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神器の後継

2007年8月

 黒砂一樹は目を覚ました。いつもならまどろんでいるのだが、今日に限っては既に意識は覚醒している。

 彼の寝起きは最悪といっていいだろう。自身も忘れたいと思っていた過去の事実を無理やり掘りかえさせられ、また大量の汗のせいか、シーツは肌にぴたりと張り付いており、黒砂の不快感をさらに煽っていた。

「くそ……あいつがまさか今頃夢になって出てくるとはな……」

 時刻は10時過ぎ。既に高く上がった太陽はじわじわと室温を上げていく。部屋は既にサウナの様な状態になっていた。

 戒めの為に自身の頬を2度叩き、黒砂は朝食よりもまずはシャワーを浴びることにした。

 古臭いこのアパートの浴室はユニットバスであり当然狭い。そこで冷水を浴びながら黒砂は思考する。

 ……もしも俺が殺し屋になっていなかったら母親は殺されずに済んでいたのだろうか。

 幸いにもユーザーとしての素質を受け継いでいた黒砂は、家計を助けるために、その才能を活かし殺し屋として暗躍していた。だから当然恨みはそれこそ何十、何百も持たれていただろう。復讐に殺し屋の身内を殺す、など考える輩がいるのもこの世界では珍しい事ではない。

 母親を金銭面で助けるために殺しで金を得ていたのだが、その殺しにより母親を殺してしまってはとんだ道化もいいとこだろう。

 後悔してもしきれない、決して救われることのないジレンマ。最早黒砂は誰がために殺し屋をやっているのか分からなかった。

 道化である俺の終わりは殺し屋を最期まで演じてそして誰かに殺されるのがお似合いだろう。

 ただの惰性で殺し屋を続けている黒砂はそんなことを思いながら、今日も殺しの依頼を受けに都会へと紛れるのであった。




 寒川冬花は目を覚ました。いつもの寝起きなら携帯で時刻を確認し、スキあらば二度寝を企むのだが今日に限って既に意識は覚醒していた。

 彼女の寝起きは最悪といっていいだろう。何せ目を覚ましたらそこには見ず知らずの天井が広がっているのである。薄いカーテンには所々穴が空いており、そして何処か温もりを感じる日差しが部屋に薄らと差し込んでいる。

 病院の様に無機質な部屋なんかではない、近くには丸机、そして本棚と生活感溢れる家具がそこにはあった。間違いなくそこは誰かの部屋であり、冬花の緊張感をさらに煽っていた。

「……え? ここ……どこ?」

 少し周りを見回すと時計があった。示している時刻は10時過ぎ。空調がないのか室温はどんどんと上昇していき、取り合えず冬花は被さっている布団を手でめくった。

「……!?」

 急いで布団を被せた。

 ズボンを穿いていないのだ。その下半身に身についているのは白の下着だけである。

 よく見れば上着はYシャツなのだが明らかにサイズが冬花のモノではない。さらに最悪な事にブラジャーの感触がない。

 ……なぜ?

 まずは落ち着け。落ち着こう。

 冬花は頭をうんうんと捻りながらどのようにしてこの経緯に行き当たったのかを回想することにした。



2007年7月

「始め!」

 蒸しかえった武道場に父親の怒声が響く。

 冬花は用意された武器、昆を手にしまずは牽制のつもりで相手に向かって突く。

 対して相手の武器は竹刀である。それも二刀流ときたものだから、傍から見ればこれはただの異種武器の演武なのかと思うだろうが、戦っている本人達は極めて真面目に相手と向き合っている。

 相手は小太刀で弾き、昆の切っ先をするりと受け流す。そして上段に構えていた大太刀で反撃の一撃を振るう。

 しかし冬花は昆が弾かれた時点で既に距離を開け始めていた。当然大太刀の描く軌道は冬花を捉えられない。

 武器は違えど、ただただ相手を打ちのめす。それだけを目指しお互いに打撃を加えていく。

 服装は袴と武道をするのには適当なのだが、そこには型などといった基礎要素はどこにも見当たらない。それどころか防具すらも二人は身につけていなかった。これが非公式の試合というのはもはや言わずとも明らかだろう。

 じわじわと距離をつめる相手に冬花は後退しつつ昆をうまく駆使し、一定の距離を開けたまま、突き、横薙ぎ、様々な攻撃で応じる。しかしどれも決定打には至らず、それどころかまだ1度も相手を捉えられていない。仏頂面だった相手はここに来てニヒィと笑みを浮かべる。それの意味を冬花も理解している。

 あと3、4歩後ずさるとそこは場外などではない、壁がある。それはもうこれ以上後ろへ回避ができないことを示している。そこまで追いつめられるとチェックメイトも同然だろう。

(だから!)

 冬花は方向を変換。相手に背を向けそして壁に向かい全速力で疾走する。

 助走は2歩あるかないか。だが冬花にはそれで十分だったらしく、壁を2メートル程駆けあがり、そして思い切り蹴飛ばし跳躍する。裸足だからこそ2メートルも登れたのだろうが、それにしても壁を垂直に駆けあがれる高校生は全国を探しても極わずかであろう。

