※番外編 神器の道化 急
やっぱりちょっとR18要素があるかもしれません。でもないかもしれません。
2001年
次第にそれは人間味を失い始めていた。
――人を殺す。
それは自分にとって関係など、毛ほどもない。
ただ命じられるままに何人もの首を刎ねてきた。
命乞いをされたところで彼には決定権がない。
――感情を殺す。
報われない思い等抱いたところで何になるというのか。
押し殺した気持ちは心の奥底で次第に根腐れしていき、その腐敗物は周りのモノも壊死させていった。
呼吸をすれば、それは生物の証であるのだろうが、果たして今の彼は生物といえる程の活動をしているのだろうか。
生産的な行動は何一つ行わず、彼の行動は全てが退廃的だ。
そんな彼の所業は人間には行き過ぎている、死神のソレである。
その目には何が映っているのか。
その耳には何が聞こえてるのか。
その心には誰がいるのだろうか。
その果てには一体何があるというのだろうか。
その答えを――彼は知らない。
神器の道化3
朝食の時間である。
一条家には磯辺という人物、八雲という人物、そして家主の一条がいる。
それぞれが食事をとり、そこに会話と呼べるものは存在しない。簡単な挨拶のやりとりを会話と呼ぶのなら話は別だが。
空気は重い。だが今更それをどうにかしよう等とは誰も思っていない。
むしろこれが正しいカタチなのかもしれない。今まで和気藹々とした朝食をとっていたことに罰が当たったのではないか、とさえ八雲は思う。
「一条君、ご飯美味しい? 今日は私が作ってみたんだけど」
八雲はそう言って一条に笑いかけた。
昔は意識をしなくても自然と笑みがこぼれていたものだが、今の八雲の笑顔は自然体、とは言えないものである。
一条はそれを見通すかのように冷たい目で一瞥してから、
「はい、美味しいです」
と笑いながら返事をした。
その笑顔はどこまでも機械的である。ただ目じりを落とし、頬を緩ませる、というプログラミングを精巧に行っているだけ、とそんな印象を抱かせる笑顔。
その笑顔は酷く不気味なものである。感情から起因していない笑顔程見ていて落ち着かないものはない。
しかし……彼の笑顔も、自分の笑顔が一条君には酷く映っている事の裏返しなのかもしれない。そんな強迫観念に押しつぶされ八雲は言葉を紡ぐ事もままならなくなっていた。
磯辺はと言うとその二人の様子をただ黙って見ているだけである。一条の良き理解者であったのも昔の事、今の彼でも一条の心情を察する事は適わないだろう。
果たして何が原因だったのか。
考えたところで恐らく気付く事は無い。
じわりじわりと蝕んでいくように日常は変化していったのである。変化の起点を見出す事など記憶を頼りにしたところで見つかる可能性は極わずか。更にそれが正しいかどうかの確認もできないとなると、ただもうこの現実を受容していくしかないだろう。
「えー少しいいですか」
意外な人物が会話に加わってきた。
今まで静観を決め込んでいた磯辺である。
その表情は相変わらず普段のものであり、八雲はどこかかつての日常を思い出し、ほっとした。
だが、彼が口にした言葉には日常の欠片も残ってなどいなかった。
「神の使徒、潜入部隊の指揮を預かっている者として、八雲奈美、一条優斗の両名に命令を下します」
「神の使徒……ですか……?」
そのフレーズを聞いた途端、八雲の表情は翳ってしまった。
今まで全く音沙汰もなかった、東京物産ではない別の組織からの伝達。この突然な命令に戸惑うな、という方が無理があるだろう。
だが一条はそんな事も意に介さずに食事を続けていた。
磯辺は二人を見比べる。
突然の宣言に困惑している八雲。
さっさと続けろ、と言わんばかりの鋭い目つきで次の発言を待っている一条。
問題は……特にないだろう。
そう判断し、磯辺は口を開く。
