神器の任務
2007年11月
「なぁ雪音」
東京のとある病院のとある個室。
山王はベッドに横たわり、バイク雑誌を眺めながら同僚に話しかける。
「なんですか? 何度言われてもタバコなら買いにいきませんよ」
絶対安静なのにタバコなんて馬鹿ですか、と怒らせてしまった。タバコのタの字もまだ言っていないというのに。
ベッドの脇。パイプ椅子に腰掛けて携帯と格闘している女性の姿がそこにはある。
黒のスーツに黒のズボン。ワイシャツは白く、一番上までしっかりとボタンが留められている。
長い黒髪は病室なのを考えてかおさげにしてまとめており、真面目な形相で携帯と向かい合っている。
整った顔立ちを顰めさせながら、細い指先で携帯を恐る恐るカチカチと弄くっている。機械音痴を克服するべくまずはこの携帯という端末に慣れ親しもうとしているようである。
「お前矢作と付き合ってるんだっけ?」
「は、はぁ!????」
雪音の携帯を弄くる手が止まった。
「な、何を言ってるんですか!? ま、全く、タバコを買いに行かないからってそんな腹いせは止めて頂きたく存じ上げて申し上げまする!」
顔色をぐるぐると目まぐるしく変化させながら、雪音は早口で捲くし立てた。冷静を装うとしているっぽいのは伝わってきたが、見事に失敗している。その証拠に語尾が大分おかしな事になっているのだが山王は軽く受け流す。
「いい加減腹決めてデートでも誘ってやれよ。どっかいい感じの飯処いって、酒でも飲んで……で、その後は適当に抱いてもらえばいい」
「ほ、ほぉ……最近の“でーと”というのは最後に……だ、抱っこしてもらうのが通説なのですか……ふむぅ、なるほど……」
真っ赤な顔をしながら興味深く何度も頷いていた。
あ、こいつ抱くの意味を履き違えているな、と山王は気付いたが、流石にそこを懇切丁寧に説明してやったらその場で卒倒しかねないので、そのままにしておいた。
「って違います! 別に、今デートなんてする必要がありません!」
「そろそろ死ぬかもしれないのに?」
東京物産は既に壊滅している。こんな後ろ盾のない状態を見越して、今までの借りを返すべく野良のユーザーに一斉に襲われでもしたらすぐに息の根を止められてしまうだろう。
もしくは東京物産を潰した輩が残党狩りを始める可能性も否めない。
どちらにせよ今、かなり窮地に立たされている事には間違いないのである。
「俺もお前もヤキが回ったのかもしれねぇなぁ。お前も俺を見捨てて逃げてもいいんだぞ?」
山王はベッドで寝返りをうちながらそんな事を言う。
その言動は言葉とは裏腹に余裕さを、しかし同時に自暴自棄な発言とも受け取れる。
「ふざけてるんですか? 私にあの女と一緒の事をやれと?」
あの女というのは水城の事であることに山王は直ぐに気付いた。未だに雪音は水城を憎んでいるらしい。
一見静かに、冷静に振舞っているが今の雪音は間違いなくキレている。思いがけず地雷を踏んでしまった事に山王は内心で舌打ちをした。
「それに私は天堂さんを殺したあの女を殺すまで死にませんよ」
それまではでーともお預けですね、と雪音は落ち着きながらすぐ脇においてある自身の神器、日本刀を手に取った。
敵がこちらに向かってきている。相手は気配を殺しているのだろうが雪音も、そして当然山王もそれに気付けるほどに場数をこなしている。
「それでは蝿を追い払ってきます」
雪音は病室を静かに抜け出て行った。この狭い病室で戦闘は明らかに無理である。広い場所で待ち受けるつもりなのだろう。
「蝿ねぇ」
やはり俺は蝿にたかられる糞ってところなのだろう、と自嘲する。
少しお節介が過ぎたな、と山王は反省し瞼を閉じたのだった。
神器の任務
ロシアの国道を走る白いバンの車内。そこに打瀬と柏、それに冬花はいた。
運転手は柏に代わり、両脇を木々に囲まれた退屈な道路を車は走る。
ドモジェドヴォ空港からカシルスコエ通りに沿って北上し、まずはモスクワ市街地に入る、と説明されたが理解はできなかった。
「にしても打瀬さんはどうしてロシアに?」
ドライブが始まった頃は和気藹々と東京物産の愚痴や、男性陣についての話に花を咲かせていたが、少し疲れたのか特に話す事もなく静かな車内になった時、冬花はなんとなく疑問に思ったことを口にした。
「いやぁ、流石に今の東京にいるのは怖いかなぁって。それに本部に用事もあるしね」