 相手を見下ろす形になり、その後は棒高跳びの要領で長い昆を床に着かせ、それを軸に更に飛距離を伸ばす。

着地した時には二人の位置は入れ替わり、そして更に相手の射程圏外、昆の射程圏内であった。

 相手はがっかりした表情を浮かべ、しかしどこか楽しげであった。冬花はそれも気にせず相手に壁を背負わそうと突きを中心に前へ、前へと詰め寄る。

 攻勢は全く逆転した。そう誰もが思っただろう。

「えいや!」

 相手は型破りにも小太刀を投げてきた。

 これが試合などでは反則も反則である。だがそれを誰も戒めはしない。

 回転した竹刀を棒状である昆で受けきるのは難しい。冬花は一瞬で判断し、横への回避を選択。

 左へと1回転し受身を取り――驚くべきことに相手は2本目である竹刀も投げてきた。

 無茶苦茶、という言葉で済ませられる訳がない。これで相手は今まさに丸腰なのである。

 これさえかわしきれれば、冬花の勝ちは間違いないものになっただろう。

 そう、かわしきれれば。

 まさに今立ち上がろうとしている不十分な体制のまま先程よりも長い竹刀をかわせるとしたらそれはもう人間を超越した何かだろう。

 冬花の顔面に竹刀は容赦なく襲いかかり、一瞬だけ全身の筋肉が弛緩する。攻撃を食らった冬花は急いで距離を開ける。

 その時、冬花の片手に昆はもう存在していなかった。

「んー、昆ってかっこいいなぁー」

 対面にはうっとりとしながら昆を手に立っている相手。

 やられた。2本目の竹刀を投げたと同時に相手は突っ込んできていたらしく、竹刀があたり、よろけた瞬間冬花の片手から昆をするりと抜きとっていたのだ。

 別に相手の武器を取っても反則などとは誰も言わず、開始を促した父親も黙ってその行く末を見つめている。

(……!)

 絶体絶命の中も冬花は諦めない。先程投げられた小太刀を使おうと、冬花は流れていた鼻血も無視して一目散に標的目がけ走り――。

 一歩出した瞬間わき腹が軋んだ。

 真横から力を加えられ、冬花はバランスを崩し、転倒。冬花は呼吸をしようと必死になるが、わき腹の痛みからうまくできず軽いパニックになる。

「お姉ちゃん駄目駄目じゃーん。あんな分かりやすい餌に釣られちゃ駄目駄目じゃーん」

 相手は間のびした声で地面に這いつくばっている冬花を見下ろす。

 なんてことはない。相手は手にした昆で、冬花が動くであろう場所を先読みし、そして突きを繰り出しただけである。

「まぁーわざと小太刀を持たせてどうやってお姉ちゃんがあがくかも見てみたかっただけどねー。もう飽きちゃったからさぁ」

 昆は初めて使うはずなのに、達人顔負けの演武を冬花に見せ付ける。そこから流れる様に不意に昆は冬花の身体を襲う。

「ぐっ、…………」

 もう勝負はついたはずなのに相手は倒れている冬花を昆で痛めつける。距離を開け昆を大きく振りかぶり、加速度の強い先端部分を冬花に叩きつける。

「っあ!!」

 それに合わせ悲鳴を上げる。最早冬花にできることは負け犬らしく地面を這いつくばり、勝者の機嫌を伺うような悲鳴を上げ、早く満足してもらう以外には何もない。

 姉を虐げる弟もそうだが、それすらも黙認する父親も異常だろう。実の息子が実の娘にこのような残虐非道な行為をしているにも関わらず、一切干渉せず、眉ひとつも動かしていない。


 武器は何を使用してもよく、ルールなども存在していない。また敗者は勝者の気が済むままにいたぶられ続ける。やるかやられるかという実際の殺し合いに通じる、そんな特訓を繰り返す二人の子供。

 これはユーザーの父親を持ってしまった娘、息子の物語である。




神器の後継




 寒川冬花は不幸であると言っていいだろう。

 一人の弟に一人の父親。父親は1度離婚しており、再婚して2人を生んだのだが、その後母親はどこかへ蒸発してしまった。そんな滅茶苦茶な家族構成の中の長女が冬花である。

 寒川冬花は常に高校での成績は優秀であり、運動をさせてみればどこの部活に入ってもエースになれるであろうポテンシャルを持っていた。常識も弁えており容姿端麗。普通の親ならどこに出しても恥ずかしくのない立派な娘だと思うだろう。

 だが冬花の父親は勉学よりも純粋な強さを重視するきらいがあるらしく、冬花よりも格闘のセンスに秀でている弟の方に溺愛している。

 中学生である弟の名前は寒川由真。勉強はできない方ではないが、冬花と比べると見劣りしてしまう程度であり、また運動もてんで駄目である。というよりもルールに縛られて点数を競うのが好きではないらしく、冒頭で述べた格闘のセンスは学校において欠片も感じさせていないという。

 寒川の父親は冬花と由真が小さい頃からこの様なルールも何もない無茶苦茶な戦いを無理強いさせてきた。その真意は冬花には分かっていないが、どうやら由真は知っているらしい。ちなみに今日ので176戦176敗である。

 冬花と由真、お互いに仲は悪く、というよりも悪いどころか無関心であり、家で会っても何も言わないし、何も感じない。そもそも会うことが滅多にない。

 寒川家の敷地は武道場があることから分かる通りとてつもなく広い。母屋である大きな屋敷に住んでいるのは由真と父親だけであり、冬花はその敷地内の端にある小さな離れが用意されておりそこで暮らしている。お金がある程度父親から支給されているので特に不自由はなく、それどころかあの父親と一緒にいなくて済むのだと思うとむしろ喜ばしい事であった。

 冬花は分かっている。恐らく私は弟のただのあて馬として扱われているのだと。だからいつかお役御免となった時に一人で暮らしていける様に取り敢えず今は学校の勉強に集中するのだ。

 そう自分に言い聞かせぼろぼろになった自身の身体の手当てを行う。

 由真なりの気遣いなのか、それともただの偶然なのかは分からないが、今まで顔に残る痣を負った事はないし後遺症になる程の怪我も負ったことはない。

 少し感謝しつつも、あの勝負の後のSっ気はなんとかならないものかと苦笑する。

 それはそうと今日のご飯はとんかつである。この武道の稽古さえ終わってしまえば冬花は父親のいない気ままな一人暮らしに戻れるのだ。

 まだ少し身体が痛む中、冬花は鼻歌交じりにとんかつを揚げ、味噌汁の塩梅もついでに確認する。

 ……料理もこなせる高校生、というのも今日日全国を探しても極まれにしか見つからない様な気がする。

 冷蔵庫から予め作ってあったサラダを取りだし、小気味良い油が弾ける音を立ててきつね色になったとんかつの火を止めお皿に盛る。サラダにお手製ドレッシングもかけ、ぐつぐつと煮出した味噌汁もお椀に盛る。うん、素晴らしい。

