神器の鍛錬
「鈴木!」
「はいはい、なんでしょう?」
どこにでもあるようなオフィスデスクを挟み、鈴木と呼ばれた男は小走りで近寄り会話に応じた。
「東京物産の壊滅についてはよくやった……と言いたいところだが実は第三者が生き残りをかき集めて物産の建て直しを図ってるらしい。お前はその阻止に当たってもらおう」
「あらら、第三者ときましたか……そのお方はユーザーなんで?」
阻止、という事はそいつを殺せといっているのだろう。しかしあの東京物産をもう一度纏め上げようとしている人物である。ユーザーであるとしたら相当強いのかもしれない。その強い奴を地に伏せさせることができるとなると……想像だけでも気分が高揚してくる。
「いや、一般人だが各地方の情勢は勿論、依頼のやりとりも相当手馴れている人物だ。ほっといたらまた勢力を増して復活する恐れがある」
ユーザーではない……と。
鈴木は露骨に嫌そうな顔を浮かべる。
能力が優秀であっても強くなければ意味はまるでない。
「……あのーすいませんがいいですか」
「ん? なんだ」
「そんな生命力逞しいゴキブリみたいな奴の相手は他の愚図に任せるとして……今東京に来てるらしい奴と僕遊んでみたいんですけど」
「はぁ? 何勝手な事言ってんだ」
「いやね? なんでも今あの畦間って奴が東京にいるって話じゃないですか。あの人をぶっ殺しに行くって任務の方が僕的にはいいかなぁ~って?」
畦間……? と男は口に出し考える素振りを見せ、途端に思いついたのだろう、声を荒げた。
その名前は有名であり、神器の界隈に関わる者であれば知らない者はいない。思いつくまでに間が空いたのはまさかそんな大物の名前をここで聞かされるとは思ってもみなかったからである。
「っ、! ふ、ふざけるな! BBRを敵に回すつもりか!?」
「あはは……まぁそうなっちゃいますかねぇ?」
男は机を両手で叩きつけ、立ち上がった。感情のまま怒鳴りつけようとしているが……どうやら抑えるコトに成功したらしく、一息つきまた椅子に座った。
目の前のこの戦闘狂をどう説得するかを考えながら、口を動かす。
「鈴木、お前は、なんていうか分かってない。東京物産を潰せたのだって入念な準備期間があってこそだったんだ。それを思いつきの様にBBRとドンパチを構えて何に――」
「分かってねぇのはお前の方だよ」
鈴木はデスクの上に飛び乗り、椅子に座ったままの男の首を捕まえた。
「確かにお前は俺より偉い。が、てめぇみてぇな雑魚はいくらでも代えがいるってしってっか?」
そのまま首元を掴まれ宙吊りにさせられる。騒ぎに気付き始めた周りの社員は自身の作業も忘れ、その光景を呆然と見ていた。
「す、ずき……おま、え……!」
男は必死に手を振りほどこうとするが、鈴木は締め付ける力を緩めたりはしない。
「なぁに、あんなリボンまいてるだっせぇ輩には束でかかられても負ける気がしねぇよ」
流石に異常事態である。見かねた他の社員が止めようと、鈴木に声を掛けた。
「やめなさい鈴木君! 悪ふざけでもやっていい事と悪いことが――」
「あぁ? これはやっていい悪ふざけだろ。っつかこの程度でぎゃーぎゃー喚くなよ雑魚共が。アイツに聞かれたら面倒だろうが」
鈴木は他にも仲裁に入ろうとした社員を視線だけで黙らせる。その視線、口調に同僚への配慮だとか仲間意識といったものは欠片もない。
「騒がしいと思ったら……またお前が原因か、鈴木」
明らかにこの場に不似合いな異質が声がした。
ただの社員ではない、声だけでそう分かるはっきりとした声。それは今部屋に入ってきたばかりの女のモノである。
社員の一人が駆け寄り、事態のあらましをかいつまんで説明し、それを聞いた女性は大きく頷き、ため息を吐いた。
「全く……前の東京物産壊滅の時も私の許可なく勝手に単独行動をおこしてたらしいな。お前はいつになったら年相応の行動がとれるようになるんだ? そんなんだから出世ができないんだよ」
鈴木は振り返りその女の姿を捉え舌打ちした。聞かれたくないアイツ本人が来てしまった。