打瀬はユーザーではないが東京物産の社員である。その会社である程度実績を収めている。出る杭は打たれるという訳ではないが、東京物産を完全に潰すとなれば狙われる可能性は十分にあると言える。
だから冬花はもうひとつの方に興味を示す。
「本部にですか?」
本部というのは少しだけ聞きかじった事がある。神器を管理している場所であり、また神器の引継ぎ等に立ち会う人達がいる場所である。
実際に冬花は黒砂の神器を引継ぐ時に、本部の人間を見たことがある。
木村咲羅というふわふわな格好でふわふわな喋り方をする同年代の女性。
明らかに弱そうであったのだが、山王さんの武器を持って暴走した私を怪我ひとつなく止めたと言っていたのでやはり相当な手練れの人物だったのであろう。
しかしそんな本部に何の用事があるというのだろうか。
「まさかついに打瀬さんもユーザーになるのですか?」
確かに本人も東京が危ないと言っていたし、己の身を守るためにもユーザーとなって一緒に修行でもするのだろうか。
「いやいや、冬花。そんな誰でもユーザーになれるわけではないぞ」
運転をしながら柏が代わりに答えた。
「冬花の身の回りはユーザーばかりだから誤解してるだろうが、ユーザーになれる奴なんて本の一握りしかいないよ」
それに対し冬花は、へぇー、と淡白な返事をしていた。
なんの取り柄もない自分だと思っていたがユーザーの素質だけはあったのか、と内心くすぐったい気持ちを平静を装ってかみ殺していた。
「細かい事は分かってないみたいだけど血筋が関係してるとか、生まれ持った才能が関係している、とか……幸か不幸か私にはそのどっちもなかったみたいだけどねー」
打瀬はそう言って露骨に残念そうな顔をする。勿論冗談であるのだろうが何処となく本気で残念がっているようにも冬花は感じた。
それと同時に気付いた。打瀬はかつてユーザーになろうとした事がある。それは何故か、冬花はそれを聞こうとし――、
「……本部にある用事って言うのはね」
しかし打瀬が先に切り出したため、理由を聞くことは適わなかった。
「今東京のバランスが崩れちゃってるからね。統治する組織の代わりが見つかるまで本部の人が代わりに統治をしてください、って頼む為だね」
統治、というのはなんとなく知っている。
東京物産の威圧があるお陰で東京近辺はユーザー同士の争いが起きない、所謂平穏を作り上げている。しかし東京物産が潰れた今、ユーザー同士で神器を奪い合い、その神器を売り払い金儲けに走る輩が増えているという。
「光源に群がる蛾みたいにワラワラと色々な場所から集まってきて東京で殺し合いを始めちゃうんだよねぇ」
苦い顔をしながら掌をヒラヒラとさせる。確かに東京が蛾のたかり場なるのはあまり好ましくない。
「と、同時に神器の流出、流入が不確定になっちゃってくる訳。それは神器を管理する本部としても望ましくない事なんだよね。だからこうして物産が潰れちゃったので助けてください、って自己申告をしに来た訳なのさ。統治してた者としての最後の責任としてね。あ、勿論暗黙の責任感だけどね」
それで合点がいった……が、冬花としてはまだ腑に落ちない点がある。
「本部の人ってそんなに頼りになるんですか……?」
あの黄村咲羅の様な人が出てこられても……正直抑止力になり得るか怪しいところである。
実力としては役不足なのだろうが、あの性格を考慮すると……。
「だから、直接説明して頼りになる人を遣わせてもらう訳さ」
……不安である。その言い方だと黄村以外にも頼りにならなそうな人がもっと本部にいると言ってるようなものである。
しかし冬花が別に気にする事でもないので、これ以上の追求は避けた。
「んじゃ私は少し寝ますかねぇ。柏さん、運転疲れたら交代するので起こしてくださいね?」
「あ、あぁ……」
柏は珍しく淀んだ物言いで返事をした。柏も打瀬の運転技術の程は把握しているようである。
打瀬は靴を脱ぎ、足を両腕で抱え、ころん、と窓にもたれ掛かって瞼を閉じた。その体勢はむしろ疲れるのでは、等と思いながらジロジロ見ていると、
「人の寝顔を覗き込まなくてもいいから冬花、お前も少し寝とけ。まだ当分着かないぞ」
運転席からそんな野次が飛んできたので冬花は大人しく、打瀬と同じようにドアにもたれ掛かり、瞼を閉じた。