 最後にご飯を盛ろうと炊飯器を開けると、そこにはほかほかな炊きたてで表面に光沢すら感じられるお米が……あるはずだった。

 空っぽの炊飯器。それはお米の炊き忘れを意味する。

 冬花の鼻歌が消えた瞬間であった。




 早くこの家から独立したいなぁ、そう思いながら冬花は夏休みを過ごしていた。

 由真の14の誕生日の日のことである。

 その機会は突然現れた。




 冬花は夏休みの大半を分厚い本を読み過ごしていた。次に武道場に呼び出されるのは明後日だ。それまでに冬花は武器のカタログに目を通し、これだ! と思う武器を1つ決定し、それについての基礎戦術を独学で学ぶ。

 どうせ負けると分かっているのにも関わらず、この様に興味のないことまでしっかりと勉強しなくてはいけないという自分がとても哀れに思える。そもそも由真は才能流派とでも言うのだろうか、常識を覆す戦法をとってくるのだ。この様にまともな基礎体系を学んでも意味など為さないのだろう。

 馬鹿らしい! そう言って本を何度も投げ捨てることもあった。しかしそれは許されない行為である。武道場に呼び出される日までに何かしらの武器でまともに戦える様になっていないと父親から直々ひどい折檻を食らうのだ。過去に1度やってしまい、それ以来はこうして重々しい気持ちで本を開くのが習慣になっていた。

 じつはつい先ほども冬花は匙ならぬ本を投げたのだが、あの折檻を思い出し、青ざめつつもまた本を読み返すのであった。

 そんな夕食の後、クーラーの効く部屋でまったりとした時間を過ごしていると不意に1本の電話がかかってきた。母屋の方と内線が繋がっており、滅多に利用されるものではないので冬花はその呼び出し音にドキリとする。

「もしもし……」

 思い返せば内線を使うのは初めてであることに冬花は気付いた。ということは余程緊急な連絡なのだろうか。受話器を持つ手が微かに震える。

「今から武道場に来い」

 父親の冷徹な声でピシャリとそう言い切られてしまった。今はもうツーツーと無機質な機械音が通話の終了を冬花に告げていた。

 時計を見ると今は11時半である。こんな夜中に何を始めるつもりなのだろうか。

 疑問に思いながら、冬花はいそいそとまだアイロンをかけ終えていない袴姿に着替え、サンダルをつっかけ離れを出る。

 外は夜中といえど夏独特のもわっとした熱気が広がり、道場に着くまでに冬花は汗をかく。いや、それは不吉な予感からなる冷や汗かもしれない。

 夜中に見る武道場は不気味そのもので、夏場だというのに冬花は少し寒気を感じた。この寒気は道場の方から流れてくる。

 いつもは、またボコボコにされるのかとその程度の感覚で意気消沈しながら武道場に入るのだが今夜はどこか違う。

 まるで殺人鬼が待ち構えている、そんな雰囲気さえ漂っていた。

 ……いや、気のせいでしょ。夜中だから少しナイーブになっているだけね。

 冬花は自分にそう言い聞かせ、無理に笑顔なんかも作ってみたりし道場へと入るのだった。

 道場に入る前に1礼。サンダルを脱ぎ裸足になり、そしてピリピリと空気が張り詰めている空間へ足を進める。

 そこにはいつもの様に父親、そして弟である由真の姿が見えた。どことなく由真の雰囲気がいつもとは違う様に感じられた。

「冬花。お前には幻滅した。勉強ばかりできて殺しへの心得が全くないこの腑甲斐なき愚か者が!」

 開口一番父親はまず冬花を詰ってきた。だが今更この様な事で身じろぎはしない。

「すいませんでした」

 思考を停止させ相手が期待する身ぶりをするように心がける。この場合素直に頭を下げておけばいいだろう、そう判断した冬花は一瞬の躊躇もなく謝った。

 その対応に満足したのか父親はふん、と鼻をならす。

「……だがまぁお前は無能なりに役に立った。由真の練習相手には丁度よかった。だがそれももうこれで終わりだ」

 終わり? 言葉の端を捉え、冬花は顔を上げる。

「そうですか……」

 ついに絶縁という名の自由が手に入るのかと、表情には出さずに喜ぶ。

 もう痛い目を見ずに済む。この父親から逃げる事ができる。それを考えただけで、冬花はこの瞬間世界で1番幸せなのは自分だとも思った。

「では最後の修練を始めよう。冬花、これを使え」

 これさえ終わってしまえば自由が待っているのだ。今なら何だってやってやる。自由が待っているというのなら最後にどんなに無様に負けたとしても全く厭わない。そんな気概で冬花は父親から武器を受け取った。

 それは今まで使ってきたどの武器よりもずしりと重かった。

 それを見た時、最初は何かの勘違いかと思い冬花は目を凝らす。しかしそれはどう見ても時代劇に出てくるそれである。

 はたまた何かの冗談かとも思った。しかしこの父親は由真にならともかく、私にこの様なジョークを仕掛けるわけがない。

 そこから導かれる結論はただひとつ。冬花が持たされているもの、それは正に真剣である。

「これ、は――」

「今回はルールを変更する。相手を殺せ。以上はじめ!」

 聞く耳を持たないとばかりに父親は怒声で戦いを促す。

 いっそこの真剣でこの父親を殺してしまおうとも思ったが、それを実行できる程の勇気を冬花は持ち合わせていない。

「お姉ちゃーん。まぁ諦めてよ。パパの言うことは守らなきゃね?」

 やけに冷静な由真が冬花に話しかける。

 ちなみにこの父親の宣言から勝負はもう始まっている。過去に1度会話を交えた騙し打ちも経験した冬花はこの会話すら注意する。

 そしてそれ以前にまず目を引く事があった。由真はこの殺し合いを命じられているというのに空手でそこに立っていた。

「……由真はいいの? 昔から繰り返されている馬鹿げた戦いで命を賭けるのに何の文句もないの?」

「きっひひ。まぁそりゃ毎回負けてるお姉ちゃんにとってはそうかもね? 不条理だよね? だって命を賭けているのって実際お姉ちゃんだけだもんねぇ?」

 冬花はむすっとする。確かにそうだ。何年間もこんなことをしていて1度も負けていないというのは異常な勝率だ。

 冬花は確かに女性と、腕力の面で由真とハンデが少しあると言えるだろうが、それでも馬鹿ではない。経験を活かし、新たな奇策を研究したりまた目くらましを仕込んでいたり、と一時期がむしゃらにでも由真に勝とうとしていた頃がある。だがどれだけ不意をついたところでその修練中の間に対策され、そして気付けば敗北、というのを何百回も繰り返していた。