堂々としていて、鈴木の鋭い視線をものともせず、真っ向に鈴木を睨みつけてくるその女はここの所長である。短髪、釣り目で両耳に少し派手なピアスをあけている。Yシャツにズボンと、清楚で真面目そうな印象を受けるが、そのボタンを留めている箇所の少なさからか砕けた雰囲気になっていた。
「いやいや、でも僕がいなかったら失敗してましたよ。一条君のケツを誰が拭ってあげたと思ってるんですか」
とにかくだ! と凛とした声を張り上げる。鈴木とまともに言い合うつもりはないらしい。
「お前の任務は物産の後始末。BBRと遊ぶのはその後だ。分かったか?」
「あーあーはいはい、分かりましたよっと」
掴んでいた首を興味げなく放り投げ、机から飛び降りた。その際に束に積まれていた書類が床に散らばったが鈴木は目も向けずに歩き始めた。
「じゃあいってきますね。中林さん」
と、すれ違い様に尻をポンと叩く。
中林は女性であり、当然鈴木のこの行為は不快極まりないものである。
「おい、鈴木……お前――」
ゾクリ、と。
流石の鈴木も思わず足を止め身を竦めてしまった。
「何なら今殺すぞ?」
目を据わらせ、中林は神器を顕現させる。
その瞬間殺意は重量を持ったかのように、鈴木の周りに重く纏わりついた。
今にも殺されそうな空気である。本来のユーザーとしての動きを間違いなく阻害させるであろう、それほどまでにその殺気は重い。
コレほどまでに人は分かりやすく殺気を放てるのか。
5メートル程鈴木と中林の距離は空いているのだが、この距離は生き残るのに十分ではない。今、間違いなく鈴木は半分死んでいる様な状態であり、半分生きられているのは中林がまだ本気をだしていないからである。
「じょ、冗談ですって……いやだなぁ、そんなムキにならないで下さいよ」
「冗談かどうか、今確かめさせてやる」
一歩。
中林が歩いた所で鈴木は消えていた。
本能のままに、ユーザーとしての最高の速度で逃げたのだった。ドアを開ける手間も惜しみ、蹴破っての逃走である。
鈴木がいなくなると、重苦しい空気は途端、嘘の様に霧散した。同時に中林も神器を仕舞う。
「やれやれ……あんな男の実力がウチのNo.2とはね……おい、お前等起きろ」
残された中林はまず、事務所にいた社員らを片っ端から起こす。
何も彼ら全員が一般人ではない。それなりに有名なユーザーも混じっているのだが、中林の殺気に中てられてまともに動ける鈴木が異常なのである。
「確かにBBRとやりあえるってのは伊達じゃないんだろうなぁ」
性格に難はあるが中林は鈴木という男をそう正しく再評価した。
神器の鍛錬
冬花は柏の言葉、矢作の家なら見張りもいるし安全だろうから今日はそこに泊まらせろ、という主張を正しく理解した。
まず向かえの車からして異常であったし、専属のドライバーというのもおかしいと思っていた。
だが、だからといって。
矢作の実家がここまで敷地の広い、日本庭園も兼ね備えた旧家であるとは想像もしていなかった。
更に言うならば……
「若、お帰りなさい! そのお連れのスケは……?」
と、ヤクザ全開の禿頭の男が深深と頭を下げ矢作を出迎えた所で気付いた。いや、確信できた。
矢作さんはヤクザさんの息子さんなんだぁ、と。
「まぁ友人だ。悪いけど空き部屋を2つ宛がってやってくれ」
そう言われると禿頭の男は冬花と柏をギロリと睨んだ。
なんていうか本物というだけあって本当に凄みのある視線である。冬花は無意識に両手をあげて無抵抗さをアピールしていた。対して柏は涼しい顔でその視線を気にもしていないようだ。
しばらく二人を観察してから、なにやら納得したようにひとつ頷いた。
「ご友人でございやしたか。随分若いイロを連れ帰ってこられたのかと驚きやしたよ……」
「……よけいな詮索いれてっとまた若頭から半殺しにされるぞ?」
「し、失礼しやした! 何卒ご容赦くだせぇ!」
慌てた素振りで禿頭の男は矢作に向かって頭を下げた。それをあーいいから、と矢作は宥める。