暖房をガンガンに効かせている車内は暖かくて、窓に額を当てるととても冷たかった。
柏の運転する車に揺られる事数時間。柏と冬花は打瀬を本部の近くまで運んでくれた後、とっとと修行の場へと移動を始めてしまった。
次に会うのは何年後になるだろうか。無事に冬花ちゃんが成長してくれればいいけど、と打瀬は思う。
ついでにあの貧相な胸も育つといいだろうにな、と余計な事も心配し、
「いや、まぁまずはこっちの問題を片付けなくちゃだな!」
打瀬はまず鞄の中から眼鏡ケースを取り出し、眼鏡を装着する。
真面目な、仕事に専念するためのスイッチとしてその伊達眼鏡を掛ける。一種の自己暗示でもあり、この童顔の外見を整える為でもある。これで少しは有能そうに見えなくもないだろう。
車を降ろされて数分歩いた先、そこに神器の総本山、通称本部がある。歴史を感じさせる町並みを抜け、繁華街の中にひっそりと紛れ込んでいるビルが本部の入り口となっている。
木製の扉がふたつ並んでおり、そこをくぐると小さなエントランスに出た。エレベーターがひとつ、そして扉がひとつとその脇にインターホンがあるだけの何もない空間であった。
これが本当に本部なのかなぁ……と不安に思いながらも打瀬はインターホンを押す。日本のモノとは違い、ジリリリという耳障りな音が響いた。
『どちらさまですか?』
流暢なロシア語がインターホンから聞こえてきた。男性の声である。
『東京物産の打瀬です。事前にアポはとっていると思いますが』
やや間が空いて次に聞こえてきた言葉は日本語であった。同じ声という事は日本語も話せるという事なのだろう。
「打瀬さんですね。お話は聞いております。それでは合言葉をどうぞ」
「へ?」
合言葉……といわれても心当たりがない。アポを取ったのは打瀬本人であるし、その際にそんな言葉を聞かされた覚えも、まして聞き逃した覚えも当たり前だがない。
相手の伝達ミスをまず疑ったが、それを疑った所で仕方がない。
「もしかしてあなたは打瀬さんではないのですか?」
「い、いえいえ! 正真正銘、打瀬明海です」
「……どうも怪しいですね。合言葉を用意してそちらでお待ちください。それを提示できなかった場合……残念ながら命の保障は致しかねます」
「はい?」
そう男はいい残しインターホンからは音が聞こえなくなった。
……これは結構やばい状況ではなかろうか? と打瀬は冷や汗を垂らしながら思う。
合言葉、password、пароль……脳をひっくり返しても、英語、ロシア語にしたところでここ数年で何の聞き覚えもないフレーズである。
掲示という事はもしや言葉ではなくモノなのだろうか。いや、今はそんな事を考えても仕方がない。言葉であってもモノであっても何を掲示すればいいのやら、検討もつかない。
……ひとまず逃げよう。
不意によぎった考えに打瀬は耳を貸す。
そうだ。また再度アポを取り合言葉をしっかりと聞いて出直そう。また時間が掛かってしまうが、命と比べれば安い手間賃である。
180°ひっくり返り、木製のドアを開け撤退しようとした。
しかし、その時――、チン、という音が聞こえた。
後ろを振り向かなくともなんとなく分かる。それはエレベーターが到着した音だ。
今ここで逃げても直ぐにとっ掴まり殺されてしまう。打瀬が仮にユーザーだったとしても相手は本部直属のエリートのユーザーである。結局逃げる事は愚策に等しい。
覚悟を決め、打瀬はゆっくりと後ろを振り返った。
エレベーターから現れたのは白髪の男であった。顔つきはロシア人のそれで、ポマードかなんかで髪をオールバックにしている。歳はだいたい30の半ばくらいか。白いスーツ、白いネクタイとおよそ浮世離れしていて、いっちょ前に胸にバラの花かなにかを挿していた。
「ミス打瀬、合言葉をどうぞ?」
口ぶりは優しいが、険しい表情で歩み寄ってくる。
これはまずい、間違いなく人を殺す目だ。
冷や汗で眼鏡がずり落ち、腰が抜けた。距離を詰められ、打瀬はドアを背に崩れ落ち、この目の前の男を見上げた。
「あ、合言葉は……わ、わかりませ……」
男の手が伸びてきた。思わず目をぎゅっと閉じる。
だ、誰か助けて!
………………矢作くん……!
ポン、と。
肩に手を置かれた。
「奇遇ですね。私も合言葉なんて知りません」
…………。
………………、
……………………はい?