 冬花はいくら努力をしても勝てないのだと悟り、ある頃を境に修練前の準備も今では簡単に本を読むだけとなっていた。

 つまり勝とうとしても勝てる相手ではない。寒川由真の戦闘においての才能は、冬花のそれと比べると差は歴然だった。

「それに由真何も持ってないじゃない。私はこんな殺しあいなんて――」

「あ、お姉ちゃん。それは問題ない。これは僕の試練なんだって。僕何も持ってない様に見えるじゃん。でもそんなの気にしないでいいから。うん。さっき契約したから」

 真顔でそんな事を言う由真を見て、冬花は呆けてしまう。

 恐らくあの父親の元で生活をしていて頭がおかしくなってしまったのだろう。そんな事を冬花は本気で思った。

 当然冬花は由真を殺すつもりなど毛頭ない。しかし由真にはあるという。それも素手だというのだから呆れない方がどうにかしているだろう。

 実は由真も父親の前だからこう言わざるを得ないだけで、本当は私を殺す気なんてないんじゃないの?

 段々と1番有り得そうな仮定を脳内で導いていく。

 しかしそれは同時に現実逃避、軽率な楽観視とも言える。

「……まぁ最近はお姉ちゃん正々堂々で落ち着いてるもんね。丸腰の相手じゃやり辛いもんか。んじゃちょっと待ってて」

 由真はゆっくりと瞼を閉じ息を整え始めた。そしてお腹を丸出しにする。

 冬花は意味が分からずにその様子を黙って見ていた。

 そして有り得ない事が起きた。由真の腹部から何かが現れてきた。それはまるで皮膚に溶けていた物が再び結晶化して現れてきているような。または体内の何かを捻りだすかの様な。なんとも形容しがたい光景が冬花の前に広がっていた。

「は、はは……」

 夢だろう。それもとびっきりの悪夢だ。いきなりの修練で殺しあい? それもそうか。だって夢だから。

 冬花は乾いた笑い声をあげる。有り得ない。どうやってこんな良く分からない物が由真の腹部から出てこれるというのか。

「ん、初めてだけどなんとか出来たか。いやね、本当は殺されるかもっていう極限の状態で顕現できるかどうかってのが僕の試練だったんだけどねぇ。僕も死にたくないから安全なうちに顕現させてもらっちゃった。きっひひ」

 由真の足元には真っ黒い銅像がごろんと転がっていた。黒いから分かり辛いものの、恐らくそれは自由の女神像だと判別できた。

 土台付きで、立て掛けたら由真の身長程の高さになるだろう大きさ。ちなみに由真は中学生の中で背はそんなに高くない方である。

「……う、嘘ね。これは夢、なのよね? はは、なんで私もこんな真剣なんて持っちゃってるのよ……笑っちゃうわ」

「うーん、夢? まぁ夢なのかもね。そうそう、この神器……って言っても分からないか。銅像だって今手品で出したってことにしてさ。ほら、お姉ちゃんだって夢の中でくらい僕に一回くらいは勝ってみたいでしょ? 生憎僕の武器はこの銅像。今ならその真剣を使えば余裕で僕に勝てるんじゃない?」

 由真はよいしょと言って、銅像を目の前に立て掛けた。冬花から見ると自由の女神像は由真を軽く覆い隠していた。

「神器……? そう、夢……夢よね」

 冬花は乾いた声を搾り出して、そして自分の手に握られる真剣を見た。

 それは、重く物々しく、光を鈍く反射していた。

 冬花はそれをぎゅっと握りなおす。

「あ、あ、あああああああああ!!!」

 冬花は咆哮を上げ真剣を構えながら、全力で由真との距離を詰める。そこに考えも何もない。

 由真は女神像の腕の部分を柄にし、棍棒として銅像を右手で振るった。冬花はとっさに剣で受けきろうとして――そしてそれは敵わなかった。

 まず剣が折れた。そして横から殴り飛ばされる形になった冬花はまるで重力から解放されたかの様に水平に吹き飛んだ。そのまま道場の壁に激しい音を立ててぶつかり、そして呆気なく気絶した。道場の壁にはその衝撃でちょっとしたクレーターが形成されていた。

「かっるいなぁー。これが神器かぁ。でもパパ、これで終わらしちゃっていいの? 最後って割にはかなり呆気なくない?」

 ヘラヘラと笑いながら由真はくるりと振り返り父親を見る。

 由真は父親の視線が自分たちを捉えていない事に気付いた。次に胸辺りが赤く染まっている事に気付き、そして最後に父親の足元には大きな血溜まりができている事に気付いた。誰がどう見ても刺された、と一瞬で分かるだろう。