「それよりも疲れたから部屋案内してやって」
「へい、かしこまりやした。ささ、お二方。こちらでございやす」
そういって禿頭の男は長い廊下を先に歩く。冬花はこの漫画でありそうな男の喋り方に吹き出しそうになっていたが、笑ったら殺されると戒め、顔を引きつらせていた。
きっとこの世界では普通の喋り方なのだろう。そう納得しながら冬花は柏と共に廊下を歩く。
少し歩いて分かったことだが、どこぞの民宿か、と思わせる程にその屋敷は広かった。
通路の脇には生け花が飾られているし、……そして刀も飾られている。
なんだろう……雪音さんの家が、自分の家が、こんなに恋しくなるとは思ってもみなかった。
廊下を歩いている間、スーツを着た怖そうな人達が矢作に挨拶をしていくのを見て、矢作さんの見方を今後改めるべきか、等と思いながら出来るだけ目を伏せて冬花は歩くのだった。
□◇□
大浴場とでも言うべき風呂をかりて、貸し出された着物を着て冬花は自室に戻った。
そう、着物である。浴衣なんかではない。
着付けが分かっていない冬花は今、着物というよりも布を巻きつけて歩いているといった方が適当かもしれない。
自室に戻るまでに誰ともすれ違わなかったので、その恥ずかしい格好は幸いにも誰にも見られずに済んだ。
いや、ある二人にだけは見られてしまう訳なのだが。
冬花は自室のフスマを開けるとまず矢作と柏の二人の姿が目に映った。
そしてお猪口がふたつ。とっくりとつまみらしき料理が机に雑然と並んでいた。日本酒を酌み交わしながら楽しそうに談笑している。
「……なんで私の部屋にいるんですか」
「おぉ、冬花か! なんだその格好!」
あっはっは! と大爆笑をしている柏。柏にも着物が貸し付けられたのだが、悔しい事に彼女はしっかりと着物を着こなしている。まぁ酔いのせいか、今はそれなりに着崩れていているのだが。
その結果はしたない乳が零れそうになっている。
これでは本当に本物の娼婦ではないだろうか。そんな事を思ったが当然口にはしなかった。
口にはしなかったが、その乳を見て冬花は舌打ちをしておいた。
「いやぁ、なんかこの人が3人で話したいとか」
「話……で――」
すか? という言葉の続きは矢作の格好の印象によりかき消された。
矢作も風呂上りだからか、薄いTシャツに綿パンというこの時期にそぐわないラフな格好をしている。
お陰でその背中からは薄っすらと恐ろしい柄が浮かび上がっている。
そこにあるのは龍と鬼。仰々しく、凶凶しくその2匹がにらみ合っている画がそこには薄っすらと浮かんでいた。
「……その刺青は」
触れない方がいいのだろう、だがつい思わず口に出てしまっていた。
「あぁ、なんか彫られた」
だがあっさりと矢作は応える。本人にはとてつもないモノが背中にあるという実感がないということなのだろうか。
……やっぱり今後矢作さんとの付き合いを考えた方がいいのだろうか。
「冬花もいつまで突っ立ってるんだ。はやく座るといい」
「は、はい」
と、少し余計なモノに気を取られたが大事なのは話の内容である。
冬花はひとまず用意されていた座布団に座った。そこは矢作の隣である。
なんとなく座り方が少しぎこちないものだった。
「よし、では第1回東京物産臨時会議を始めるぞ」
柏はお猪口を掲げてそんな事をのたまった後、一口で仰ぎきった。
会議とはこんなふざけたノリで行うものなのか。それとも物産のノリがこんなものなのか。苦笑いを浮かべている矢作の様子を見るにこの柏という人物が特別なのだろう。
「始める前にひとつ……矢作、物産に戻ってこないか?」
「あーすいません。ちょっと思うところがあって……」
困ったように愛想笑いを浮かべると、柏はそうか、と軽く受け流した。元から本気で勧誘するつもりではなかったらしい。
「と、軽く振られた所で本題に入るか。明日の修行についてのミーティングだ」
今度は柏の視線は冬花に配られる。酔っていてもハキハキと喋り常に堂々としている。
「へー明日からやるんですか。冬花ちゃんも大変だ」
