3:はじまりのメッセージ
買い物を終えて帰宅した美波は、自室で部屋着に着替えると、買ってきた本を鞄から取り出した。表紙が気に入った本は、表紙が見えるように本棚に立てかけて並べ、ファンタジー小説は後で読もうと机の上に置く。お気に入りの本二冊をにんまりと眺めた後、美波は夕飯の支度をしに、階下に降りて行った。
「美波、手伝おうか?」
台所に入ると、居間でくつろいでいた陸がやってきた。
「うん。ありがと」
「今日は何つくんの?」
慣れた手つきでエプロンをつけ、美波が取り出した食材を覗きこむ陸。美波に夕飯のメニューを聞くと、指示されるまでもなく下ごしらえを手伝い始めた。
こうしていると、本当にただの優しくて可愛い弟だ。この姿を見て誰が裏で詳細な個人情報を収集し、姉に近づく男に笑顔で脅しをかけていると想像できるだろう。
「それにしてもさぁ、子供に家事押し付けて一ヶ月も家を空ける両親ってのもいかがなもんかと思うよねー。一応受験生もいるのにさ」
ごぼうをささがきにしながら、陸がぼやく。
「遊びに行ってるわけじゃないし、仕方ないんじゃない?」
「仕事なのはわかるけどさ、何も母さんまで連れてくことないじゃん」
「お父さん、お母さんが大好きだからねー」
両親は、父親の長期出張で現在留守にしていた。母は専業主婦で仕事には関係ないのだが、ひと月も母と離れていたくないという父親の主張により、一緒に出張についていっているのだ。
「だからってさ、普通は大人が遠慮して、子供の為に母親を残すもんでしょ」
末っ子の陸は一番母親っ子な事もあり、幼いころから父と母の奪い合いをしていた。幼い頃は当然息子を優先していた母だが、陸が中学にあがってからはほぼ平等に扱っていた。
「んー、お母さんて私たちよりもっと小さい頃から両親と離れて暮らしてたから、一ヶ月くらいなら子供たちだけも大丈夫だって思ってるんじゃない?」
「それはそうかもしれないけどさー」
母の両親は仕事で海外にいる事が多く、母は幼い頃からこの神崎家で曾祖父、つまり母の祖父と過ごしてきた。美波達とは違い、兄弟もいない。
今は両親が留守にしていても、曾祖父はまだ健在だし、道場をしている神崎家には信頼できる大人が毎日出入りしている。兄弟は三人もいるし、子供だけでは心配という感覚は両親にはあまりないのだろう。家事も幼いころから母の手伝いをして、全員が全てこなせるようになっているから問題ない。
「たまには、夫婦水入らずにしてあげてもいいと思うよ。うちにいるとお父さんとお母さんだけど、二人きりなら恋人同士に戻れて楽しいんじゃない?」
「……そういう所が心配なんだよなぁ」
「何が?」
溜息をつきながらしみじみと弟に呟かれ、美波は小首を傾げた。
「言っておくけど、うちの両親は普通じゃないからね? 美波、あれを理想の夫婦とか思ってるでしょ。違うからね。母さんはともかく、父さんは変だから!」
「そうかなぁ? 友達には羨ましがられるけどな」
「それは、見た目がいいからでしょ。確かにあれだけかっこいい父親なんて他に見た事ないし、頭がいいのもわかるし、仕事もできるみたいだし、他人には優しいかもしれないけど、父さんの母さん至上主義は絶対におかしいから」
「ただ、お母さんの事大好きなだけでしょ」
「違う。美波は綺麗に物事を見過ぎだ」
半眼でそう述べた陸だが、大好きな母を父に連れて行かれた逆恨みにしか美波は思えなかった。美波は、互いに一番大切に想い合っている両親が大好きで、二人が理想の夫婦だと思っていた。
「美波、父さんみたいな人を探しちゃダメだからね。普通、あれだけの男だったら、あんなに一人の人に一途じゃないから。あれは変な人だから母さん以外の女に興味がないだけで、普通だったらあれだけもてたら、気づかれない様に浮気の一つや二つしてるからね」
「それはそれで偏見だと思うなぁ」
人参をイチョウ切りにしながら、美波は苦笑を浮かべる。
「みゆきのお父さんも結構かっこいいけど、未だにお母さんとラブラブらしいよ?」
「それも特殊な一例だって。それを普通だと思っちゃうから、美波は心配なんだよ」
はぁっとわざとらしい溜息をつきながら、サトイモをむきはじめる陸。
美波に言わせれば、14歳にして恋愛に夢をもたな過ぎる陸の方が心配だった。
「ごちそうさまでした! 片付けは俺がやっとくな」
夕飯を食べ終えた翼は、テキパキと食器をまとめると、それを台所に持っていこうと立ち上がった。
「あ、いいよ。私がやるから」
「大丈夫。勉強の息抜きになるし」
受験勉強をしていて夕飯の準備を手伝わなかったのを気にしているのか、翼は笑顔で全員分の食器を持って台所へ姿を消した。やっぱり、優しい兄だと思う。