 ただ静かに。父親の死体はそこに起立していたのだった。

 それに気付いた由真は表情が一変する。

「ぱ、パパ! パパ! しっかりしてよ! ねぇ、なんで? なんでなの?」

 銅像を床に放り出し、父親の元へ駆け寄る。

 いつ殺されたのか、そしてどうやって殺されたのか。はたまた自殺なのか。由真はそれを考えてしかし全く分からなかった。

「……息子の練習相手として門下生を殺させようとしていたのか。その男は。……どこまでも屑な野郎だ」

 知らない声が聞こえ由真はその声がした方を睨みつける。

 冬花の傍らに、その見ず知らずの男は立っていた。いつからそこにいたのか、もしくは始めから武道場にいたのか誰にも分からない。

 そしてその男の手には鑓。先端が血で濡れており、由真は直感でこの男が父親を殺した犯人だと悟る。

「お前が、お前が! お前があああああああああ!」

「悪いがお前の始末命令は出てないんでな。俺はもう帰る。あぁ、ついでにこの娘も俺が家に返しといてやるよ。お前に任せておくと殺しちゃいそうだからな」

 男はそう言って片手で冬花を抱え――驚くべきことに鑓は何処にも存在していなかった――武道場を去ろうとする。

 しかし由真がそれを黙って見過ごす訳がなかった。

「しね! しねぇ! しねええええええええ!」

「……」

 男は冬花を担いだまま、素手のまま一直線に向かってきた由真に向け蹴りを浴びせる。

 その蹴りは由真に届かない。それを見越して由真も勢いを止めることなく突進する。

 だが男の足には何かが生えていた。歪な黒い棒状のものが足の裏から突出しており、長さを見誤った由真の鳩尾にそれは突き刺さった。というよりも由真自身からその黒い突起に突き刺さりにいったと言った方が正しいだろう。

 何が起きたか理解できない由真はその場に蹲ってしまった。それもそのはず、まともに打撃を受けたのはこれが初めてなのだ。

「い、たひ……息が……できな、」

 無様に床に伏したままうめき声をあげる由真。それを見下ろし男は呟く。

「これが俺の弟、か」

 そして武道場には父親の遺体、それと由真を残し誰もいなくなった。



 ――と、ここで冒頭の状況へと遡るのである。

 冬花の中で段々と記憶が整理され始める。そうだ、私は由真と戦っていて……そうそう、由真が有り得ない方法で何処からか黒い銅像を取りだして私はそれに殴られたのだ。

 と、そこまで分かった所で結局、何故こんな場所で誰かに脱がされ横にされているのかは分からない。

 誰かが私を道場から運んでくれたもんだと思ったけど、ここはどうみても母屋ではないだろう。そして当然私の部屋でもない。

(じゃあ誰が運んでくれたの? そして私は寝ている最中に……こんな何処か分からない場所で襲われたっていうの!?)

 冷静になったところで不安になり、取り敢えず部屋を物色しようと決める。それに……とある理由からもこの部屋から出る必要がある。……お手洗い場は果たしてどこか。

「いっ! つ……」

 上半身を起こすだけなら痛みは走らなかったが、足をベッドから出そうとした瞬間腰辺りに激痛が走り、冬花は中途半端に足だけを布団からはみ出した格好のまま硬直した。

「……起きたのか。あんま動くな。傷に響く」

 不意に声をかけられた。部屋には壁に背を預けたまま本を読んでいる男がいた。しかし何処から湧いたと言うのだろう、冬花は確かにこの部屋を見渡したはずだが、この様な男がいたことには全く気付かなかった。

「あ、あなたは誰ですか! それに……ここは何処なんです? 私にもしかして……ら、乱暴を、不埒な行為を働いたのですか!」

 事態を把握しているであろう男が急に現れた為、まとめて冬花は質問する。急に恥ずかしくなり赤面しつつも、男の目をしっかりと見据える。

「……」

 男はちらりと冬花は見たが、しかし呆れた表情を見せてまた読みかけの本に視線を戻した。

「! な、何ですか! 貴方! 私をここに閉じ込めて何をするつもりですか? 悪いけど私を人質にしたとして身代金を要求するつもりなら無駄ですよ。父親はきっと一銭も私には払いませんからね!」

 痛い沈黙が流れる。言ってから冬花も自分でこの発言は寂しいと思った。

 ページを捲られる、紙が擦れる音が何回かした後、男は返事をする。

「……別に金が目当てじゃねぇ。その怪我が治ったら帰ってもらう」

「な、ならどういうつもりなんです? まさか私の身体だけが目当てだっていうのですか!」

 男は本をぱたん、と閉じた。冬花はそれに少し驚き、そしてようやく話し合いに応じるつもりなのだろう、そう思い更に質問を突きつけようとし、

「黙ってろ」

 鋭い眼光。覇気のある声。それらに全てを飲み込まれ冬花は何度か口をぱくぱくさせ、そして終いには役割を果たすことなくその口は閉じられた。

 じんわりと冷や汗もかき、蛇に見込まれた蛙の様に動けなくなる。そこには有無を言わせない圧倒的な空気が部屋を支配していた。

 男は依然と仏頂面で、また読書を再開し始める。冬花はこの威圧だけでやり込められた感が気に食わず、食って掛かろうとしたが、しかしこの中てられた威圧に恐怖を感じ、何も言い返せなくなる自分を情けなく思ってそれは終了した。

 しかし冬花はこの男に言わなければならない事がある。それなりに我慢がじわじわと難しくなってきた。

 男が読書を始めしばらく経ち、空気が少し緩やかになった頃合いを見計らい、そして決意を顕わにそれを口にする。

「……私トイレにいきたいんですけど」

 男はそこで初めて表情を崩した。

「……っ、すぐそこにユニットバスがある。勝手に使え」

 男は舌打ちをして、トイレに通じているのであろう部屋のドアを指差す。

「だから動けないんです!」

 冬花としてももう極限なのか、恥じらいもかなぐり捨て耳まで真っ赤にし、そう叫ぶ。

 叫んだ後に傷が痛み、冬花は顔をしかめる。そしてその間に布団は勢いよくめくられ冬花は男に軽々と持ち上げられた。

 所謂お姫様抱っこという奴で、当然生足もそして下に穿いている白の下着もむき出し状態となっている。急に辱められる形になった冬花としては当然困惑する。

「お、お、お、降ろしてください!」

「ガキの介護をやらされる俺の身にもなれよ……まぁ無理か。おい、傷が痛かったらいてぇっていえよ」

「心が痛いです……」

「そいつはよかった」

 そして無事に数歩程移動した先にあったトイレへとたどり着き、冬花はそこに腰かけさせられる。ひっそりと抱いていた冬花の乙女としての夢であった初めての御姫様抱っこでの目的地がトイレというのに最悪な気持ちになりつつも、取り敢えずは最悪の事態が回避できたので冬花はひとまず安堵した。

 男が冬花を降ろした後、後ろ髪をガシガシかきながらドアを閉めようとしているところに冬花は聞いた。

「あの……」

「……」

 男は黙って振り返る。どうやらこの男は返事というモノをあまりしないらしい。冬花は構わず言葉を紡ぐ。

「あなたの名前は?」

「聞いてどうする。……つっても分かんなかったら不便か。黒砂だ」

 そう言い残し黒砂は後ろ手でドアを閉める。鍵をかけれない事に少し不安を覚えつつも、しかし冬花は黒砂の事を少し信用し始めていた。

(少なくとも悪い人ではない様な気がする。それに私も完全に子供扱いだし……その……へ、変な事とかされないだろう!)