矢作は我関せずと他人事のようにつまみを食べながら相槌を打った。
机に並んでいるおつまみはチャーシューにポン酢ドレッシングの掛かったもの、オクラと絹豆腐のゴマ和え、カツオの叩き、枝豆、唐揚げとかなり充実していた。
「山王が回復するまでは雪音が護衛に当たっているし、一条は死亡、矢作が辞めてる今、冬花を守れる奴がいない。だから早急に強くなってもらわないと困るわけだ」
「早急に、ねぇ」
矢作は横でおつまみを食いまくっている女子高生を見る。
とても美味しそうに食べる姿は女子高生らしくて微笑ましいのだが、殺気を中てられてまともに動けなくなってしまうのも、どこまでも女子高生らしいのである。
これでは殺人者として動けるようになるまでには相当の時間を要するだろう。
矢作のそんな気持ちを知らずに、冬花は話半分におつまみの出来に舌鼓を打つのに余念がない。
唐揚げは衣がサクサクで中の鶏肉は熱々で軟らかいし、この豆腐とオクラの和え物もスッキリしていてから揚げといった油モノとのバランスがとてもいい。
こんな料理ならあの酷くまずいラーメンをお腹一杯に食べた後でもいくらでも入ってしまう。
……と、料理に夢中になっている冬花でも流石に柏の次の一言だけは聞き逃さなかった。
「何、早急といっても2年くらいは見積もっている。それまでには一人前まではいかずとも半人前までには育て上げられるだろう」
そう柏が力強く宣言し、冬花はそこでむせた。のんびりと飲んでいたオレンジジュースが器官にはいった為である。
「なんだ冬花、ゆっくり食え。落ち着きがないぞ」
「いえ、その前に、に、2年ですか!?」
冬花は現在高校2年生である。2年後は順当に行けば大学生になっている頃である。それまでずっと修行をするというのか。
「でも……あの、受験勉強とかが……」
冬花だけがおろおろと戸惑っている。矢作も柏もその様子を落ち着きながら、いや、哀れみながら見ていたのかもしれない。
「……過酷なお話だけどさ、冬花ちゃんはもう学校には……その、行けない……かも」
矢作が言葉を選ぶように、慎重に冬花に告げた。冬花はそれを何かの冗談かと受け止め笑いながら返事をする。
「え、ちょっと待ってくださいよ。それってどういう意味なんですか?」
「どういう意味も何もそのままの意味だ。私から言わせてもらえば神器と契約しておきながら今までどうして学校に通っていたのか理解に苦しむな」
柏はそういい切ってお猪口を仰ぐ。柏と矢作の表情を見比べ、冬花の笑顔は段々とぎこちないものになっていた。
「で、でも! 山王さんや雪音さんは何も言ってませんでしたよ?」
そうだ、学校に行って何か不都合があるんだったらその時にあの二人が止めていたはずである。
何も私は殺し屋になるつもりなんて毛頭ない。由真を止められればそれでいいのである。
「あの時とは訳が違うんだよねぇ……ほら、今は東京物産っていうある意味ここらの治安組織がいなくなっちゃったからさぁ」
「治安組織……ですか?」
矢作の言としてはこういうことらしい。
今まで東京物産という老舗の殺し屋集団が居たため、迂闊に悪さが出来なかったユーザーがいたのだが、今は物産がいなくなっている。
そこでどこにも所属していないユーザーが他の神器を狩る為に、徘徊し始めたといった訳だ。
「そうだね、物産の影の役目を今からこの唐揚げとポテトで説明しよう」
矢作はそう言って唐揚げとポテトが山盛りになっているお皿を引き寄せる。どちらも山のように積まれており、とても3人では食べきれない量である。
「ポテトっていうユーザーと唐揚げっていうユーザーがいるとする。お互いがお互いの神器を奪おうと争います」
矢作がガシーン、ジャキーンと言いながらポテトと唐揚げをお皿から減らしていく。どうやら戦いを表しているのだろうが、しかし大の大人が効果音と共に料理を取り分ける画は相当シュールなものであった。
「で、お互い疲弊しちゃって残りの量もこんくらいになっちゃうでしょ?」
残ったのは唐揚げ2つにポテトがいくつか。この二人は相当な消耗をして尚決着がついていないようだ。
