表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/31

底の緑


視覚や聴覚、触覚や平衡感覚を剥奪された人間は、その状態に耐え得ない。


だからこそ拷問に使われた歴史もあり、宇宙飛行士などの苛酷な環境に適応しなくてはならない人間は訓練によって耐性をつける。もっとも拷問においては非効率とされ、訓練としては意味低下により最近では重視されない事柄ではあるのだが。


ともあれ、異常な空間内で視覚はあったとは言え、その他の五感が働かない中において、自己視認と実体感覚のみが許されたアルトが耐えた時間は長い。


睡眠の必要が無く、動きによる疲労や筋骨の磨耗や消耗を一切考えなくて良い状況。あまりにも現実離れした空間ゆえの実感の薄さなどがそれを助長したことは否定できない。しかし、褒められても良いほどの精神的な強靭さを持っていることは事実だろう。


最初の限界までの時間はおよそ7000時間。


肉体的な限界が訪れない世界で、訪れた限界は精神へのもの。


つまりは発狂。


一回目、二回目、三回目……


永遠に思える時間の中で、コンピューターが再起動するように精神が再構築再起動、意識が戻る。


壊れ、再構築され、また壊れる。


組み直され、壊れ、また組み直される。


平均すると8000から9000時間ほどだろうか、それを何度繰り返したのか。


7回、8回、9回……10回を超えていただろうか?


100回は超えていないだろうが、少なくない回数を繰り返し。少なからず精神は変質をすることになる。しかし、それ以上に技能が向上した。段階を超えた、あるいは壁を何枚も突き破ったと言って良いだろう。


肉体自体は変化していないが、それを統括する意識や精神と言ったものは大幅な革新を見た。


その均衡を失いつつある精神と肉体が何度目かの再生を迎えた時、大きな転換が訪れた。



肺の奥まで染み入るような緑の風。


葉の隙間から零れ落ちる木漏れ日は、風に揺れながら優しく触れてくる。


楽しげに鳴く小鳥のさえずりや、遠くから聞こえてくる動物の鳴声。


世界の全てが祝福を与えてくれるような穏やかな場所でアルトは目覚めた。


「んっ、ぐぁ。ふっ、ゲホッ、ガ、ガフッ」


濃密な森の中の空気に急に放り込まれたアルトは咽るように咳き込んだ。


「何だ、何、はぁ?」


起き上がり辺りをきょろきょろと見渡したアルトの体がわなないた。細かく震えながら目線を移し、周囲の匂いを嗅ぐように大きく呼吸を繰り返す。その呼吸がどんどん大きく、どんどん速くなる。


一瞬一瞬毎に体の震えが大きく荒くなり、体に込められた力が増していくのが分かる。


手は硬く握り締められ、手袋をしていなければ手のひらを破き血を出していたであろう、紅くなるのを通り越して真っ白になっている。


「漸く、漸く済んだと思っていたのに、漸く、漸く……」


顔に浮かんでいるのは世界に歓迎される事への安堵や、異常な空間からの帰還による悦びではない。


絶望。


後悔。


恥。


嘆き。


焦れ。


肩を落とし体を丸め、喉から絶望が染み出すように唸りを上げる。目からはらはらと零れる涙で下には後悔の染みが画かれる。


「生きてなど居たくないと…そんなものはもう要らないと……欲しくなんてないのに。師匠(おやじ)……あんたの言い付けだけど、もう守りたくない、守りたくない……」


地面に満身の力を込めて拳を打ちつけながら搾り出される言葉は、涙で湿りながら地を這うように唸りを帯びる。


次の瞬間、三つの黒い影がアルトに殺到する。時を同じくしてアルトも風をはらむように瞬転、荷物を握り横に跳ぶ。


察知した殺気と敵意によって肉体が一斉に覚醒する。


長時間に及ぶ訓練の影響が一気に開花し肉体が快哉を叫ぶ。


―出来る、もっと出来る―


肉体の喜びの中で、脳が、心臓が、神経が、血管が、体内のあらゆる流れが変化を起こす。


強烈な違和感と吐き出すような体の軋み、そこに加わる殺意と敵意の嵐、命の危機。脳内から発散される興奮を促すホルモン各種が肉体を戦闘用に塗り替える。


「生き続ける事が兵士唯一の勝利の形」師の残した言葉の根源、最も重要なこの言葉はアルトの行動を縛り続け、そして現在彼の生を保っている。


拳銃をホルスターから引き抜き三連射。


「遅い!」


銃口から射出された銃弾の速度が酷く遅く感じられる。重い空気の中をじりじりと進むように、高速度カメラで写した映像のようにゆったり進むように感じる。


やたらと煩い心臓の音、流れる血液が血管と擦れる感覚、広く遠くまで聞こえる耳、筋繊維の一本一本まで制御できる細やかさ、自分の後ろまで確認できるような空間との一体感、その全てがかつて経験できなかった次元で思考へ到達する。いや、殺到し襲い掛かる。


「フッ」


圧倒的な情報量を、息を吐いて頭から追い出し冷静さを保つ。袖に仕込んでいた棒手裏剣を影へと投げつける。ただ硬いだけの鉄棒を尖らせ磨いただけのものだ、かつて戦場でも武器と言うよりは工具や何かのときの足場などとして使っていたものだ。


しかし、今は投げた瞬間に相手の眼球を貫き脳まで達する事が分かった、確信する事ができた。


その確信通りに投擲された棒手裏剣は、黒い影の右目に飛び込み脳底を破壊する。その投げた腕の振りを利用し低く小さく跳ぶ。


アルトが急に眼前に現れたことによって動揺した黒い影は、数瞬動きが鈍る。アルトの前にはあまりにも十分な時間、すれ違いざまに脊髄に棒手裏剣を叩き込む。身体の動きを完全に殺された影がその場に崩れるように倒れこむ、呻く息すらもまともに出ずにただヒクヒクと痙攣するだけ。