 しかしこの年、17になっても全く女性扱いをされないのは何故だろうか。

 ふと胸に手をやる。悲しいかな、その発育は平均をかなり下回っていると誰が見ても一瞬で分かってしまう。下手したら黒砂は私を女だと気づいていないのだろうか。そんな事さえ考え始めてしまう。

(……いや、違う! 私が子供扱いなのはこの容姿のせいなんかではない! きっと黒砂という奴は修行僧かなんかで、理性をしっかりと持ってる人なんだろう! そう! そうよ! あは、あはははは)

 そう結論付け、ひとしきり内心で笑った後に、虚しくなって、ついため息をついた。

「何が楽しいのか聞かねぇが、ここは壁薄いんだ。あんま騒がしくすんなよ」

 そしてその笑い声はどうやら口から零れていたらしく、更にそれは扉の外の黒砂まで聞こえていたらしい。

 しかしそう大声は出していないはずである。それなのに何故扉の外まで聞こえたのか。少し考えた後に冬花は顔を赤らめつつも抗議をする。

「ちょっと! 聞き耳たてないで下さい! 変態ですか!」

「あ? お前大声で笑ってなかったか? あぁ、いやそうかそうか」

 ユーザーになるとこれだから困るな、と黒砂はぼやく。確かに壁は薄いのかそのぼやきも冬花の耳まで届くのだが、ユーザーという言葉を知らない冬花にとっては聞こえていないも同然であった。

「んじゃ俺はお前の必要なもんとか買いに行ってくるわ。そしたらそのトイレで好きなだけ楽しんでろ」

 その直後玄関のドアがバタンと閉まる音が聞こえた。冬花は安心しつつも不安要素が新しくできたことに気付く。

「……私どうやって布団に戻ろう……」




 それから数日冬花と黒砂の奇妙な同棲は始まった。この数日で冬花は黒砂から知りえた情報は、

 1、黒砂という男は殺し屋ということ。

 2、私は由真に殺されかけていたらしい。私の父親を仕事で始末しにきた黒砂が、そこで気まぐれで私を助けてくれたという。

 の2つである。ちなみにこの2つは冬花が執拗に質問した成果である。

 それは言い換えるならば、黒砂が威嚇の為に放つ殺気に中てられても、平常を保てるという耐性能力の向上の成果とも言えるだろう。

 そして何より変わった事と言えば、

「朝ご飯できてますよ? 食べないんですか?」

「ん、んん……」

 会話の量が増えたということもある。それに冬花がこの小さなアパートの一室を管理し始めたということもあるだろう。

 今もフライパンで目玉焼きとベーコンを焼いている音が小さな部屋一杯に響いている。塩コショウを適当に振りかけ、黄身が半熟になるまで弱火にかけその片手間、味噌汁がいい具合に煮たって来たので冷蔵庫から味噌を取りだしおたまの上でじっくりと溶かして行く。すると今度は味噌のいい風味が部屋に広まり、黒砂は空腹感を感じ、ようやくもそもそと布団から這い出てくるのであった。

「……飯作ったのか」

 寝起きだからだろうか、その声はなんとなく不機嫌そうに聞こえた。

「あ、えと……まずかったですか? もう作り終えちゃったんですけど……」

 ベーコン、目玉焼きをフライパンから皿に移し、その隣にサラダ菜、ミニトマトを飾り終えた冬花は不安になりながら黒砂の顔色を伺う。

 こう見えても料理に腕はあると自負しているのだが、相手がいらない、といってしまえばそれまでである。美味しく作れようが関係ない。

 黒砂は何かを考えるように、黙ってちゃぶ台に着いた。どうやら食べてくれる気はあるようだ。

 黒砂はトランクスだけと実に夏場ならではの格好でいつも寝ており、冬花としてはいつも目のやり場にいつも困っていた。しかし黒砂は私の事を見ても何も思わないのだから、と悔しくて気にならないフリを続け、そうしているうちに慣れてきてしまったという顛末である。まぁこれで下着がなくなったら大慌てになるのだが。

 昨晩の残りのお米を炊飯器から2人分よそって、そうして小さなちゃぶ台にはそれなりに豪華な朝食が広がり、黒砂、冬花は向かい合って席に着く。

「いただきます」

「……」

 二人揃って箸をつける。味噌汁の玉ねぎが甘みを演出していて、それがまた白米に合う。目玉焼きの黄身は箸でつつくと中身がとろりと溢れだしてくるので冬花はそれを崩さない様にモガモガと口に運ぶ。ベーコンは少しカリっとした食感があり、しかし口に入れると柔らかく、それでいて歯ごたえがあり、こちらもご飯がよく進むおかずとなっていた。

 冬花は自身の朝食の出来具合に舌鼓を打っていると目の前の黒砂が珍しく話を切り出してきた。

「……神器の怪我はもう完全に癒えたか」

「神器? まぁ怪我はもう完全によくなりましたね。お陰で料理もできるように――」

「ならこの飯を食った後家に帰れ。無駄に慣れ合うつもりはない」

 唐突に別れを切り出してきた黒砂に驚き冬花は箸をとめる。

「……いつもみたいに凄んで脅さないんですか?」

 大抵何か言い返されそうな事を言うとき、黒砂は独自の雰囲気を放ち冬花に有無を言わさず何か物事を押し通していたのだが、今回はそんなこともなく、言葉だけ見れば酷い言い様だが、口調は物腰柔らかな言い様であった。