「そこで東京物産の出番。東京物産の役は冬花ちゃんとして……冬花ちゃんならどうする? 目の前に美味しそうなから揚げとポテトが少しづつ残ってたら……」
矢作はそう言って冬花を見る。
その顔色は複雑そうであり、どうやらあまり理解してくれていないと矢作は悟った。
「ほら、冬花ちゃんなら全部食べちゃうでしょ? そういう事だよ」
矢作は適当に説明を切り上げ、残った唐揚げとポテトをモゴモゴと口に詰め込んだ。
「えっと……つまりどういう事なんでしょうか?」
冬花は申し訳なさそうにもう一度聞くが矢作はこちらを向いてくれない。説明責務を放棄するらしい。
「矢作、お前のたとえ話は恐ろしく分かりづらいな。まぁ要するにだな――」
二人のユーザーが争っていると東京物産が出向き、二人の神器を取り上げる、ということらしい。わざとしばらく争わせ、ユーザー同士が衰弱しきった所で物産が美味しい所だけを得る、まさしく漁夫の利を体現しているのであった。
「でも、どうして神器を狩るんですか?」
「なんだ、知らないのか? 神器には賞金が掛かってるんだ。金持ちの好事家か誰が賭けてるのか知らないが、例外なく全ての神器にな」
冬花はその情報を加味し、もう一度整理する。
神器はお金になる。
だから誰かが神器を奪おうとする。
奪われる側も必死に抵抗する。
そうしてる間に東京物産が来て二人の神器を取り上げる。
結果……得をするのは東京物産だけ!
「な、なるほど! だから東京物産がいる間は迂闊にユーザー同士で争いがなかったんですね!」
「……俺が最初にそう説明したつもりなんだけどなぁ」
矢作のそんな愚痴に冬花は愛想笑いを浮かべる。
確かに理解できれば分かりやすい例えだったのかも……でもごめんなさい、矢作さんの説明は全然訳が分からなかったです。
と、胸中で謝罪しておいた。
「今まではユーザー同士が争ってれば誰かしらを派遣していたが、今はそんな人材がいないからな」
柏がそう独り言を漏らしているのを冬花はへぇーと適当に聞き流し……重要なコトを思い出した。
「……あの、じゃあ……」
顔が青ざめていくのが分かる。
矢作の家は安全。
学校には行けない。
東京物産は今はない。
今ようやくその情報が意味している事が理解できはじめた。
「そうだよ。冬花。お前は今由真だけではない、そこらのユーザーからも狙われているんだ。金の為にね」
だから今まで以上に一人で行動なんてできない。
学校に行ったとして私が友人と一緒にいてもその友人を巻き込んでしまうかもしれない。
だから……もう飛鳥には会えない。
それだけではない、学校の数少ない友人達ともう会うわけにもいかなくなる。
大学受験なんてちゃんちゃらおかしい。仮に大学に合格できたところで、そこに通う事はできない。
普通としての人生、それは只のハリボテでできていたらしく、今、音を立てて崩壊したのだ。
いや、ユーザーになった時既に本来崩壊していたのだが、現実として突きつけられたのはたった今なのである。
想定していた事なんだから平然としていなければ。そう思えば思うほど今までの普通の生活が思い返されてしまう。
友人と学校で馬鹿な話に興じて、帰りにクレープを食べて、休みの日にカラオケに行ったり。
有り触れた退屈な、しかし愛おしいその日常はもう帰ってくることはない。
「だから今は学校なんて行ってる場合じゃないんだよ。でも冬花ちゃん、君を責めるつもりで言う訳じゃないけど……ユーザーになるのは普通の世界全てを棄てるという覚悟があっての――」
「やめろ矢作」
矢作の慰めようとしたのか煽ろうとしたのか分からない言葉を柏はピシャリと遮った。
柏は黙って顎で冬花を指し示し、矢作は冬花の様子を覗き込むと、
「……う、うぅ……」
ユーザーになること、普通の世界を棄てる事。
どれも甘く見ていた訳では決してない。
しかし……突きつけられた現実は想像よりも重く、その若い背中にのしかかる。
覚悟していたはずなのに。決して流してはいけないはずなのに。
