1回目
「ヒッ…アッアア………」
あえかな喘ぎの音。
しかし、それは、まぎれもなく死の音色だった。
黒々とした影の中で、紅を映した瞳だけが、爛々と燃える。
女性の引き裂かれた首筋から、命の源が流れだしてゆく。
ぺちゃり……………
妖しい音をたてて、影が舌先でそれを味わう。
「違うっ!」
吐き捨てるような声は、欲望にこもり男女どちらのものとも判別がつかなかった。
※ ※ ※
朝から町は騒めいていた。
パトカーのたてる甲高いサイレン。
仲間の合図だと勘違いした犬たちの遠吠え。
どこにでもあるような田舎の小さな町は、押し殺した興奮にさわさわと震えていた。
町のはずれ、隣町との境界線上に位置する深い森の入り口近くのバス停で、死体が発見されたのだ。
まだ若い、大学生ほどの女性だった。
「………の娘だって話だよ」
ざわり。
「何でも首をずたずたに切り裂かれていたそうだ」
「ひゃぁ。そんな死にかただけはしたくないよなぁ」
ひそひそ……………
立ち入り禁止の黄色いテープが張り巡らされた外側で、野次馬たちが囁いていた。
死者はもういない。
警官たちが引き上げた後である。
首をずたずたに切り裂かれた、女性の死体。
「なぁ、それって…………」
「しっ」
「え?」
「ほら、あそこ」
指差す先を見やれば、
「高見沢の…確か、あの子母親が最初の………じゃなかったっけ」
ひとりの少年が、ちらりと彼らのほうに視線を流したように見えた。かすかに頭を下げて挨拶を寄越す。それに挨拶を返した後で、
「ああ。だから、黙っていろよ。あそこの刀自殿に睨まれたらこの町じゃやっていけない」
高見沢の家は、この地方では名家を誇っている。
かつての大名の血筋で、いまだ権勢は崩れない。
地方の企業だったが、それなりに名のあるグループを一族で切り盛りしている。
「そうだったな」
ひそひそひそ。
少年のやわらかそうな黒髪が、微風に煽られる。長めの前髪を掻きあげて、遙都は足早にその場を通り過ぎようとした。
彼は、自分に向けられる視線の意味を理解していた。
狭い町である。普段なら凶暴な事件など起きるなどと誰も考えない、田舎の小さな町に過ぎない。
だからこそ、彼らは思い出すのだ。
そう。
彼らは思い出したのだ。
十七年前の惨劇を。
やはりずたずたに首を裂かれて死んだ、十三人の女性たち。
首筋から血を抜かれて、犠牲者たちは渇いて死んだ。
その一番目、最初の死者は、遙都の母親だった。
十七才で遙都を身ごもり、十八才で猟奇殺人犯の手にかかった母。
遙都は、死に瀕した母から生まれたのだ。
犯人は、捕まっていない。
野次馬たちはまだ喋っている。
それを尻目に、遙都は足を速めた。
美術教諭にモデルを頼まれていなければ、こう連日決まった時間に出かける必要もなかったのだが。
せっかくの夏休みに出歩くのは、本当にかったるい。
輝く太陽の兇悪な光。
あまり長い時間浴びていると、眩暈がしてくる。
慢性的に貧血気味で、
『鉄分をよく摂りなさい。朝食を抜くなんてとんでもないわ。緑黄色野菜をたっぷりと、それにレバーを食べるようになさい』
と、保険教諭によく言われる。
摂ってはいるのだが、貧血はなかなか良くならない。
くらくらと、周囲が揺れるのだ。
冬でもそうなのに、夏なんか最悪以外の何ものでもない。
できるだけ家にこもっていたいのに。
古い日本建築の、薄暗い部屋。
かつて谷崎なんとかと言った文豪が褒め称えた陰影の中で、遙都はひっそりと絵を描いたり本を読んだりすることが好きだった。少なくとも部屋の中では、気を張っている必要はない。
深い海の底、マリンスノウが降り積もる闇の中で息を潜める魚。
いつだったかテレビで見た映像が脳裏を過ぎる。
よたよたと鰭を動かす深海の不思議な魚たち。
時々自分をそんなふうにたとえていることに気づき、あまりの暗さに自嘲することがある。
後もう少しのあいだだ。
高校を卒業しさえすれば、家を出ることができるだろう。
まだ2年近くもあるが、今まで我慢が出来たのだから、大丈夫に違いない。
どこか、ここから離れた大学を選んで受験するつもりだった。
こんな、息の詰まるような毎日からは、逃れたくて。
クリスチャンの祖母が、自分を見るたびに苛立つのが、辛くてならなかった。
祖母を憎んでいる自分が、嫌いで。
『どうして、流れてしまわなかった』
四分の一だけ異国の血が混ざっている祖母のヘイゼルのまなざしが、自分を認めるたびにそう言っているような気がしてならなかった。
『だったら、どうして、母と恋人とを引き裂いたのだ!』
そう言って、詰め寄りたい激情がある。
けれど、それは、遙都にはできないことだった。
『逆らうのじゃありません』
『おまえは、高見沢の恥なのだから、身を慎まなければなりませんよ』
ずっとそうとだけ言われてきたのだ。
祖母の戒めは、きつく遙都に絡み付いていた。
拝みたおされてしまった自分に腹が立つ。
相手が美術の高村教諭でなければ、断れたのに。
わざわざ家に来て、その上で祖母に断りを入れたのだ。
高村は祖母のお気に入りで、彼の頼みを祖母が断るはずはなかった。
もっとも、遙都自身、高村を嫌いではない。
祖母の弟の息子――母の従兄弟――だという高村を、幼いころから遙都は知っている。
家でも息をつくことのできなかった幼い頃の遙都に、それとなくやさしくしてくれる相手。
年齢は三十才前半。
まだ若いけど、父親ってこんな感じかもな―――と、そんな幻想を抱いてしまうひとだった。
もちろん、母のことも知っている。
母の思い出話を少しだけしてもらえる。
高村は母のことを悪し様に言わない、唯一の存在でもあった。
だから、高村の語る思い出が、遙都は好きなのだ。
そうして、遙都は高村の家へと向かう。
高村のモデルをして、母の思い出話を聞くために。