「効かない相手に殺気を放つ必要がない」

 殺気を出すのが下手なのは自覚していたが、まさかただの女子高生にも効かなくなるとはな。そう自嘲気味に呟いたのを冬花は聞いた。

「私にはもう帰る場所なんて……ここにいては駄目ですか?」

「……駄目だ。さっさと家に帰れ。んじゃ俺は仕事に行ってくる。もし俺が帰ってくるまでに居なくなってなかったらお前を殺す。覚悟しておけ」

 いつの間にか朝食を食べ終えていた黒砂はハンガーに掛けてあった適当な服を引っ掛け、そして冬花の反論に耳を貸さず支度をする。

「まぁ飯はうまかったけどな。ごちそうさん」

 と、最後に言い残して黒砂はこの狭いアパートを逃げるように後にした。

 トビラがバタンと閉じられる音を聞き、冬花は一人ぽつんと残される。

 冬花は父親から虐待に近い処遇を受けてきており、ぶつけられる本物の悪意というものが分かるようになっていた。だからこの黒砂は優しい人物であることも分かっていた。

 わざと冬花に嫌われる為に振舞っている様に感じられる節々がいくつもあり、先程の、帰るまでに居なくならないと殺す、というのもそうだ。本当にいらないのであればその場で躊躇なく殺すだろう。相手は殺し屋だ。

 そして意外にも冬花は殺し屋という職業をすんなり信じていた。最近では分かるようになった黒砂の消えそうな雰囲気、そしてその場の空気を一瞬で張り詰めさせる技術というのも殺し屋というものに符合していると思えたからだ。土台黒砂を信用しているので冬花はまず疑うことなどもなかった。

(何かしらの理由を聞くまで帰れないよね……。それに帰る場所もないし……)

 そう心に決め冬花はまずちゃぶ台に残ったお皿を洗う為に立ち上がる。

(もし私にお兄ちゃんがいたとしたらきっと黒砂さんみたいな感じだったのかな。ううん、もう黒砂さんは私のお兄ちゃんだ)

 家族が居て幸せだと思った事のない冬花も、今この二人で暮らしているという環境、兄という家族を持てたことの幸せを十分にかみしめていた。

 いつまでもここにいたい。クーラーもテレビもパソコンもないこの部屋だけど、いつまでもここにいたい。冬花はそう思っていた。

 ふと黒砂の最後の台詞を思い出した。

 それを思い返して冬花はご機嫌で片付けを始めるのであった。




 夜、黒砂の帰りにしては随分と早い時間にインターホンがなった。いつもなら足音も気配さえも感じさせずに鍵を開けてのっそりと帰ってくる黒砂に関しては全く珍しい行為であった。

 となると、この扉の奥にいる人物は黒砂ではないのだろう。

 覗き穴もないこの玄関のドアでは、ドアを開けてからでしか相手を確認できない。

 冬花は訝しみながらも鍵を開け、来客者を迎える。

「あーあー、開けちゃったよ。警戒するようとか黒砂君何も言ってなかったのか……。ま、お陰で身分を明かしてドア開けてもらう手間が省けたけどね。でも一応自己紹介。どうも黒砂君の同業者の打瀬明海です、と」

 そこに立っていたのは一人の女性だった。早口で一通り捲くし立て、スーツ姿で手を腰にあてており、もう片方の手にはビニール傘を持っている。浮かべた表情は呆れ半分、そして笑顔半分であった。

 突然の事にどう対処すべきか困っているうちに、その女、打瀬は冬花を品定めでもするかの様にまじまじと見つめる。

「ふーん、こんな可愛い女の子がいたらそりゃ黒砂君の最近の機嫌がよくなる訳だ。んじゃまぁ上がらせてもらおうかな。雨に濡れちゃってちょっと寒いんだわ」

 そう言って勝手に家に入ってくる。冬花も追い返すべきなのかとも思ったが、黒砂の知り合いである事を考慮すればそれはやめるべきだろう。

 それにしてもいつも怒ったような表情をしていたあの黒砂は機嫌が良かったのか。それを聞いて冬花は少し嬉しくなる。迷惑をかけているのかもしれない、と思っていたのでその言葉は冬花を優しく包んでくれたような気がした。

 打瀬は偶然だろうが我が物顔で、今朝黒砂も腰かけていた場所に座る。それからさて、とひと息つき冬花を見た。

「まずは座って座って。あぁ、お茶とかいらないからさ」

 言われるままに冬花はこの女の対面に座る。この女の目的は一体何なのか。そんな事を念頭に打瀬の話を傾聴する。

「まぁー単刀直入に言っちゃうと、黒砂君はとある事情でもうこの家には帰ってきません。だからそれを伝えに来ました」

 帰ってこない? 話が理解できず、ただ冬花は女の続きを待つ。

「可笑しいよねぇ。黒砂君ってすごい人だったんだよ? 確かに威圧こそ全くなかったけど気配を消すことに関しては雪音さんよりも凄かったのに……と、これは関係ないか。失敬」

「……黒砂さんはもしかして殺されちゃったんですか?」

 冬花はようやく口を開く。殺し屋、とある事情、そう推察する判断材料はむしろ多すぎるくらいだ。

 それに対し打瀬は困った顔で乾いた笑みを浮かべる。

「あっはは……。たった一人の弟を殺す事はあの冷徹な黒砂君でもできなかったってことだねぇ。いつもどこか甘い黒砂君らしいよ」

「っ、ちょっと待って下さい! 弟って……」

「? あぁ、そうか。お嬢ちゃんは寒川の道場の門下生、だったんだよね? なら知ってるか。寒川由真って人。 そのお兄ちゃんがあの黒砂一樹。まぁ母親は違うんだけどね、その由真に今回はどうもやられちゃったみたい。そして由真は誰かを殺す為に今もふらふら歩きまわっては殺人を繰り返してるみたい、と。いやだねぇ」