冬花には溢れる涙を抑える事ができないのであった。
冬花は長い時間をかけ顔を洗い直した。というよりも気付けば長い時間顔を洗っていたと言うべきか。
再び部屋に戻ると机の上は全て綺麗に片付けられており、畳みの上に丁寧に布団が敷かれてあった。矢作が気を利かせて用意させたのか、その布団の上に浴衣がおいてある。
柏も矢作も部屋に戻ったのだろう。私が泣いてさえいなければもっと楽しい場だったのかもしれないのに。
冬花は反省しながら、着物をぐちゃぐちゃに脱ぎ、浴衣に着替えた。しっかり畳もうとも思ったが、まぁ畳み方が分からない訳で、取り敢えず皺にならないように広げて隅において置く事にした。
取り敢えず電気を消し、布団に潜り込んでみた。
「明日から修行か……」
何度目か分からない独り言。
「学校にももう行けないのかぁ」
顔を洗いながら何度もした。
「……これからどうなるのかなぁ」
しかし何度したところで何も変わらない。
いや、契約をした時点で全てが変わっていたのだ。
「眠れないし……」
はぁ、とため息をつき寝返りを打つ。
時刻は2時を過ぎている。
本来なら肌の為にも、健康の為にも眠っているはずなのだが、どうしてか胸が高まって眠る事ができなかった。
それもそうだ。今こうしてる間にも私の神器を狙って襲ってくる連中はいるかもしれないのだ。
神器の気配を辿って今にも私に近づいてきているのかもしれない。
それこそ……今日の昼間に出会った畦間のような人が――。
「っ、――、!」
まずい、と思ったが既に手遅れであった。
吐き気が、目眩が、頭痛が。
畦間、という言葉に反応してそれらが冬花に襲い掛かる。
布団を被る。
耳を塞ぐ。
目を閉じる。
(嫌だ……死にたくない……!)
蹲って全身を抱きかかえてもその震えは止まらない。
どこが上で、どこが下か。意識がぐるぐると回り、目を開けた。
出し尽くしたはずの涙がじんわりとまた浮かんでくる。布団の中で包まり、自分の荒い吐息だけが聞こえる。
早く朝になれ、と願う。
誰かに触れたいと思う。
とても自分一人の力ではこの震え、気持ち悪さは解消できない。
(助けて……誰か助けて!)
心の中で必死に叫ぶ。しかしその声には誰も応えない。
「……冬花ちゃん?」
いや、何か聞こえた。
男の声。ついさっきまで聞いていた声である。
布団からのそりと顔を出し、その声の主が矢作である事を確認した。
「矢作さん……どうしてここに……」
誰かの姿を確認できてさっきまでの気持ち悪さが少し和らいだ。
「い、いや、確かに女の子の部屋に来るのは確かにダメかなって思ったんだけどさ、……あーほら! 浴衣のサイズ大丈夫かな? とか思って?」
誰に言い訳をしているのだろう、その視線は宙を泳いでいる。
下手な言い訳。だから逆にすぐに本心が分かった。
いや、もしかしたら都合のいい解釈なのかもそれないが。きっと……私を心配してきてくれたんだろう。
優しい人だな、と思った。
「……手」
だから。
折角だからもう少し甘えてみよう。
「ん?」
「手、握ってもらえませんか?」
布団から右手を伸ばす。
矢作は布団の脇に座り込み、その手を握ってくれた。
その瞬間矢作は眉を顰めた。それもそうだ。こんなに震えた手を、手汗まみれの手を握るのはだれだって嫌なもんなんだろう。
「……俺の話とかしてもいいもんじゃないだろうけど」
矢作は静かに。優しく語り始めた。
「昔俺も修行してたんだ。雪音と天堂さんと水城姉さんの4人で」
天堂、何か聞き覚えがあるな、と思い、そして直ぐに思い出した。
雪音さんの家にあったあの写真である。たしかモスクワで修行をしていたとか聞いている。
「俺も最初怖かったなぁ。ユーザーになったってことは、いつ誰から襲われてもおかしくないって事だからさぁ。まぁだからこそユーザーになったのは修行で強くなって強くなって、そんでもって強くなった時だったけどね。そこは冬花ちゃんと違うね」
確かにそうだ。