「いやぁ、ずっとつまらない仕事を押し付けられていて退屈していたもので……ちょっとしたロシアンジョークですよ」
この男の名前はベルエノーチと言い、歴とした本部直属のエリートユーザーの一人である。
合言葉というのはただの冗談で最初からそんなモノはなかったという。ただ私を困らせてからかいたかったんだそうだ。
打瀬は十二分に彼の暇つぶし兼、ストレス解消に奇せずして貢献してしまったので、そのお釣りとしてベルエノーチの顔面を思い切りぶん殴った。
素人である打瀬が思いっきり殴ったもんだから顔が妙に変に腫れてしまっているのだが、そんな事もお構いなしにベルエノーチは本部の案内をしてくれた。
やはり本部の人間は例外なくまともな人がいないのだろう。そう打瀬は肝に銘じた。
「ジョークにしては随分笑えませんでした。ロシアの方ってユーモアセンスがないんですね」
ニッコリと笑いながらベルエノーチに応える。
ユーザーである事にモノを言わせて、か弱い乙女を苛めるような下種な男には嫌味のひとつでも言わなければ気が済まないというものだ。
「ミス打瀬は手厳しいですね。さ、ではお仕事のお話をしますか」
しかしそんな皮肉も意に介さず、男は平常通りに振舞っていた。
悔しそうな表情を少し期待しただけにこの反応は打瀬にとってつまらないものだった。
「にしても……事務員の方はいないんですか?」
本部において非ユーザーの事務員が本来詰めているはずである。わざわざ特派員と呼ばれているユーザーのベルエノーチが直々対応というのは少し異常である。
「事務員の方々は……ちょっと今日はお休みしてましてね。そこで私が直々に対応を任せられたのです」
「はぁ、そんな事あるもんなんですか」
絶対におかしい、と勘繰ったが判断材料が足りない。そもそも本部について詳しく知らない打瀬は少し気に留める程度で思考を放棄した。
エレベーターを使い1フロア分降りて何もない通路を少し歩かされた後、事務所らしき部屋に案内された。やはりそこには事務員と思しき人物は誰もおらず、整理されたデスクがいくつも並んでいるだけであった。
『よぉ、どおした、随分イケメンになったなぁベル! ハッハッハ!』
いや、一人だけいた。ガラの悪い男が目に映った。母音を長く発音する英語は確かアメリカの南部訛りだったかな、と考える。だみ声なのはタバコの吸いすぎのせいか。
髪の毛はくしゃくしゃで何故かテンガロンハットを被っている。指に火が点きそうなくらい短いタバコを咥えながら笑い声を上げていた。その格好はどうみても事務員のそれではない。
椅子に腰掛けているがデスクの上に足を伸ばしきっている。そのデスクにはウイスキーとアイスペールが置いてあった。
なんというか……ホームレスとカウボーイを足して2で割るとこの目の前の男のようになるのかもしれない。
ベルエノーチは変に腫れてしまった顔面を皮肉ってきたその男に汚い英語で罵り返すと、ゴホンとひとつ咳払いをした。
「失礼、同僚のケリーだ。本名は……あー、まぁケリーで構わないだろう」
ケリーというのに反応し、
『ハイ、ジャパニーズキューティーガール』
と陽気に挨拶をしてきた。その陽気さにちょっとドン引きながらも、キュートと形容された事に打瀬は密かに気をよくしていた。
『ふーん、悪くない。今夜あんたのベッドの隣は空いてるか?』
ぞわっと背筋が凍った。
さっきまで座っていたはずなのにケリーは今打瀬の背後に立ち、そして打瀬の耳たぶに息を吹きかけていた。
酒臭い息が我慢ならないというのにさらに打瀬の胸を両手で掴んでいる。
所謂鷲づかみ。
「っ!」
無意識に腕を振り回した。
たかだか非ユーザーの破れかぶれの反撃である。彼らユーザーからしたら止まって見えているのだろう。
その推測は残念ながら正しく、ケリーに拳は届かずに終わってしまった。
『かっ! 元気の良いじゃじゃ馬ガールだ! こりゃベッドの上でしっかり手綱を握ってやらねぇとな』
振り返るとケリーは遠く離れた机の上に立って両手を叩き爆笑していた。
打瀬はその態度に顔を真っ赤にする。
恥ずかしさもあるが同時に悔しさも感じた。ユーザーに対しては打瀬はいつでも無力である。
「あーすいません、ミス打瀬。こういう失礼な奴でして……」
俯いてプルプル震えていた打瀬をベルエノーチが気遣った。
