2:小さな出会い
みゆきと行きつけの本屋に辿り着いたとたん、美波は幸せそうに顔をほころばせた。
本を読む時が至福の時間である美波にとって、本屋は宝箱のようなものだ。図書館も大好きだが、新しい本の匂いが好きな美波は、二日に一度は本屋に寄るのが習慣だった。
「じゃ、私はあっち見てくるから、後でね」
「うん」
みゆきも読書家だが、美波とは読むジャンルが全く違う。美波は恋愛物やファンタジーを好むが、みゆきはミステリーやサスペンスしか読まない。
二人の通う大型書店の小説コーナーはジャンルごとに棚が別れている為、本屋に来ると一度解散して、それぞれ好みの本を探すのが通例だった。
美波は兄弟の深すぎる愛情に少し沈んでいた気持ちをすっかり忘れ、大きな瞳を輝かせながら並べられた本を眺めていた。
タイトルや装丁、帯の文句や書店員の書いたポップなど、目に留まるきっかけは色々ある。しょっちゅう通っていても、新たに気になる作品と出会えるから不思議だ。以前から置いてあった作品でも、ある日突然気になったりする。だから、まだ見ぬ宝に出会えないかと、宝探しのような気分でたくさんの本を眺めて歩くのが美波は好きだった。
「あっ」
新刊コーナーの前で、美波は思わず喜びの声を洩らした。
はっと我に返って声をだした事に赤くなりつつ、周りに誰もいなかった事を確認してほっとすると、一冊の本に手を伸ばした。お気に入りのファンタジー小説のシリーズ最新刊。即買い決定だ。
嬉しそうな顔でその本を抱きしめつつ、美波は他の新刊に目を移した。ポップに書かれた内容を読みながら平置きにされた数冊の新刊を一冊ずつ見ていった美波は、一番端の本でその視線を止めた。
夕焼けで赤く染まった湖に佇む一人の少女が描かれた表紙に、不思議と吸い込まれた。ポップや帯の文句でどんな内容かを確認するどころか、タイトルすら目に入らないまま、その本に手を伸ばす。
と、同時に同じ本を取ろうとしていたらしい手と美波の手が重なった。
本に気を取られ過ぎて誰かが来ていた事に気づかなかった美波は、驚いて顔を上げ、相手を確認する。
そこにいたのは、学ランを着た少年だった。背はそんなに高くない。156cmの美波より少し高いくらいだから、160cm台前半と言ったところだろう。まだ幼さの残る、どちらかというと可愛らしい顔立ち。中学生かもしれない。少し癖のある茶色がかった髪に、くりっとした鳶色の瞳が印象的だ。少し驚いたように見つめているその瞳は深く澄んでいて、見た目の雰囲気とは対照的に大人びた落ち着きがあった。思わず魅入ってしまうような、不思議な光を放つ瞳……。
「あ……の……?」
「あ、ごめんなさいっ」
戸惑うような少年の声に、はっと我に返って手を離す美波。
彼の瞳にとらわれて、本と自分の手で彼の手をサンドしたまま固まってしまっていた。
「いえ」
はにかみながら、少年は手を置いていた本を一冊とった。それを美波に渡す。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとう」
美波が受け取った後、少年はもう一冊、自分用に手に取った。既に手に持っていた時代小説と共にそれを小脇に抱えてから、美波がまだ自分を見つめている事に気づき、はっと何か思い当たったように少し赤くなる。
「違いますよ、僕が読むんじゃないですから、これ。親に頼まれただけで……」
「?」
きょとんと見かえす美波を見て自分の勘違いに気づいたのか、彼はさらに頬が赤みを増した事を誤魔化すように、こほんと咳払いをした。
「って、そんな事聞いてないですよね、すみません」
「いえ」
にこっと笑いながら、美波はちらっとその書籍を紹介するポップを見た。
『あなたも淡く切ない初恋を思い出さずにはいられない、珠玉の純愛小説。泣きたい人にお勧め!』
確かに、男子中学生が読むと思われたら恥ずかしいかもしれない文句だ。美波が内容を知って手に取った思い、自分が読むと勘違いされたと考えて否定したのだろう。
言い訳する所がなんだか可愛い。
思わず微笑んだ美波に、少年は照れたように頬をかく。
「えぇと、この表紙を描いたのが親の知り合いなので、それで買うように頼まれ……」
「そうなんだ! 私、表紙の絵に惹かれて手に取ろうとしたの」
「そうなんですか?」
少年は嬉しそうに微笑んだ。人懐っこい笑みだ。
「温かで優しい絵だなって。こんな素敵な表紙の本はどんな内容なのかなって思って」
幻想的で美しく、でも包まれるような優しさが伝わってくる絵。
本の表紙を見つめながらそう言うと、彼は柔らかく目を細めた。