 冬花は絶句する。あの黒砂という男は正真正銘に私の兄であったのだ。何かの手違いで冬花は寒川家ではないと思われているようだが。

 そうだ、そもそも私の名前を教えた覚えはない。だからこそただの門下生かなにかだと勘違いしたのだろう。じゃあ何故由真が弟だと分かったのか、それも少し考え答えに至る。由真は普段から父親をパパと親しげに呼んでいた。それで判別ついたのだろう。

「ということは黒砂さんは由真に殺されたって事ですか」

「そうなるね。弟って事を度外視しても黒砂君は簡単に殺される男じゃないよ。由真って奴は相当すごいユーザーなんだろうね」

「……ユーザーって一体なんなんですか」

「あっちゃ、口が少し滑っちゃったかな……まぁお嬢ちゃんは知らなくていいよ。物騒な人達ってとこかな? ユーザーの相手はユーザーしかできないからさ、一般人はまぁ逃げておけばいいよ」

 私みたいにさ、と言って打瀬は場にそぐわない笑い声をあげる。

「もっと詳しく教えて下さい……ユーザーについても、そして神器って物についても」

 冬花のただならぬ雰囲気を察して打瀬の表情からは笑みが抜け落ちた。そしてひっそりとたじろぐ。

 それに神器については打瀬は説明していない。そして黒砂もユーザーについても教えていないのだ。神器など尚更教えてはいないだろう。

「……お嬢ちゃん、お名前は?」

 只の門下生ではない、そう嗅ぎつけた打瀬は名前を尋ねる。

「寒川冬花です。兄の敵を取る為、そして弟を止める為にも。神器について教えて下さい」

 冬花のその瞳はどこまでも真摯であり、そのうちに秘めるユーザーとしての素質を打瀬は垣間見た気がした。

「……それは驚いた。なるほど。寒川の子供は由真だけじゃなかったのか。しかしいいのかい? 実の弟を止める覚悟があるっていうの? なかなかの猛者だと聞いてるよ」

「その覚悟はあります。もう誰かに振りまわされる人生は嫌――」

「止めるって事は殺すことだよ?」

 打瀬の放つ言葉がずしりと重く胸にのしかかる。

 考えた事もなかった。つい勢いで言ってしまった事だが、由真を殺す? 私が?

 ……いや、そんなの不可能だ。覚悟が足りていても、まず実力的に……。

 全くの現実味の帯びない思考にくらくらしていると打瀬は冬花の思考を読んだのか助け舟を出す。

「言っておくけど可能だよ。神器を使えば殺せない奴なんてまずいない。だから私はあなたの覚悟を聞いているの」

 寒川由真を殺す覚悟。打瀬はそれを聞いている。

 ある、と答えたい。だが冬花はそれをどうしても口に出すことはできなかった。

「……ま、まだ若いんだ。じっくり考えな。幸いにも神器は黒砂君の使ってたものがあるし、そして君は黒砂君の妹さんだ。神器を引き継ぐ権利は十二分にあるっていえるね」

 打瀬は席を立つ。話は終わりに近い。

「しかしこの世界に踏み入れたが最後。嫌でも人を殺さなきゃならない。そして殺されもする。幸せな結婚生活? 幸せな家族? この世界に幸せなんてのはないさ。あんたの父親を見れば分かるだろう。殺して行くうちに誰かの恨みを買ってそして誰かに刺される、そんな世界。そんな死人みたいな世界に興味あるなら、はい、これ私の名刺」

 そう言って机に一枚の紙切れをのせる。冬花は何かを考えているのか俯いたまま、それを見ようともしなかった。

 打瀬はこれから約束されている日常的な幸せを全てかなぐり捨てる勇気があるのかを試している。そしてその勇気は残念ながら、ただの女子高生は持ち合わせていないだろう。

「んじゃ、私はこれで。……私はその名刺を捨てるべきだと思うけどね」

 冬花を部屋に残し、打瀬はドアを閉じた。まるで拒絶されるかの様に、音が部屋に響いた。


 打瀬は傘を開こうとして……。

「あれま。あんだけ降ってたのに」

 霧のように細かい靄が一面にかかっているような雨となっていた。打瀬は傘は差さず小走りでアパートを後にし、近くに止めてあった大型乗用車に乗り込んだ。

 運転席には男がいた。どうやらアパートの近くで打瀬を待っていたらしい。

 ……しかし今日日夏だからといってアロハシャツに下駄という出で立ちの男はそうそういないだろう。

「あ、山王さん、帰りは私が運転しましょうか?」

「……いや、俺がするから大人しく座っててくれ」

 そうですか、と大人しく返事をする打瀬を助手席に乗せ車はワイパーを動かしながら発進する。

「にしても、最後の一言は社長から言われてなかっただろう」

 打瀬が戻ってくるまで読んでいたのだろうバイク雑誌をサイドケースに投げ入れ、気のない声でアロハシャツの男は打瀬に告げる。

「ここまで聞こえるんですか? これだからユーザーの方は……」

 打瀬は内ポケットからタバコのケースを取りだす。まだ2、3本しか吸われていないケースに書かれてある銘柄は打瀬にはよく理解できなかった。

「? お前タバコ吸ってたっけ?」

「あぁ、いえ、黒砂君から貰ったんです。あはは、あんな女の子がいたらそりゃタバコを止めざるを得ない訳か。あは、は。……黒……砂くん……」

 元同僚の為に頬を伝った涙を打瀬は拭うこともせず、椅子に深くもたれかかる。そして同乗者はただ静かに車を動かす。

 昨日から降りだしていた雨もどうやらほとほとにあがりつつあった。


初めまして。まずはここまで読んでいただきありがとうございました。

今回、HPの宣伝を兼ねて「小説家になろう」様を利用させていただきました。

HPでは、この神器という設定を共通させ、異なる作者様による、様々な視点から描かれた作品も掲載しています。

是非遊びに来ていただいて、また小説サイトをお持ちの方は相互リンクなんかもしていただければ幸いです。


と、なにやら硬い挨拶になってしまいましたが、気軽に遊びに来ていただければなぁ、と思いますっ

それでは失礼致しました。

ノベル定食URL→http://www.geocities.jp/novelsets/index.html


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