「東京物産崩壊に向けて下準備を始めます。各自築き上げてきた信頼感を損なうことの無いように隠密に行動して下さい。詳しい命令は今後継続的に私の方から伝えていきます」
「……っ!」
八雲はその命令に合点がいかないような顔をしていたが、そんな八雲を横目に一条はそそくさと食べ終えた食器を片付け始めていた。
磯辺は食後の紅茶を啜りながら新聞に目を通し、一条は学生服に着替え学校に向かった。
何事もなかったように、またいつもの日常が繰り広げられようとしている。
しかし八雲だけが食卓に一人、この日常から取り残されていた。
確かに突然の指令ではあったが、しかし八雲は既にその情報は知っていたはずである。
なのに何故今更になって躊躇うというのか。
東京物産を潰すという行動を何故ここまで忌むのか。
その答えは呆れるほど単純であり、そして至極個人的な感情に基づいている。
遠からず東京物産と敵対関係となるだろう、その時に自分はどう振舞うべきなのか。
幸いな事に、具体的に動くまではもう少し期間がある。その間に心を整理しておかなければ。
何度目か分からないため息を吐き、八雲はいつも通り東京物産の一室で、従来の仕事をこなしていた。
「……何かあったんですか? お顔が優れませんが……」
だが顔色ばかりは従来とは程遠かったのだろう。仕事先の同僚とでも言うべき人物に言い咎められてしまった。
「失礼、少し考え事をしていまして……」
そこでようやく目の前に用意されているコーヒーに気付いた。この男がいれてくれたものなのだろう。
コーヒー独特の香りが八雲を少しだけ落ち着かせた。
「冷めないうちにどうぞ。少しでも疲れが和らげばいいのですが」
ありがとう、と八雲はお礼を述べると、男は控えめな笑みを浮かべてから部屋を出て行った。
そして直ぐに入れ違うように別の男が入ってきた。
その男こそ八雲を困らせている張本人、天堂である。
八雲は慌てて立ち上がり、挨拶をする。
「お、おはようございま――」
しかし焦ってしまい、立ち上がる際、デスクに足を引っ掛けてしまった。
ガタン、と揺れる机にジンジンと痛む膝。机上ではカップから解放されたコーヒーがゆっくりと書類を染め上げていた。
「あ、あああ」
急いで拭こうにもハンカチしかない。だが八雲の薄い花柄生地のハンカチはあまり役に立たなかった。
「大丈夫ですか?」
天堂はポケットティッシュを束ねてコーヒーを拭う。二人で肩を並べてひとつの机に向き合い、八雲は恥ずかしさか顔を赤らめていた。
「すいません……」
「いえいえ」
天堂は嫌な顔もせずに八雲を手伝い、そしてふと目を合わせた。
誰がいるわけでもなしに、二人はそっとキスをする。
何の前触れもないのはいつものこと。時間も場所も関係なく、ただ八雲の不安を塗りつぶすように二人は行為に及ぶ。
八雲の年齢は女子高生のものであり、天堂の歳は少なくとも八雲と釣りあうものではない。
それなのに、八雲は天堂に恋をしてしまい、天堂はそれに応えている。
これこそが八雲が頭を抱えている原因なのである。
八雲の惚れた人物は東京物産の重鎮であり、八雲が神の使徒という組織に所属している限り、破綻が約束されている付き合いなのである。
フレンチなキスを何度か重ねた後に八雲は部屋を施錠した。
何をいう訳でもなく、八雲は天堂を求める。
そして天堂も何も言わず八雲を受け入れる。
八雲の抱えた問題は何も解決していない。そもそも解決なんて到底見込めない問題である。
ならば。
せめて愛しい男に抱かれている間だけは何もかも忘れ、楽になりたい。
堕落だと分かっていながらもソレを咎める者はいない。
頬を伝う涙は何故流れているのだろうか。
何も分からない。
分かりたくない。
考えたくもない。
そして、八雲は理性のブレーカーを落とした。
まさか今頃八雲がそんな行為に及んでいる等とは知らずに一条は学校に着ていた。