「ありがとうございます。今度会ったら、本人にそう伝えておきます。きっと喜びます」
それじゃ、と軽く会釈をして、少年はレジに向かって歩いて行った。
美波は二冊の本を胸に抱いたまま、その背を見送った。
彼が渡してくれた本も、買おうとしていたファンタジーの新刊も、両方ハードカバーの本だ。両方買うと、予算オーバーである。
ファンタジーの新刊は絶対に欲しい。でも、この小さな出会いをくれた、素敵な表紙の本も今日買いたかった。
美波は少し悩んだ後、二冊買えるだけの金額が財布に入っている事を確認し、そのままレジへ向かった。
「何かいい本でも見つかったの?」
振り返ると、既に会計を終えたらしいみゆきが目を細めて美波を見ていた。手には数冊の本が入っているらしい袋を提げている。みゆきは父親と同じ系統の本を読む為、本代を出資してもらえる事が多く、美波よりも本を多く買う事が多かった。
「うん。好きなシリーズの新刊が出てたのと、あとねー……」
話しかけた所でレジが空き、会話を後にしてお会計する。
本の代金を払うと財布がとても悲しい状況になったが、それでも得る者の方が大きいからと自分を慰めた。
「カバーをおかけしますか?」
「あ、えぇと……」
よく見かける店員にそう尋ねられ、美波は少し悩んだ。
いつもはカバーをかけてもらうが、表紙が気にいって買ったのに隠してしまうのは勿体ない。かけてもらってすぐはずすのも、カバーが勿体ない。
「あの、今日はいい……」
「こちらの本は、キャンペーンで専用カバーがおかけできますが」
「それだけお願いします」
片方だけカバーを頼むのもなーと、両方かけずにお願いしようとしていた美波だが、ファンタジー小説のキャンペーン用カバーを見て、かけてもらうように即答していた。黒地に青白い魔法陣が描かれた、美波の好みの物だったのだ。このシリーズは以前も同じようなデザインのしおりがキャンペーンでついた事があり、美波はそれを今も愛用している。
やっぱり本屋は大好きな場所だと幸せな笑みを浮かべながら、美波は出口で待つみゆきのもとへ急いだ。
「何、さらにいい事でもあったの?」
美波が顔に出やすいのか、みゆきの観察力が鋭いのか、みゆきの的確な問いに美波は一から説明しはじめた。
歩きながら話を聞き終えると、幸せそうな美波を横目で見つつ、みゆきは苦笑を浮かべた。
「神崎ブラザーズが過保護にしたがる理由がわかるというか、それとも、過保護にしたせいでこうなったからこうなったというか……」
「何で今の話しで『鶏が先か、卵が先か』みたいな話になるの?」
みゆきの呟きに、美波は長い髪をさらりと揺らしながら小首を傾げた。
不思議そうに自分を見つめる美波を見て、みゆきはくくっと可笑しそうに笑う。
「だって美波、大昔の少女まんがみたいな事が実際にあると思ってそうじゃない」
「何それ?」
「偶然同じ本を手に取った人と、運命の恋に落ちたりして……とか」
「そ、そんな事思ってないよ!」
否定しながら、かぁっと赤くなる美波。
ありあえないと思いつつ、実は密かにそうならないかと願ったりもしていた。
兄と弟に男の子を遠ざけられている中、偶然知り合った感じのいい少年。きっと持っていた時代小説は自分で読むのだろうし、彼も読書好きに違いない。話した感じも気さくで話しやすかったし、また偶然会えたらもっと話してみたかった。
「男に免疫なさすぎて、一見いい人そうだったら、美波、簡単に恋だと勘違いしそうだから心配だよね」
「そこまで単純じゃないよ」
「免疫ない上に、小説読んで恋愛に幻想抱いてるしね。いつか私だけの王子様が迎えに来てくれるなんて思ってたりして」
「だから、そんな事ないってば! 物語は物語。現実は違うってわかってます!!」
むきになって言いかえす美波を見て、みゆきは楽しげにくくっと笑う。
からかって反応を楽しんでいるだけだとわかり、美波はむぅっと唇を尖らせた。
「ほんと、美波は可愛いなぁ」
「からかって遊ばないの!」
「感情が素直に顔に出るから、表情豊かで見てて飽きないんだもん」
「もー」
不貞腐れる美波を、みゆきは目を細めて見つめた。
「ま、また会えたら話しかけてみたら?」
「うん」
とたんに笑顔になった美波に、みゆきは再びくくっと笑う。本当に、兄弟が心配したくなるのもわかる程、素直で愛らしい。
思わず予算オーバーの本を買ってしまう程気に入ったらしい少年が、美波の想像を裏切らないいい子である事をそっと祈りながら、みゆきは親友の夕飯の買い物に付き合ったのだった。




