白い世界 水底
―重い―
最初に思ったのは体の重さと目の奥に残る白い残光。
強い光を受けた時によく残る目の中の光とまぶたの重さ、何よりも水中から陸地に上がったばかりのような体の重み。かつて経験した負傷や疲労、あるいは拘束による不自由感ではない。粘度の高い液体の中でもがく様な異質な感覚、アルトが最初に感じたのはそれだった。
とっさに薬物などの使用を懸念し動きを止め眼球の動きすらも制御する。
グルグルと高速回転する思考は現状を推測する。
爆発?
至近で爆発したのなら痛みなどを感じないのがおかしい。
閃光音響兵器?
可能性が無いわけではないが理由がわからない、あの状況で非殺傷兵器を使用する理由が。音が何も聞こえないのは鼓膜の破壊と麻酔の所為か?鈍い体もそれか?しかし、過去に経験した如何なる麻酔とも感覚が違う。話に聞く耳鳴りなどもしない。まったくの無音。匂いも感じられない。
現状は?
横臥しているようだ、手に何か握っている。何だ?背嚢か?
風も音も何も感じない。室内?おかしい、室内であっても虫などは飛び回っていたし音も外から聞こえていた。音や皮膚感覚などからの情報が一切得られない。
肉体の感覚異常。
少なからず感じる。麻薬、あるいは自白剤その他の薬物毒物の可能性もあるが、苦しさや痛みを感じない。体を動かしてもいない状態での推測に過ぎないし、体感覚自体を信用できない状況ではあるが。
高速回転する思考は数々の謎や不信不安を理解している。しかし、感情は揺れることなく冷静に思考を指令下に置いている。ただ一つ感情を揺らしたもの、感情から生まれたものがあるのなら「死んでいたら楽なのに」と言う言葉だろう。
どちらにせよ、このままでは動きようも無い。動く事を決意し目を開けたアルトの目に入ってきた光景は、無だった。
「なっ!?」
声は何処にも反射せずに消えた。続けられる言葉も全て空間に消え失せていく。
「何だ?ここは、何処?寝ていたので、いや、何が起こった?」
周囲には何も無い。敵も、自身を拘束する物も、周囲に物体と呼べるものすら無かった。
寝ていると感じたはずなのに立っている、感覚も何もかもが信用できない不安。
とっさに銃を抜こうとしたがホルスターからは抜けたものの安全装置が動かない、引き金は引けず遊底も後退しない。
狼狽し銃を落とす、アルトは気が付かなかったが銃は水中に沈むかのようにゆっくりと落ちて、足と同じ高さで音も無く留まった。
背嚢の口も開かず、腕を見れば時計の表示も何も映ってはいない。位置も状況も確認できず異様な状況が重なる。
冷静な思考が保てず、感情が爆発、あるいは凍結。
よろりと力を失い倒れかけたアルトは、その瞬間世界が90度傾くのを感じた。今まで体を支えていた地面が体の傾きと共に倒れる、回る。倒れ続ける限り足の裏に張り付いたように世界が何処までも追いかけて、纏わりついてくる。
その異常な感触、感覚、経験は感情と理性を一度踏み潰し爆砕するのに十分な衝撃だった。嵐の後のように凪いだ精神を取り戻したアルトは銃を拾うとホルスターに戻した。
「死んだ?あの世と言う奴か」
その後に続いた沈黙は、時計も見れない現状ではどれほど続いたのかも判らないがけして短い時間ではなかった。
「良かった。師匠と同じ死に様だ」
ゆっくりと座り意識して大の字に寝ると、今度は世界は回転せずにそのまま背中の下に留まった。
そのままアルトは動かずに体を横たえ穏やかな呼吸を続けていたが。
「で、死んだは良いが……何も起きない?」
上半身を起こし胡坐をかいてみる。何の変化も無い。
体は思ったように動く、しかし音も無く霞んだように視界の中途半端な世界には一切の変化が無かった。
「何だこりゃ?」
自らを落ち着かせるため体に馴染んだ方法、言葉や動作を大げさにし、あえて自分を客観視する。そのための行動は、新たな事実をアルトに確認させた。
頭をガリガリと掻くと不思議な事が起こった。頭から抜け舞い落ちた髪の毛が、逆再生されたように頭に戻った。
「出鱈目も良いところだ」
今度は自身の手でしっかりと髪を持ち10本ほど纏めて抜く、痛みは感じたが抜けた毛の結果は変わらず頭に戻る。