高校受験が近いのか、ピリピリした空気の中で、しかし一条は一人だけ違う雰囲気を纏わせ、登校しているものだからかなり浮いている。
だが本人はそんな事を気にも留めずただ淡々と授業に出ては適当に学校生活を送っている。
友人はいない。
先生すら一条と話す事を避けている節がある。
家には安息の場所はない。だからわざわざ嫌いな学校に足を運び、誰にも話しかけられる事のない孤独に身を置き、そこで一条は心を休めるのである。
特に今日の朝は酷く心を痛めてしまった。まだ鈍痛が長引いている。
表面では平気を装っているが、内心ではこの痛みを抑えるのに般若の形相で歯噛みをしている。
心を休めた所で何がある訳でもないのだが、少なくとも、そこにしか一条の安寧はない。
結局最初から最後まで授業は出たのだが、まともに顔を上げていた授業はひとつもなかった。
家で取ることのできない睡眠を取り、一条は学校に着たときよりも少し元気になってから学校を後にしようとした。
だが校門を出る前に、誰かに呼び止められてしまった。
一条君、と。
誰か女の声がして一条は振り返った。
「あのね、一条君、最近学校来てなかったでしょ? だからノートとか困ってるんじゃないかなぁ、って」
可愛らしい女子中学生であった。それなりのお洒落をして、一目見ただけでクラスで人気があるであろう事を容易に想像させる。
たが所詮、小学生に毛が生えた程度である。傍から見れば、ませたガキというレッテルを張られる事は請け合いだろう、そんなルックスである。
だが外見よりも一条は会話の方が気になった。
まず要点がなかった。
目的も分からない話だ、と一条は思った。
強いて言うなら、余計なお世話を押し付けられている。
こんな偽善を突きつけられて酷く虫唾が走る。
「大丈夫です。ありがとうございます」
そんな内心をおくびにも出さずに、一条はニコリと返事をしてからまた学校を出ようとした。
「あ、待って! 違うの! 私の話を聞いて欲しいの!」
面倒な女だ。
一条はつい舌打ちをしそうになったが寸でのところで引っ込めた。
「何の話ですか?」
「あの、ここじゃ出来ないような話だから……場所を変えよ?」
そう言って女学生は一条の手を引いて校舎を回りこみ始めた。
一条はその女学生が引いてる手を見て……まずまず眉を顰めた。
嫌だ、思い出したくもない。
ハラワタが煮えくり返るような気持ちになりながらも女学生にただ着いて行った。
帰ろうとしている人たちの視線を避けるように歩き、辿り着いたのは体育館の裏側である。校舎からは丁度体育館が被り死角となっている。職員室から遠くに位置しており、またこの辺は部活動でも利用されていない。
だからこそ――
「お、遅かったじゃん。よく連れて来たな」
「よし、逃がすなよ。捕まえとけ」
こういう素行の悪い生徒達のたまり場にはうってつけなのである。
早速一条は数多くいるうちの、一人の男子生徒に羽交い絞めにされた。
「一条君、ごめんね……どうしても連れて来いって言うからさ……」
そういって女学生は申し訳なさそうな顔をする。
だが仮面をつけている一条からしたら、この女の仮面は甘い。
心の奥底でほくそ笑んでいるのがアリアリと分かった。
だが……なるほど、こういう事か。
一条は安堵のため息を吐いた。
よかった。偽善行為なんかではない。ちゃんと意図があり、その為に俺に声を掛けてきたのである。
これがもし、本当に何の目的もない、ただのお人よしであった場合、間違いなく今後の学生生活に支障を来たしていただけに、相手の目的が分かりほっとしている。
「最近、お前調子乗ってるじゃん? 一発しめといてやろうと思ってね」
羽交い絞めにされた一条に向かってリーダー格の男子生徒が喋る。
「すみませんが……調子に乗ってるつもりはないんですが」
へら、と一条は笑い――その顔面に拳が振るわれた。