最初に放たれた三発の銃弾が体をかすり血を流していた最後の一体は、無力な、無力なと思われた獲物からの強烈な反撃に遭い逃走を選択した。


野生ゆえの即断即決ではあったが即行動とは行かなかった、その俊敏性を持ってすらアルトの動きには効し得なかったのだ。耳孔から投げ込まれた手裏剣は精確に命と意識を同時に終わらせた。


二つは完全に殺され、一つも残りの時間は短い。


その残った一つの前で、アルトは息も乱さずに居た。ゆっくりと腰の刀を抜きながら、ぼそりと呟く。


「すまんな。意味など無いんだが、死の瞬間まで死に執着しながら生きると言うのが教えでな」


抜き放たれた刀が音も無く首を飛ばす、異様なほど低い抵抗感と血は勿論脂曇りすら刀に残さない水際立った一閃だった。


「しかし、なんだろうな、これは?」


見た目は狼に近い。漆黒の体毛と150cm以上の体高、口から伸びる長い二本の剣歯を考えないならば、アルトを襲った敵は狼だった。


しかしながら、体毛はまだ良しとしてもあまりにも大きな体格とサーベルタイガーのような長い剣歯を持った狼が地球上に存在しない事は動物に関しての知識が無いアルトでもわかることだ。過去や未来は別としてではあるが、少なくとも21世紀初頭の地球には居ないと断言しても良い。


しかし、アルトはいやと言うほど知っている事がある。それは、現実と言うものは何が起こるかまったく分からないと言う事。そして、悪い予想ほど現実のものになりやすく、多くの場合それを超越すらする事。しかも、大抵は斜め下へと悪い方向へ。


そう言ったことからアルトが想定したものが幾つかある。


その一、ここは現代の地球でこの狼は遺伝子研究の末に開発されたもの。場所としては研究所かその実験場。


その二、夢か幻。アルト個人としてはこれを一番望みたいところだ。単なる夢で気がついたらやっぱり死んでいましたと言うのが一番楽な、希望する状態だ。


その三、過去か未来の地球。まったく持って期待していないし、冗談で済ませたいような設定だが、一応思いついた。タイムスリップなどは、金と暇の余っている奴か、自分を自分でえらいと思っている学者先生が考え唸っていれば良い事だと心底思っている。


最後は、時間も場所も全て無視、別の世界か別の星。これも荒唐無稽さではタイムスリップとどっちつかず、普段のアルトなら「寝言は寝て言え」で済む問題。


「さて、二以外はどれもこれもご勘弁願いたいものばかりだな。自分で自分の言っていることが寝言に聞こえるなんて、情けないな」


首を振ってため息をつくしかやりようが無い。しかし、この場に留まってもあまり意味は無いだろう。この狼モドキが野生のものならば、他にも敵対出来得る攻撃性を持った生き物がいる可能性は高い。血の匂いに惹かれてそれらが来る可能性を考えれば、速やかに移動すべきだ。


アルトは棒手裏剣を骸から引き抜くと、黒い毛で拭いをかけた後もとの場所にしまった。


「時計は動いているし、背嚢も開けられるようになったか」


停止していたはずの腕時計や開けることができなかった背嚢も正常に開閉できるようだし、銃も使用できた。GPSは居場所をロスト、方位表示だけは動いている。しかし、少なくともあの作戦の舞台となった南ウンガルではない。季節が仮に変わろうと、赤道に近いあの場所でこの気温、この植生はありえないだろう。それこそ、何千万年も経って大陸移動か氷河期でも来ない事にはありえない。


頭を掻いて再び時計を見る、時計についている方位磁針は一応一定の方向を指している。


「とりあえず、東に進むか」


その言葉に自分自身で不思議に思う。


とりあえず。


アルトにとっては大きな言葉だ、かつて師がよく言っていた。


「なぁ、俺たちは傭兵だ、国家のためや思想のために戦っているんじゃない。


戦って金を貰って生きている。


それだけだ。


だから勇敢な戦士でもないし英雄にもならない。とりあえず何かを口に出来る状況を作るために戦うし、死なないために戦う。


戦争の勝利条件は千差万別だ。あらゆる戦争でそれぞれ違う。


だがな、傭兵の勝利条件は生き残る事、敗北条件は死ぬ事だ。シンプルにしてハードな条件だろ?


だからこそ、生き残って酒が飲めれば大勝利なのさ。お前も早く酒が飲めるようになれよ、一緒に飲もうぜ、なぁ」


当時のアルトは酒を飲んでいなかったし、むしろ嫌っていた。しかし、言葉はずっと残っている。影響を与え続けている。


「負けるな、生きていれば勝ちだ」は師の教育の根幹を成すものだ。


どれほど苦しくても、絶望しても、後悔しても、悲しかろうが泣き出そうが関係ない。


アルトは死ねない。自分では死ねない。


何時の日か、自分ではどうしようもない状況が彼を包むまで死ぬわけには行かない。


皮肉な話だろう。死にたがりなのに生き残ってきた。死を肯定するような感情が、むしろ決死の行動の中で死中に活を見出し、繰り返し身を運んだ戦場が彼を鍛え上げた。


作戦上の事であれ、個人戦闘上のことであれ、アルトを圧倒できる者は少なかった。


とりあえず生きてきた。とりあえず戦ってきた。とりあえず鍛えてきた。


その結果として、その帰結として歪なままに強くなった。


読んでいただきありがとうございます。

明日も同じ時間に載せる予定です。

ご意見ご感想などいただけましたら、狂喜乱舞いたします。

それでは今後もよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