父と娘
まずは一話。主人公はまだ出てこないです。
「……ああっ! 僕の目が黒い内は、絶対っ、絶対っ、阻止したかったのにぃっ」
やつれた頬に影を落とす男は、清潔に保たれた寝台の上で、声音高らかに慟哭を挙げた。
寝台の傍らに寄せた椅子に座わる少女は、病人である男が上掛けのシーツの端を握り締めるどころか口にくわえて歯で噛み締め、くぐもった呻き声を漏らし始めたのを機に、膝上の深皿から掬い上げていた匙をそっと戻す。
「父様の目の色は、黒ではなく青です」
「そう言うヴィーの目は、母様と同じ深い翠の色だね。とても綺麗だよ」
父親の暴走ぬ動じることなく冷静に反論してみたのだが、男とて負けてはいない。
真正面から放たれた正論にへこたれることなく、気泡混じりの玻璃の窓から差し込むやわらかな陽の光を浴びる己の娘の顔に、うっとりと魅入っている。だが、流暢に繰り出される言葉とは裏腹に、起こした上半身を支える枕から自力で動けないでいたし、シーツを握る手も良く見ればちいさく震えてすらいた。
「不甲斐ない父親でごめんよ」
己の身体の不調を自覚しているのか、男は自嘲気味に薄く笑った。しかし、酷く億劫げに手を伸ばして娘の頬を撫でる男の表情は穏やかで、親愛に満ちたぬくもりに頬を委ねて見つめ返す少女の目にも、同質の光が見て取れる。
しばらく無言のまま見つめ合い──だが、水面下では激しい親子の攻防が繰り広げられた後、……結局、父親が折れる形で決着したのか、大きな嘆息をついた男の手が、少女のやわらかな頬から名残り惜しげに離れてゆく。
これまでのおどけた態度をやめた男の秀麗な顔には、齢を重ねた大人の男が持つ深い苦味と、もはや取り繕いきれなくなった憔悴の色が濃く滲み出ていた。
「いいかい、ヴィー」
諭し、問い掛ける優しげな声音にも、聞く者の背筋が伸びるような厳しさが宿っていた。
「次の周期はすぐにやってくる。躊躇いは禁物だよ。……大丈夫。痛いのは最初だけだからね」
「父様」
少女の瞳が初めて、逡巡するかのように瞬いた。
「……失敗、するとは思わないのですか?」
「思う訳がないだろう!」
娘の危惧に、父親は目を剥いて声を張り上げる。
「ヴィーは僕とアマリーの娘だよ? 僕譲りの黒髪は、まるで朝露を含んだかのようにしっとりとやわらかく波打っていて艶々だし、陽の光をたっぷりと浴びた若葉のように輝く翠の瞳はアマリーと一緒っ。つるんと陶器のように滑らかな肌は手に吸い付く瑞々しさがあって、口角がちょっと上がった薄紅色の唇なんか、見ているこっちが悪戯されちゃうのかもって、ドキがムネムネしてるくらいなのに……!」
頬を染めてクネクネと身を捩る男を見る少女の目が、冷気を纏いながら眇められてゆく。
「それにとっておきがあるじゃないか!」
滲み出ていた憔悴の色も消し飛ばすくらいに目を生き生きと輝かせた男が、冷えきった娘の反応もお構いなしに人差し指をピンっと立て、満面の笑みを惜しげもなく向けてくる。だが、依然として少女の眼差しは氷柱のごとき鋭さを保ったまま。
「母様の形見を使えば、どんな相手でもイチコロだよ!」
確信を込めて言い終えてから、何やら色々と想像力を逞しくさせたのか、にこにこにまにまとした微笑みを浮かべていた男の顔が次第に強張ってゆく。
「ああっ、でもやっぱり嫌だ! そんなの耐えられないっ」
そして終いには滂沱のごとく涙を流し始め、これ以上ないほどの蔑視を投じる少女に構うことなく、己の心情を声高に打ち明けてきた。
「だって、僕がアマリーの為に用意した秘蔵のコレクションだよ! 大事な娘を任せるだけでも業腹だって言うのに、僕だけが見て触れていたあれやこれらを、そいつにも堪能させてやらなきゃならないなんて、そんな、そんなもったいないことっ……!」
「でも決めたことです」
毅然とした少女の言葉に、男の顔がへにゃりと崩れた。
「……やっぱり、考え直そうよ」
無言で首を振る少女に、男は最後の足掻きを試してみる。