別段、かわそうと思えば羽交い絞めにしている生徒ごと一緒に動いてよける事は可能であった。
だが一条はそうしない。
「そういうところが調子乗ってるっていうんだよ」
この手のいじめは実によくある話である。いじめられる側として原因はあるのだろうが、苛める側に理由なんてものはない。
ただ殴りたいから殴る。ムカツク奴がいるから殴る。そこに理性的な理由はない。
実際、目の前の生徒にしてもそうだ。
塾の成績が思うように伸びず、親から叱責され、そのストレスのはけ口に全く会話もしたことのない、ただ同じクラスだからという理由で今、一条は殴られているのだが、そんな事を一条は全く理解できていないだろう。
ただ分かったのは……心の奥底にしまっていた火種がまだ燻っていた事である。
殴られる時に一条はふと思ってしまった。
あぁ、こうして顔に大きな傷を負って帰ったら、先輩は俺を見てくれるのだろうか。
また俺を見てくれるようになるだろうか。
そんな事をふと考えている自分を自嘲した。
本当に女々しい男である。仮に俺を見たところで、そんな姑息な手段の何処が喜ばしいというのだろうか。
それに見てくれた所でそれは一条の期待しているモノとはかけ離れていることだろう。
ついぞ、一条は腕力にモノを言わせ、羽交い絞めを解いた。
肘ウチで背後の男の口を壊した。そして目の前で何発も痛い拳を浴びせてくれた男に殴りかかった。
だが、かわされる。すれ違い様に腹に痛い一発をもらった。
――勿論、一条はユーザーとしての能力を抑えている。その超人たらん腕力で普通の人間を殴ろうものなら、まずかわされない。そして死に至る致命傷は必至である。
だが、殴った腕もただでは済まない。打ち所が悪ければ、その拳にかかる負荷は腕を壊すくらいは容易にしてしまうだろう。
漏れ出る嗚咽を堪え、一条は体勢を整える。
相手も素人なりに拳を構え、一条と向き合う。といっても一条も殴り合いに関しては素人なのであるが。
お互いに言葉はない。ただ、若さに身を任せ、突進し、拳を振るう。
獣のような声をあげながら、互いが互いを殴る。そこに理由なんて高尚なものはない。
周りを囲んでいる取り巻きは、その二人のやりとりに圧倒され、ただ立ち尽くしていた。
目を腫らせ、口を切らせ、しかし殴るのは辞めない。
一条にとって相手の拳をかわす事は造作もないはずなのだが、かわさない。
それはただ我武者羅に喧嘩に興じているからか、それとも別の理由からなのか。
何も無い。ただ有り余る力を互いにぶつけ合うだけの清清しいまでの喧嘩。
力量を見誤らなければ、殺す事もない。
相手も一条を全力で殴りにかかってくる。
人間を超越する力を得たところで結局は人間なのである。誰かを好きになり、食べ物を摂取し、疲れれば眠る。
誰かを殴れば、心のウサは少しだけ晴れ、誰かに殴られれば、頭にくる。
それは殺しとは違う、ある種の爽やかさを伴う暴力衝動である。
結局、騒ぎを聞きつけて教師が止めに来るまで、その喧嘩は誰にも仲裁されることは無かった。
結論から言うと、一条の姑息な目論見は失敗した。
問題を起こした生徒として扱われ、保護者の名目で来訪した八雲に一条は引き取られた。そこには勿論八雲からの気遣いの色はあった。だが処遇としては自宅での謹慎という、素っ気無いものに留まり、しばらくは東京物産の任からも神の使徒からも解放された為、八雲との距離は益々離れていったのだった。
食事は一人でとり、八雲とも、磯辺とも顔を合わせる機会はなくなった。
そう、もう家にいた所で八雲を見て心を痛めることはない。
届かないモノを見せ付けられ、傷を負う事はない。
昏々と一条は眠り続けた。今までの分の安息を取り返すように深く、深く。
ひとしきり眠った後は、起きてぼーっとする。
ゲームをしようとも考えるのだが、結局何もすることなくまた眠るのである。