由真と何度か模擬戦闘を重ねていたが、自分の技術向上の為などと思わずただの惰性でこなしていたので、ひとつひとつの反省もせず、だからこそ当然成長もしなかった。
こうして考えれば一度も勝てなかったのは当然だったのかもしれない。何しろあれだけの戦闘をこなしておいて全く成長していなかったのだから。
「俺は高校がそんなに好きじゃなかったし、学校に行けなくなるーって気持ちはあんまりわかんねぇんだけど。でも冬花ちゃんが今感じてる“怖さ”は分かるつもりだよ」
俺もこんな感じだった、と矢作は笑う。
嘘だ。こんなに震えるはずがない。きっと私の為を思っての嘘だろう。
「雪音もこんな感じでさぁ、夜寝る時に、私達ユーザーになっちゃったんだよね、とか震え声で言ってきてさ。これで天堂さんの役に立てるだろ! って返したとき俺の声も震えてんだもん。あれはちょっと恥ずかしかったなぁ」
雪音さんもユーザーになった頃はそんなんだったんだ……。冬花はぼんやりと思う。
矢作の声を聞いていると落ち着いてきて、安心できて。でも目を閉じるとまた怖くなりそうで無理やりその目を開けていた。
「でも、天堂さんの一言を聞いたらさ、魔法みたいに俺も雪音も安心しちゃったんだよね。だからその魔法を冬花ちゃんにも掛けてあげようと思ってね」
矢作はそう言って冬花の手を両手でしっかりと握り締めた。
「大丈夫。俺が守ってあげる。どんな強い奴が来ても俺が返り討ちにしてやる」
力強く。
その声は小さかったが、とても力強くて。
震えが完全に止まって、途端に眠気に襲われた。
感謝の言葉を述べようとして、しかし瞼はもう閉じている。口も動きそうにない。
目を閉じると部屋に残った酒の匂いがした。
しかしそれが逆に、冬花を安心させ、安眠へと誘うのであった。
「だから今はゆっくり休んでね……冬花ちゃん」
☆★☆
翌日。
柏と冬花、そして矢作は東京の空港にいた。
勿論飛行機に乗るのは柏と冬花だけであり、矢作はその見送りという訳だ。
ちなみに今日の柏の格好はスカートにブラウス。それにタイがあしらわれているといった、所謂どこぞの学校の制服である。本人曰く、怪しまれない為だと言い張っていたが、どうだか。
どうにも柏という人物にはコスプレが好きなきらいがあるらしい。
昨日もナース服を堂々と着てたし。
今も制服姿はナース服よりかはマシだが多少の違和感が残っている。
そう、悔しい事に多少の違和感で済んでいるのである。年齢的にいくつかオーバーしているはずなのだが、柏自体がまず若いのと、背がそんなに高くないので、それで誤魔化せているようだ。
まぁ胸のサイズだけは普通の女子高生とは一線隔しているのだが。
冬花も柏に合わせて制服を着ている。いや、私服も当然あったのだが柏に制服を着ろと強制された結果なのである。
……恐らく本物の女子高生を身近に置くことで違和感を解消させたいのだろう。
やっぱりどうも好きになれない人である。
入場開始時刻まで航空内で適当にお土産を見たり、お昼ごはんを食べたり、ゲームセンターで遊んだりして暇を潰していた。はたから見ると大の大人が空港で女子高生二人を連れまわすという犯罪を匂わせる図になっているのだが、幸い誰も話しかけてはこなかった。
待ち合わせ用のソファに座りながらお土産のエクレアを食べている時、丁度時刻が近づいてきていた。
ちなみにそのエクレアはチーズ・カラメル・マンゴー・ショコラ・ベリーと5種類のカスタードがあり、チーズが一番美味しいと冬花は思った。
ゲートに移動して、荷物番をしてくれていた北沢から2つのキャリーケースを預かり、それからチケットを預かった。
「じゃあお二方。お元気で」
「矢作、私が帰ってくるまで死ぬなよ?」
「まぁ……運によりますかね」
「あっはっは! まぁお前は悪運が強いからな。それにここまで来てくれて感謝するぞ。北沢もチケットと荷物番、それに運転だな、ありがとう」
柏はそう言って北沢に握手を求めた。北沢もまた例に漏れず強面さんのヤクザさんな雰囲気を出しているというのにかなり気さくに柏は接していた。