ケリーは謝るようなキャラではない。彼の尻拭いは同僚のベルエノーチの仕事である。
「いや……もういや!!!」
3人しかいない事務室に大声が響いた。
「もういやだ!」
かぶりを振りながらの悲壮な叫び声であった。それは勿論打瀬のものである。
それを聞いてベルエノーチ、そしてケリーも何も言葉を発する事はできなかった。
「なんでわざわざロシアまで来て合言葉だとかセクハラだとかされなきゃいけないんですか! 私もう嫌だ……」
嗚咽を漏らしながら打瀬はその場で立ち尽くし泣いてしまった。
ベルエノーチとケリーは互いに顔を見合わせる。流石にやりすぎてしまったという訳だ。
「……ミス打瀬、申し訳ありません。来賓に対する数々の非礼をお詫びします。後日正式に東京物産の方にも謝罪しましょう」
ベルエノーチは打瀬の前で恭しくかしずいた。跪き片手の拳を地面に突き立てるその姿は英国の騎士のようであった。
その様子を見て打瀬は不承不承頷いた。少しは機嫌を直したらしい。
『ケリー、お前も謝罪をしろ。彼女の目の前で』
ベルエノーチは語気を強めてケリーに促す。ケリーよりも流暢な英語であった。恐らくイギリス英語か。
ケリーは冷めた目でベルエノーチを睨み返す。
『んだよ。こんなん普通だろうが。こんぐらいで泣いてるようじゃさっさとこの世界を辞めた方がいい。幸いそのじゃじゃ馬ガールはユーザーじゃないんだろ? にしてもこの程度で泣き喚くなんざその少女が所属している組織もたかが知れるな』
打瀬はその言葉を聞いてさらに胸が詰まる。
ケリーのいう事は正論である。たかがこの程度で涙を見せればそれはそのまま東京物産の名誉にも影響してくる。
眼鏡を退け両手で涙を拭う。こんな格好悪い姿をいつまでも見せる訳にはいかない。
「……すいません、ベルエノーチさん。確かに彼の言うとおりです。私もこの程度で醜態を晒してしまって……お恥ずかしい限りです」
無理に笑ってみせ、打瀬もペコリとベルエノーチに頭を下げた。悔しさを抑えてうまく笑えた自信はないが、その強がりくらいは伝わっただろうか。
だがベルエノーチはノンノンと指を振った。
「レディーならばそれが普通の反応です。恥じる必要なんて微塵もない。それよりも……」
ベルエノーチは打瀬にはニコリと優しい一面を見せたが同僚のケリーに対しては険しい顔つきになった。
『ケリーもう一度言う。彼女に謝罪しろ』
はっきりと分かる荒々しい声。部屋にビリビリと彼の声が響く。
『ふざけんな。俺は悪くねぇ。そんな生娘じゃあるまいしたかが胸をもまれたくらい――』
『謝れと言っている』
今度は打瀬にもはっきりと分かった。
声を当てられただけで萎縮してしまうような、そんな覇気のある声。これは間違いなく殺気と呼ばれるソレだろう。
『……ははぁ、それでも嫌だと言ったら?』
ケリーは挑発するように笑みを浮かべ――
途端、ベルエノーチが動いた。
巨体に似合わず迅速な動き。その動きはケリーを捉えようとする。
打瀬はその動きを目で追おうとし、
――気付けば事は済んでいた。
ユーザー同士でのやりとりなど見た所で何も理解ができない。というのも基本的にユーザー同士の争いは時間軸が普通の人間とは違う。彼らの反射神経、運動神経は常人には捕らえられない動きなのである。
だから、首を動かし終わり彼らを目の端に捉えた時には既に争いは終わっていた。
『ファック! 本気だすんじゃねぇよ! 大人げねぇぞ』
『お前如きに本気を出したことなんて一度もないよ。ミスター3等位』
そこには組み伏せられているケリーと、涼しげな顔のベルエノーチがいた。
腕がらみ、言うならば4の字固めの腕版を決められ半泣き状態のケリーを見ると打瀬の心も少しだけ晴れた。
『さぁ、彼女に謝ってもらおう、話はそれからだ』
『オーライオーライ、ごめんねミスヴァージン、ほら、これでいいだろうが』
『そんなんじゃ駄目だ。土下座しろ』
What!? とケリーは声をさらに荒げる。ベルエノーチはケリーの腕を締め上げたまま、ズリズリと打瀬の前までやってきた。
『ジャパニーズ土下座ァ?! 馬鹿か! ほら、お前も何か言ってやれ、そこまでやる必要ねぇよなぁ?』
ケリーは身体の自由を奪われたまま、愛想笑いを打瀬に向けた。
だが目だけは笑っていない。
お前後でぼこられたくなければ……分かってるよな?