「風呂の準備は僕がやっとくから、美波は部屋戻ってていいよ。何かお気に入りの本買ってきたんでしょ?」
「うん、ありがと」
陸の言葉に美波は笑顔を返し、その言葉に甘えて部屋に向かった。
密かに男子を追い払っている事を除けば、最高の兄弟だと思う。優しくて、頼りになって、いつも助けてくれる二人。昔から大好きだ。
大好きだからこそ、二人の大き過ぎる愛情に困っても強く言えないのだけれど……。
「さーてと」
部屋に戻るとお気に入りの音楽を流し、美波は一人ごとを呟きながら机の上に置いておいたファンタジーの本を手に取ろうとした。が、伸ばしかけた手が止まる。
「……?」
見覚えのない小さな封筒が、本の上に置かれていた。部屋を出た時にはなかったものだ。
「お兄……ちゃん?」
美波は小首を傾げた。
陸は夕飯が終わるまでずっと一緒にいて、その間二階には上がっていない。いたのは隣の部屋で勉強をしていた翼だけで、この紙を置けるとしたら翼だけだろう。
だが、翼が美波の部屋に無断で入った事は今までない。何か渡す物があるなら直接渡すはずだ。
美波は訝しげに思いながら、メッセージカードサイズの封筒を恐る恐る手に取った。
封をされていない封筒の中には、一枚のカードが入っていた。
そこに書いてあった文面を読むと、美波は短い悲鳴を上げてそのカードを放り投げた。
『美波、僕はいつも君を見ているよ』
見た事のない筆跡で書かれた短い文。
知らぬ間に置かれたそのメッセージに、鳥肌がたった。
「美波、どした?」
「黒い敵でも出た?」
悲鳴が階下にも届いたのか、ドアの外に二人の声が聞こえた。ドアを開けると、虫でも出たかと思ったのか、二人とも叩くものを持っている。
「美波?」
明らかに虫が出た時とは違う反応に、二人は心配そうに美波を見つめた。
美波は青ざめた顔で、床に落ちたカードを指さした。その手は、僅かに震えている。
美波を陸に預け、翼が部屋の中に入ってそっとカードを拾い上げた。目を通し、眉間に深いしわを刻む。
「美波、どうした、これ」
「今、部屋に戻ったら本の上に置いてあったの。でも、部屋を出る前は、絶対にそんな所になかった……」
それが怖かった。見知らぬ人が、知らぬ間に自分の部屋に入ったという事だ。
「何て書いてあるの?」
静かに尋ねた陸に、翼がカードを見せる。陸の顔が強張った。
「何これ、ストーカー?」
「かもな」
翼の顔も険しい。陸がそんな兄を軽く睨んだ。
「隣の部屋にいて気づかなかったわけ、翼兄。修行足りないんじゃない?」
「誰の気配もしなかった。自分の部屋にいた時も、食事してた時も」
悔しげに、だがきっぱり言い切る翼。
幼いころから自宅の道場で鍛えられ、人の気配をよむことくらいは朝飯前だと思っていた。それなのに、気付けなかったのが悔しい。未だに誰かに侵入された事が信じられなかった。
「とりあえず、下に行こう」
怯える美波の肩を抱き、陸と翼は一度部屋を離れた。今夜は美波を別の部屋で休ませねばと思う。
「ほら、お茶でも飲んでちょっと落ち着きなよ」
泣きそうな顔をしている美波の前に、陸が緑茶を注いだ湯飲みを置いた。
「ありがと、陸」
弱々しく微笑み、美波は一口それを飲む。
心配そうに二人が見守る中、美波が湯飲みをテーブルの上に置いた時だった。
「みっなみー! おっちゃんが会いにき……ごっふぅっ」
深刻な空気を壊すかのように、聞きなれた明るい声が中庭の方から響いたと思った瞬間、翼と陸が瞬時に立ちあがり、美波に抱きつこうとしていた不審者を庭に叩き落としていた。
「お前か! 美波ビビらせた犯人はお前か!!」
「悪ふざけが過ぎる!!」
縁側に仁王立ちの陸と翼は、庭に倒れ込んだ金髪の男を大声で怒鳴りつけた。
金髪の男はいじけた顔で、息子ほど歳の離れた二人を見上げる。
「何? 何やの二人とも!? おっちゃんまだ何もしてへんのにっ!」
「俺に気づかれずに不法侵入できる変態なんて、あんたしかいないだろ!」
「そうだよ。美波が女子高生になっても抱きつこうとするこの変質者が!!」
「何だか知らんけど、ひーどーいーー」
あまりの言われように、その場に伏せたまましくしくと泣き真似を始める金髪男。
美波はおずおずと翼と陸の背中の後ろから庭を覗きこみ、いじける大の大人を見て苦笑いを浮かべた。恐怖に縛られていた心が、ほっと緩んだようだ。
「レイさんは、変な手紙置いて怖がらせるような事しませんよね?」
「手紙?」
美波の言葉に、泣きまねを止めて怪訝な顔で三人を見上げる金髪のおっさん、レイ。
その反応に、自分たちの予想が違った事を悟り、翼と陸は苦い顔をしたのだった。