「ふむ」
腰に佩いた脇差に手をかけてみると、銃や背嚢とは違い鯉口を切り抜く事が出来た。軽く腕を傷つけてみると、痛みもあり血も流れたがすぐに同じように元に戻った。映像を逆再生するように肌の上をスルスルと流れた血が戻っていき、皮膚の傷が消えてなくなる。
「魔法か妄想だな、まったくの。何も出来ない上に自らの正気を疑う」
流石に首を切り飛ばしたり腹を割ったりすれば話は変わるかもしれないが、自殺に繋がっては笑えない。死ぬ事はかまわないが、自らの手でと言うのは意向の反する所だ。もっとも、既に死んでいるのだから変わらないのではとも思うが、人の考えは一筋縄ではいかない。
「趣味か、ラッセルの言うように趣味でもあれば違うのかもしれないが、暇をもてあますな。酒は無いし、他には趣味らしきものも無い。ダールならチェスの棋譜でも並べ続けるのか?」
暇さえあれば棋譜集をめくっていた戦友を思い出す。皆それぞれに趣味や生活、家族を持っていた。持たざる自分は気楽だが、彼らも死んでこのような空間に居るならばその心情はどの様なものだろう。そう考えたアルトは、自らの事を想いなおす。
親を殺され、復讐と戦場に生きた後は喪失と戦場の中で。如何考えても幸せな人生ではない。せめて、望む形の死が早々に訪れた事に感謝すべきだろうか?
「皮肉でしかない……か」
笑みと言えば自嘲のものか、殺意を孕んだ獰猛な笑みだけだ。そんな人間に、世界に対して感謝する理由は欠片も無い。
神は煽動のため。
思想も理想も結局は欲望を彩る上っ面なイミテーションだ。
少なくとも権力をすでに手にした者にとっては。
嫌なものを、それこそ腐るほど見てきた。棚に並べて商品にすれば百貨店が開けそうなほど種類と量に恵まれている、それが不幸の数なのだから喜ぶ要素は一切無いのだが。自分に降りかかったもの、周囲に振り撒かれたもの。当事者であった事もあるし、傍観者から介入者になったものもある。傍観者のまま終わったものも多くある。
それでも少ない良い経験から大切なものを持ちえていたが、恐らくはそれももう無くなった。
ラッセル始めとする戦友たちもあの場で死んだのでは?いや、死んだということが素直に受け止められた。どの様な形かはわからないが、その生を終わらせただろうと言う事が腑に落ちた。
だったら、もう何のこだわりも無い。
「そして今は、何も無い煉獄。いっそのこと責めたてられた方がましだな」
膝を立て自らを抱きかかえるように座りなおす。
のどの奥から漏らす様に静かに笑うと、体を伸ばして寝転がった。
「本当に神や権力とは相性が悪い。煉獄か、自分で言って驚いた、燃やし尽くされもしない、浄化もされない煉獄か。
ハハハッハハッ クククッ ハァッ
確かに生きたまま地獄に居たんだ。だったら次の世界は煉獄か。まさかあの学校で教えられた冗談を実践するとは思わなかった。よく覚えていたものだ、我ながら感心する」
かつて潜入したミッション系の学校で教えていた、冗談にしかならない事を思い出していた。ちなみに女子校だった。東洋系で16歳だったと言うことは勿論関係しているだろうが、何より顔つきが中性的だったので成功したのだろう。東洋系で体つきが華奢に見えたことも大きな要因だが。
アルトが唯一作戦参加を拒んだレアケースと言える。無理矢理やらされたが、一月の間普段とは別の意味で生きた心地がしなかったとはアルトの弁だ。
「だが、天国になぞは用は無い。用は無い……が」
大きなため息が漏れる。
「暇は嫌だな」
おかしさに歪む顔を隠すように手を広げる。指の間から見えるのは、安心したように緩む顔。
「しかし、趣味の無い俺に出来ることは少ない。
暇になれば、することは二つだけだ。
酒を飲むか、鍛えるか。他には教わったことが無い」
アルトは熱に陽炎が立ち昇る様に、ゆらりと起き上がった。
「酒が無いなら鍛えるさ。いつかは狂って終わるだろう。
それとも、死んでもまた死ねるのか?
死者が餓死でもしたら……それはやっぱり冗談だ」
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