と言わんばかりのギラギラした目つきであった。
確かについ先ほど打瀬は奴の粗相を許したばかりである。ここまで来て謝らせるというのも何か格好がつかないよなぁ、と思いつつ……
「どぅー、いっと、あっと、わんす」(さっさとやれ)
とつい言葉が出てしまった。
思わずニッコリともしてしまった。
その言葉を聞いてケリーは口を開けたまま固まった。
非ユーザーは誰でも言いなりになるとでも思っているのだろうか。だとしたらそれは誤りであると教えてあげる為にもここは敢えて土下座を要求するのも悪くはない。
と、ここでケリーは豹変した。
まるで何かを押し殺してるかのような、例えるなら動物園で檻越しに猛動物を見ているような感覚。
今にでもベルエノーチを振り払って襲い掛かってきてもおかしくない、そんな気配に打瀬は無意識に一歩退いた。
『……ケリー、分かってると思うが本部の人間が一般人を襲ったとなると……私はお前を殺すぞ』
ベルエノーチがそれを諌める。そこでようやく冷静になったのかケリーはため息を吐き、大人しく
「sorry」
と、ぶっきらぼうに謝ったのだった。土下座である。テンガロンハットに隠れてどんな表情をしているのかは分からなかった。
しかし打瀬の内心はドキドキしたままであった。さっきまで殴りかかってきそうな雰囲気を醸し出していただけにこの状況は酷く落ち着かないものである。
だがケリーはそんな瑣末な事は気にしていない様子である。大人しかったのもつかの間、「だけどな!」と元気に跳び上がった。
『ヘイガール。良い事をひとつ教えてやる。この伊達男はお前をからかうために本部の事務員全員を帰らせた張本人なんだぜ。事務員が一人もいないのはこいつのセイだ』
直後。
ベルエノーチもケリーの隣で彼女に対して土下座をした。
「という訳でそろそろ本題に移りましょうか」
ベルエノーチとケリーの小競り合いで散らかった書類を片付けながらベルエノーチは話題を切り出した。
「東京物産が潰されたので、その間の東京のユーザー同士の喧嘩を治めてほしい、という事でしたね」
片付けた書類をまとめてベルエノーチはデスクのPCを起動させた。
ケリーは椅子の背もたれを抱きかかえた体勢でベルエノーチのつけたPCを背後から覗き込んでいた。
「はい、よろしくお願いします」
OK、と画面を覗き込みながらベルエノーチは打瀬に返事をする。今頃画面には派遣員の情報がびっしり載っている事だろう。マウスをカチカチとさせながら、険しい形相で画面を睨みつけている。
『……かわろうか? ミスター機械音痴』
『…………すまないケリー』
いや、どうやらそんな事もなかったようだ。本部のPCはさぞ複雑に設定されているのだろう。
キャスターのついた椅子をコロコロと移動させケリーが今度はPCを触り始める。
『で、何を調べりゃいいんだ?』
『日本に近い特派員を頼む。そのペアに東京に在中させしばらくの間ユーザー同士の争いを仲裁させる』
『日本……? おぉ、丁度アジアにハルナがいるぞ。あいつに任せてみよう』
ケリーはハハハと笑いながらベルエノーチに提案する。
『面白いジョークだな。回収した神器は全て横流しさせるつもりか?』
ハルナ、という名に打瀬は聞き覚えがあった。依然調べたことがあり、その情報は確か天堂類子とかいう鬼麻エージェンシーに所属している人に渡した事がある。
ハルナという人は確かフェイズCという異常事態を24回も収めた実績を持っているが命令違反の回数は確か3桁だったと記憶している。なるほど、確かにそんな人物に任せたら治まるものも治まらないだろう。
『あーアジアにいるぞ。ナンバー25とナンバー19が』
こんなパッとしない奴ら俺はしらねぇけど、とケリーが零す。
『25と19……なるほど、彼らなら適任かもしれない』
だがベルエノーチは知っているらしい。その数字を聞いてウンウンと頷いているが番号で話されても打瀬はちっとも理解できない。そんな不満が打瀬の表情に出ていたのだろうか、ベルエノーチは打瀬に向けて補足する。
「ミス打瀬も知っているはずだ。最近東京物産に出向いていたそうだからね」
はて、最近東京物産に来た本部の人……と少し思い返して直ぐに思いついた。
フワフワとした喋り方。山王に対し何故かかなりの敵対心を持っていた女性、黄村咲羅。