というかこの人全員呼び捨てなんだ、と冬花は今更ながら思った。
一応冬花も北沢と握手を交わし、最後に矢作に挨拶をする。
「あの、昨日はありがとうございました! 心も強くなって帰ってきます!」
矢作は少し意外そうな顔をしていたが、最後に優しく微笑んでくれた。
「……うん、楽しみにしてようかな」
それを見て冬花は嬉しくなる。よし、がんばろう! そんな気概で満ちるようであった。
「なんだ? 二人とも昨日何かあったのか?」
話についていけない柏は興味ありげに矢作に聞くが、
「心がガサツな柏さんにはわかんないですよ」
と軽く受け流された。
「な、なんだ矢作! 私はこう見えても繊細で――」
「柏さん! 時間ですよ! では矢作さんもお元気で!」
冬花はギャーギャーとわめく柏を引きずりゲートをくぐった。たった数メートルなのに、もう触れることはできない。
でも冬花はまだ昨日の夜の温もりを覚えている。今はそれで十分だ。
「柏さん、私修行がんばりますよ!」
柏はその台詞を聞くと大人しくなり、そして鼻を鳴らした。
「……昨日何があったか知らないが……良いことだったのには違いなさそうだな」
そして柏はまた快活な笑い声をあげるのだった。
修行は既に順調に進んでいる。
柏はその結果にも満足しており、この様子だと2年も必要ないかもな、と考えていた。
「冬花。悔しいがお前の方が制服似合ってるな!」
現地の空港に着き、荷物を回収すると柏は何処かに電話を掛け始めた。
時刻は昼過ぎである。空港内に美味しそうなオムライス屋さんに目を奪われていると柏が移動を始めたので、 恨めしそうな視線を残しながら冬花も後を着いて行った。
「で、これからどこに行くんですか?」
小走りで柏に追いついた冬花は柏の背中に向け疑問をぶつける。
「車で向かえが来るらしいからな。表で待つぞ」
空港を出ると、まず冷たい風が吹き込んできた。
いや、冷たい、というレベルではない。痛い、と感じた。
ある程度は覚悟していたが、同乗者の柏も薄手の制服姿だったし大丈夫と高を括っていたのが失敗であった。
この人馬鹿じゃないの! なんで制服で来させたの!
という文句も心のウチにとどめておく。
凍えていると柏はコートを投げて渡してくれたので急いでそれに身を包めた。
「なんだ、お前寒がりだな」
本人は随分と余裕そうである。短いスカートだというのに随分と平気そうである。
同じ制服だといのにあっちの制服には暖房器具でも完備されているのだろうか。
「……――、……」
反論しようとしたが冬花の舌が回ってくれなかったので結局変な声を出すだけに落ち着いた。
っていうか待つんなら暖かい空港内で待てばいいのに。
やっぱり馬鹿だよ。この人。
どんどん冬花の中で柏という人物の評価がダダ下がっていく中、やけに騒々しい車がターミナルに入ってきた。
騒々しいというのは比喩であり、実際に大音量で爆走しているという訳ではない。
ただ、なんというか運転が荒々しいのである。平気で車の列からはみ出しながら、通行人を引き殺さんという 勢いでこちらに向かってくる車が一台。
初めて見る車種なのだが、冬花の中でどうも心当たりがあるように思えた。
その車はエンジン音を響かせながら、柏と冬花の前で急停車した。
灰色の、今にも壊れそうなオンボロのバンのドアが開かれた。
運転席から回り込んで現れた人物。
「ズドラーストヴィチェ! お二方」
その女性はこの曇天に似合わない程の陽気さで二人に挨拶をした。
耳あてのついたニット帽に、首筋にファーをあしらった紺色のダッフルコート。
ブーツにもムートンがついていて全体的にもこもこファッションである女性。制服だとか馬鹿げた格好よりもよっぽど防寒性に優れており、同時にこれがこの国のあるべきスタイルなのだろう、と思った。
だがそんな事は今どうでもいい。
「どうしてここにいるんですか……打瀬さん」
極少数ですが、こんな小説でも最初から読んでくれてる人もいるんですよね。
すごく嬉しいですね。