たっぷりと考える時間を確保した一条は一人、部屋で何を思うのか。
それは誰にも分からない。
八雲は一人で命令を粛々と実行し、一条は自室で一人、何をする事もなく過ごしていた。
歯車という歯車全てが噛み合わない、そんな気持ち悪さの中、八雲は今夜も闇夜に溶け、狩人となる。
八雲の心は荒んでいる。
確かに今までの憧れであった天堂という人物と添い遂げる事はできた。
だが、自身に課せられた任務は東京物産の崩壊。
また、一条というまるで弟の様に溺愛していた人物の心がまるで掴めていないという現状。
惰性で任務をこなしてはいるが、このままではいけないとは分かっている。
標的を目に入れ、殺した。
戦闘というものを介さず、ただ純粋な殺し。その技術は暗殺と言っても良いだろう。
胸中で葛藤を抱いていたところで、その刀と腕は鈍る事はない。
ただ仕事をこなして、しかしその顔色は依然浮かないままである。
「お疲れ様です。八雲さん」
暗い路地裏で仕事を終えた後、たそがれていた八雲の背後から声を掛ける人物が一人。それは東京物産に所属しており、また、同時に神の使徒に所属している人物である。
「朗報ですよ八雲さん。天堂が死にました」
男は薄ら笑いを浮かべながら話しかけていたため、その話には重みだとか、深みだとかいったものは微塵もなかった。
ただ、淡々と、天堂が死んだという結論を脚色せずに告げていた。
「……?」
八雲の表情は既に曇っている。果たしてこの男の言っている事が理解できているのか。それに構わず男は続ける。
「といっても偶然が色々重なった結果なんですけどね。でもま、これで動きやすくなりましたね」
本当に偶然なのだろうか。少しだけそれを疑い、それに何の意味もない事に気付き、八雲は思考を放棄した。
「……そうですね」
八雲は偶然かどうか、というのには疑問を持ったが、天堂が死んだ事にはなんの疑いも抱かなかった。
殺し屋稼業を営んでいる以上、誰かが死ぬ事は本当にあっという間に、なんの予兆もなく起こり得るモノである。
確かに天堂という男は相当の手練れであったが、それ故に敵も多かった。
策を弄されれば、昨日まで不敗を誇っていよう人物でも、今日にはただの屍に成り果てるというものである。
今。八雲の中では全てが吹っ切れた。
結局自分には何も残らなかった。
ただ、残されているのは神の使徒としての使命だけ。
だがその使命故に八雲はこれほどまでに苦しめられたのである。そんな不幸のどん底に叩き落した使命に誰が従順するというのだろうか。
「では、私はこれで失礼します。あぁ、そういえばあなたは天堂さんと睦まじい仲なんでしたっけ? まぁそう気を落とさないで下さいね」
またコーヒーならいつでも入れて差し上げますよ、とその男は去って行った。
そこに残ったのは、生気を削がれた人形と成り果てた八雲、誰の依頼かすら分からずに八雲から殺された遺体がひとつ。
ただやり場のない怒りを八雲は目の前の死体に叩きつけた。
既に死体の全身に血は回っていない。肉体は硬く、斬りつける程にその刃は鈍く、曇っていく。
何の意味もない。
ただ死体は無様に腸を抉り出され、四肢は切断され、顔のパーツが削られる。
ただただ、この死体に刀を振り下ろす。
壊れてしまえ、と八雲はボソリと口にしていた。
それはこの死体の事なのか、それとも自分の事なのか。
八雲奈美は考える。
最後に残った理性で、パズルのピースをひとつずつ嵌めて行く様にゆっくりと。
今の気持ちを言葉にするべく、壊れた心で最後に言葉を紡ぐ。
好きな人が死んだって言うのに平常でいたらそれはきっと嘘だから。
だから私は狂わなくてはいけない。
狂気に溺れ、自身の命すらいとわない程の狂気に落ちれば落ちる程、私が彼をどんなに愛していたか伝わることだろう。
でも。
伝えるって……誰にだろう?