その黄村が働いている一方でずっと東京物産の食堂に立てこもり片っ端からメニューを平らげていた男性。
あんな人達でも本部においてはまともな類になってしまうのか……、とは思ったが、
「ありがとうございます。ミスターベルエノーチ」
と引きつった笑顔でそう答えた。
◇
終日禁煙という張り紙もこの山王に対してはただの紙っぺらなのだろう、とある病室でベッドに横たわったままタバコを吸う入院患者が一人いた。
雪音に対し隠し持っていた最後の一本である。これでもうストックはなくなってしまう。
だがもうストックがあった所で意味はない。それを山王は理解し最後の一本をゆっくりと時間をかけて味わう。
「よぉ」
天井を眺めながら山王は来訪者に向け挨拶をする。
「おや? あなたの介護士はどこにいったんですか? いけませんねぇ、しっかり見張っておかないから病室でタバコなんて口にしちゃうんですよ」
「お前の差し金に食らいついていったよ」
「ん? 何を言ってるんですか? ついに痴呆も始まっちゃいましたか?」
その来訪者は口をへの字に曲げ困ったように両手をあげた。
「なんとでも言ってろ」
山王はへへっと笑う。確かにこの目の前の男が仕向けたという証拠はない。
ただ、丁度雪音がいなくなった頃合を見計らったかのようにこの男が現れたのがどうも腑に落ちなかっただけである。
「では山王さん、介護士が戻ってくるまで僕と少しばかりお話しましょう。ずっと入院生活で退屈だったでしょ? タバコにバイク雑誌も買ってありますよ」
ガサガサとコンビニの袋から山王の趣味といえるモノを取り出し、そして不躾に山王に投げつけた。
「タバコなんて口にしちゃいけないんじゃねぇのか?」
「でも山王さんコレがないと困るでしょ?」
そういって来訪者は目を細めた。だがこれらはただの機嫌取りだと分かっているだけに素直には喜べないのだが。
だがタバコに罪はない。箱から取り出し、白く整列されているシガレットに頬を緩ませ最初の一本を取り口に咥えた。
「で、何の用だ? 鈴木」
ここで初めて来訪者に目を向けた。
ついさっきまで雪音が座っていたパイプ椅子に座っているのは、山王を病院送りにした張本人である鈴木その人である。
足を組み、不適な笑みを浮かばせながら山王を見つめている。
「ある人物の居場所を教えて欲しいんです。打瀬という人物と柏という人物です」
「へぇ? あいつらに何の用が?」
「別にあなたは知らなくて良い。いや、知らない方がいいでしょう」
その方があなたの為だ、と鈴木は山王をじっと見やる。
その視線に嘘はない。
あの時のようなふざけた雰囲気でもない。
ただ真面目に、説得だけをしにきている、そんな印象を山王は受けた。
「取引です。あなたは何も見ていない、何も聞いていない。ただ居場所だけを教えて後はのうのうと隠居でもしていればいい」
「なるほど。そのために雪音を追い払ったってのか」
「それはたまたまの偶然です」
「……抜かしやがる」
さて、と山王はここで考える。
確かに山王はその二人の居場所を知っている。
そしてこの取引に応じなければ……おそらく殺されるのだろう。
相手は手負いでかつ真っ向勝負でつい最近勝利を収めた敵である。鈴木からして山王にトドメを刺すのは容易い事であるのは違いない。
だが鈴木はひとつ勘違いをしている。
「答えはノー。死んでも教えてやれんなぁ」
「……その結果僕があなたを殺すとしても?」
「今言っただろ。死んでも教えてやんねぇって」
今更死ぬのが怖いとか言ってられねぇんだよ。
死ぬのが怖いと思ってこんな稼業を続けられるかって話だ。
そうですか、と鈴木は残念そうな表情を浮かべ……口端が釣りあがった。
くく、とその口からは笑い声が漏れ始めている。
「うん……うんうん……格好いいなぁ、えぇ? 最高に格好いいなぁあんたぁ! その方が苛めがいがあるってもんだもんだしなぁ、くくく」
鈴木は立ち上がり山王の瞼に指を突きつけた。
山王はその手を払いのけようとし、しかしそれよりも早く神器の気配が濃くなり――、
「……っ!!!」
山王の目は潰れた。
神速の如く顕現された鈴木の神器は用途を果たしたと同時に鈴木の体内に引っ込んでいった。あの時の戦闘と全く同じ事象が起きていた。あまりの一瞬の出来事に相手の神器がどんな形態をしているかすら把握することができない。