「可愛い娘が僕の為に己の身と心を蔑ろにすると宣言しているんだ。それを喜ぶ親がいるかい? 僕だけでなく、アマリーだって喜ばない。きっと顔を真っ赤に染めて、怒りながら説教して、それから泣きだして詫びるんだ。それに僕だって、体調が万全だったら今頃、きっつぅい教育的指導を入れていたところだよ?」
自嘲気味に口元を歪めつつも、男は深く息を吐いた。
「……だけど今回、ヴィーに無謀な考えを抱かせてしまったのは僕の責任だ。僕の慢心が引き起こしたことだ。だから、逆にここは、僕がヴィーからの叱責を買うところなんだよ?」
──わかっている。
男の言葉に嘘はないことくらい、少女とて理解している。けれど、それだけが真実でもないことを知っているのだ。
男は母を愛している。喪っても尚、……否、喪っているからこそ募る想いが、昇華も満足も叶わずに燻り続けている。
それがわかるからこそ、少女は不安と焦燥に駆られているのだ。
「父様は──、」
少女が望む形でない、父親としての役目を全うしょうとする男の言葉に重ねるべく、……ともすれば怯みそうになる心を奮い立たせながら対峙する。
「……上手く、隠されていましたが、去年の暮れ頃に一度大きく体調を崩されてからずっと、辛そうにされていることに気が付いていました。……これはわたしの我が儘です。たとえそれが、父様の本当の願いを阻む決断であろうとも、覆すつもりはありません」
ひたりと合わさった父と娘の目に、殺気が宿る。
それは主に、父親である男の眼差しに強く滲み出ていた。
「……どうしても?」
命令することに慣れた冷酷な為政者のごとき声色と口調で、男は娘に問う。
「どうしても」
剣先を喉元に押し付けられたにも等しい威圧感に、少女は怯むことなく応えを返す。
「……そうだな。ヴィーは僕の娘。ロッシュフォード家の血を受け継いでいるのだから当然のことか」
どこか苦々しげに笑みを浮かべた男は、ちいさく嘆息をついた。
「ならば阻んでみろ。だが、それには条件がある。こちらで用意する相手でなければ認めない」
「父様っ」
「反論は受け付けないよ」
少女の抗議の声を、眉宇を顰めてはねつけた男は、少し困ったように微笑んだ。
「大事な愛娘を任せるんだ。親として、せめて身元のしっかりとした信頼できる相手であってほしいと、……そう願うことも許してはくれないのかい?」
「──っ、」
偽りの言葉を嫌う男の懇願に、少女は唇を噛み締める。
「いいかい? 期限内に相手を攻略できなければ、僕は僕の我が儘を貫かせてもらう」
幾分かやわらいだ声音と口調で宣言する男の──常よりも硬い表情で押し黙る少女を映す真昼の空の色をした双眸にも、ぬくもりが戻ってくる。
「愛しているよ」
両の手のひらで娘の頬を包み込んだ男は、深い翠色の瞳が揺れる様を眩しげに眺めて囁いた。
「だけど、それ以上に僕はアマリーを愛している」
「……知っています」
男がどれほど母を愛しているかなど、今更過ぎて愚問もいいところだろう。
母に向ける想いの比重に差をつけられようとも、それでも確かに感じられた親愛の情。
偽りの言葉を嫌う男だからこそ、たとえ多くは語らなくても、たとえ不真面目な発言であろうとも、与えられた言葉はすべて信用に足るものだと、少女は知っているのだ。
一見、やわらかな物腰と人の良い微笑みについ騙されそうになるが、驚くほど度の過ぎた排他的主義者である男とて、愛妻の忘れ形見を無碍にできるほど、情が欠落もしていない。
こうして辛い身体を押して道化を演じていたのも、娘のことを想ってのことだ。
だからこそ──。
「わたしも父様を愛しています」
迷いのない眼差しが語る少女の決意のほどを読み取った男は、苦笑混じりに目を伏せて、深い嘆息と
共に立てた枕に凭れる全身の力を抜いた。
「では、どちらの我が通るか、楽しみにしているよ」
そして浮かべた男の表情は、それはそれは慈しみに満ちたやわらかな微笑みだった。