そんなのは……知らない。
★☆★
確かに一条は明確に意識をしたことはなかったが、天堂の事を疎ましく思っていた事に違いはなかった。
何せ、一条は一度事務所でコトに及んでいる二人の姿を目撃してしまった事がある。いや、目撃といっては語弊がある。
好きな人物の嬌声を扉越しに聞かされてしまった少年の心が荒んでしまったとしても何の違和感もないだろう。
憧れであり、好意を寄せている先輩の隣には既に自分じゃない男が立っている。それが少年の心を閉ざすきっかけになったところで不思議ではない。
つまり一条が変わってしまったのは、ある種の必然であったのだろう。
だからこそ一条は仮面を被った。
心を隠す為に、自分が惨めにならない為にも、偽りの自分を演じて、これ以上の怪我を負わないように生きてきた。
誰からも干渉されずに、誰にも干渉しないように。
そんな仮面にも綻びが生じた瞬間はあった。
そう、天堂が死んだと知った時である。
天堂が死んだと知った時、まず一条はこの湧き上がってくるモノに困惑した。そして直ぐに気付いた――いや、思い出したのだ。コレが喜びという感情である事に。
棒を蹴ってみたら犬に当たって死んでしまったかのような、そんな気持ちの悪い偶然であったのだが、今の一条にそんな事を気にすることはなかった。
何年ぶりかに表にでた感情。抑えようとしたところでそれを隠す仮面を一条は持っていなかった。
ざまぁ見ろ。
俺の先輩を横取りしやがって。
死んで当然だ。
一条の目の前に天堂の死体があれば唾でも吐きつけていたコトだろう。
謹慎処分は当の前から解けている。
今先輩に必要なのは間違いなく俺だ。
だからこそ、必死に仕事を請け負った。
先輩の隣に立てるように技術を磨き、成長しようとした。
実際に一条は強くなった。それはもう見違える程に。
表では嬉々として仕事を遂行し、裏では工作活動に勤しんだ。
一条の、東京物産の神童、という肩書きは他所の組織にまで広く知れ渡った。
これならもう子供扱いはされまい。
一人の男として、逞しく、誰かを守れる程に強くなった。
そして――それは報われた。
確かに一条は八雲という人物の隣に立つ資格を得た。二人の肩はついに並んだ。
立派な殺し屋となった一条は隣に立っている先輩に笑いかけ――、
――そこに八雲はいなかった事に気付いた。
いるのはただの骸か屍か。
それとも八雲を模した人形か。
少なくとも……一条にはこの塊を八雲として見ることはできなかった。
一条は失念していた。
前にいる人物と肩を並べるという事は、前の人物が停滞しているということに。
八雲は変わっていた。
生気が無くなった。
虚言が多くなった。
笑顔が無くなった。
無視が多くなった。
――なんだよ。
――やっぱ俺じゃ駄目ってことかよ。
気付かないように振舞っていたが、八雲に必要とされていたのは一条ではない。
一体何度目だろうか。
心にまたひとつ怪我を負ったのは。
もうこれ以上の痛い思いは……ごめんだ。
一条はまた仮面を被る。
今度は心を閉ざす仮面ではない。
酷く滑稽で、見る者を思わず破顔させるような、そんな道化の仮面。
せめて先輩を楽しませるように、俺では力不足であると重々承知である。かといって何もしないわけにはいかない。
こうして仮面を被る事によって一条はある種の冷静さを弁える事ができ、天堂の死に疑念を持つ事になった。
この疑心が後ほど彼を暗鬼に仕立て上げる事になる事には……未だ気付かない。
■◇□
どこかの空間。
辺りは真っ白で、少なくとも現世ではない、そんな空間に八雲奈美と一条優斗はいた。
一条君。
戯言の様に八雲は口にした。
なんですか。先輩。
優しい道化はそれに応える。
私は……神の使徒を抜けます。
遠くを見つめたまま、八雲はしっかりと口にした。
天堂さんとの思い出が詰まったこの東京物産を壊させたりなんかは……したくないんです。
道化はそれを聞いてしばらく考えるフリをした。
というのも答えは最初から決まっているからだ。
ならば僕も御供しましょう。先輩がそうするなら僕もそうしましょう。
道化に意思はない。
ただ、空っぽの心に、好きだった人の意思を受け継いで勝手に満足したつもりになるだけである。
――これはそんな道化の物語。
エイプリルフールは失礼しました。
次回からしれっと本編に戻っていきます。