「ん? 気持ちよかったら声を出して喘いでもいいんだぜ? 山王ちゃん?」
山王の左目からは血があふれ出ている。血に塗れてなおその眼球に穿たれた穴がはっきりと見えた。
「じゃーもう片方の目もいっちゃうか」
同じように鈴木は右目の前に人差し指を突きつけ……、
鈴木はもう片方の手で山王の大太刀を防いだ。
「うん、無駄無駄。大人しく眼球ほじくられようぜ?」
破れかぶれに自身の神器を顕現させ、鈴木に斬りかかったのだがそれを鈴木は片手で受け止めている。
神器の太刀筋を防ぎうるモノ、それはやはり神器にしか不可能である。恐らく鈴木は片方の手に神器を顕現させそれで防いでいるはずである。
その神器とはなんなのか。しかしそれを見ようとしたところで山王のもう片方の目は鈴木の指により潰された。
「どう? どうなのよ? 眼球を端から端まで愛撫される感触を教えてくれよ」
鈴木は指でグリグリと山王の瞼に指を突っ込み蹂躙している。
今までに味わったことのない、苦痛、痛みに顔を歪ませる。
……だがこれでいい。
奴の左腕は俺の大太刀を防いでいるのに使っている。
奴の右腕は眼に指を突っ込んでいるのに使っている。
山王は空いた手にベッドに隠し持っていたナイフを握った。神器でもなんでもない、ただのナイフ。それは視覚的に隠してさえいれば気配を発することもない。
そしてそれを鈴木の腹に突き刺す。
ユーザーと言えどもただの人間である。
行き過ぎた能力を得た所でただの刃物で殺す事は十分に可能である。
「は……?」
声だけでしか判断できないがうまくいっただろう。鈴木が一歩ずつ後ずさっているのが分かった。
鈴木の神器は太刀を防ぐのに使っており、片方の腕は眼球を抉るのに勤しんでいた結果その身体はがら空きとなっていた訳である。この様な拷問紛いの事をされたまま反撃にでるとは思っていなかっただろう鈴木の油断につけこみ、山王の悪あがきは見事に鈴木に届いたのだった。
「て、てめぇ……」
「ははは! その様子じゃうまくいった様だな。その顔が見れないのが心残りだな」
手の印象からそれなりに深くまで突き刺さったはずだ。このまま放っておけば失血死も期待できるが……それでは甘い。
さて、と山王は枕元に隠してあったあるモノを手に取る。相手の機動力が落ちている今しか使うタイミングはない。
「東京物産を壊滅に追いやったお前をおびき出す為に東京に残ってたんだが……お前が来てくれて本当によかったよ」
そんなの雪音は知らないだろうがな、と山王は内心で呟く。
その手に握られているのはM67破片手榴弾。あるルートから入手し、矢作にこっそりと届けさせたモノである。当然こんな物騒なモノを隠し持っているという事は雪音には内緒にしておいた。
「東京物産エース、山王の最後の仕事としちゃあ華があるだろ?」
安全ピンを抜き信管に点火させそのまま手に隠し持つ。この至近距離で爆発させれば、この病室にいる以上例えユーザーであっても致命傷は免れない。
そして……それは同時に山王にも言える事である。
――4
そういえば雪音は無事なんだろうか。
――3
矢作はうまく天堂の真相にたどり着けるだろうか。
――2
打瀬はうまく身を隠してるんだろうな?
――1
……冬花は強くなるんだろうなぁ。
山王は鈴木の足元目掛けて放擲した――0
意外に悪くない人生だったな
――窓ガラスの割れる音。空気が破裂し、撒き散らされた破片は辺りを等しく破壊し尽す。
山王の身体に殺傷力を以って突き刺さる硬質鉄線。百戦錬磨のユーザーといえどもその身体はただの人間に過ぎず、手榴弾は簡単に山王を死に至らしめた。
カーテン、ベッド、蛍光灯、部屋にあった備品は例外なく手榴弾の破片によりズタズタに切り裂かれ、その光景は凄惨を極めた。
しかし……山王は穏やかな表情のまま、その命を全うしたのであった。
◇
しばらくし雪音は息を切らせたまま戻ってきた。
そこは吹き抜けとなった病室。
差し込む夕日と風になびく引き裂かれたカーテン。
最早用途を成さない程に壊されたパイプ椅子。
そのベッドの脇には一本の黒い大太刀が転がっていた。
ベッドの上に静かに横たわっているのは全身血まみれの山王の死体。
目をくり抜かれながら、しかしその表情は何度も見たことがある。
してやったぜ、と山王は得意気に笑っていたのだった。
次回はふざけた番外編を載せるつもりです。




