単なことではないでしょうね」
「そっか、なかなか根深い問題なわけだ……」
このように自分が話すと薪奈はため息をついた。彼女がため息とは意外だ。彼女もこの問題が難しいと思っているのだろうか。天才小学生がため息をつくほどの問題。より一層、凡人高校生に解決できるような問題ではない気がしてきた。桃香を登校させる自信がなくなってきてしまう。
「つまりですね――」
と、薪奈が言いかけたところで「薪奈ちゃーん」と呼ぶ声が遠くから聞こえた。見てみれば近くにある公園から小走りしながら手を振っている女の子の姿が見える。
「すみません、友達が待っているのでまた今度」
そう言って薪奈はすぐさま友達の方へと走って向かって行ってしまった。もともと友達と遊ぶ約束でもしていたのだろう。引き留めはしなかった。
薪奈と別れた後、彼女が何を言おうとしていたのか気になってきた。それが解決策かヒントなのかはわからないが、何か重要なことを言おうとしていたのではないかと。そんなもやもやした気持ちを抱えながら駅へと歩みを進めていくと中学校の校庭が見えた。ここはかつて自分が通っていた学校だ。サッカー部が練習をしている姿が見える。当時、サッカー部に所属していたことを思い出し、懐かしさを感じていた。サッカーゴールのネットの破れた部分を修繕しながら使っているのは、今でも変わらないようだ。予算が下りず、ゴールもネットも購入してもらえなかったのだ。中学を卒業して数か月しか経っていないが、はるか昔のことのようにも思えてくる。そんな風に校庭を眺めながら歩いていくと、近くで練習していた野球部の姿が目に入ってきた。
バットに球が当たって金属音が鳴り響く。球は一回大きくバウンドして三塁方向へと飛ぶ。一塁ランナーは二塁へと全速力で走っていく。そして足からスライディングして二塁ベースに滑り込む。野球素人からすると守備陣の送球とランナーの二塁への到着はほぼ同時に見えた。野球とサッカーとではスライディングの方法が違っていることに気がついた。サッカーのスライディングの場合、左足を外側に折りたたんだ状態で滑りながら右足でボールに接触する。野球の場合はその逆で左足を内側に折りたたんで行うようだ。野球部員の足元を見ていると、きらりと光るものが見えた。
「ん?」
野球とサッカーとではこういうところも異なるのか。そのようにさらなる新たな発見をしたところで、ある考えが頭の中で浮かんできた。
それは後藤桃香の不登校に関する考えだ。桃香を学校に登校させるためには、まず調べなければいけないことがある。どうやって桃香を登校させるか考えるのはそれからだ。
バットから放たれた打球はきれいな放物線を描いて飛んでいくのが見えた。