思えば
アルトの一人称になります。
ウィルキンズさんが尋ねてきた事に、なぜかとっさに答えていた。
と言うより、考えがあふれてその一部が口をついて出た。
確か師匠の事とラッセルの事、マーチング・コックテイルの事、それから少しだけ親の事を話したと思う。やたらと記憶があいまいだ。こんな事を言っているようでは、師匠が怒るだろうが、事実を曲げても仕方が無い。
そう、俺が考えていたのは自分の人生だ。
何の因果か今は異世界に要る。
望んでいた場所ではないが、そんな事は人生の中で珍しくも無い。いや、望んでいた事が叶った事など…記憶に無い。ああ、本当に思い返してみれば記憶には無いな。そもそも、夢や希望とかいった物を持ったこともあるのだろうか?疑問だ。
馬鹿げているが、俺の人生は生まれる前から思い通りにはならなかったらしい。
つまりは両親だ。
父と母は、駆け落ちに近い関係でその結婚を始めたらしい。その時には、すでに俺が母の腹に居たそうだ。父と母は大学で知り合い、当時講師をしていた父と学生だった母は付き合い始めた。両親、つまり俺の母方の祖父母の反対をものともせず、押し付けられていた見合いをぶち壊して勝手に結婚をしたのだそうだ。
この情報は、師匠が調べてくれた。俺自身は両親の記憶なんて殆ど無い。覚えているのは、父は眼鏡をかけていて、母は美人だったと言う事位だろうか。
俺が生まれたのは日本のどこかだ。
少なくとも国籍は日本のものだった。
そして、3歳で記録上は鬼籍に入った。
父は結婚後家族を養うために仕事を変えた。講師の給料では生まれてくる俺と妻を養えないと考えたからだろう。もっとも、本人に聞ける機会は永遠にない、あくまでも想像するならだ。父は技師になった、もともとの専攻分野である発電に関係した仕事で即戦力になったらしい。
そして戦力であったがゆえに、ある仕事に誘われた。
海外の小国に対しての政府援助。中東のとある小国で、発電施設と送電網を整備する仕事だ。そして、父はこの仕事を請けた。
能力を請われていたという理由も有るだろうが、母の実家からの嫌がらせから逃げる意味もあったようだ。母の実家は、中々古くて社交的ではあったが、非常に小心者で狭量で無駄にプライドだけは高く、そして家族の愛情が無い一家だったようだ。早い時期から国際結婚を推奨しているような家なのに、人間の多面性の分かりやすい例だと言えるだろう。
家族揃ってその国に移り住んだ。本来の予定であれば2年。2年で日本に帰るはずだった。
当時その国は、古くから続く王制国家で小国で、はっきり言えば体外的にもあまりうまみの無い絵に描いた様な弱小国家だった。
しかし、1年後革命が起きた。
思想だの理想だのを基幹としたものではなく、唯只管に欲望によるものだった様だが、王の一族に婿入りし軍部で圧倒的な権能を持っていた将軍が軍事蜂起し、国を簒奪した。
本来ならば、父も母もそして俺も、国外退去と言うのが常識と言うものだろう。しかし、その将軍、いや強権を発動した選挙で大統領になったその男に常識は無かった。余談だが、僅か7人の選挙によって大統領になった男と言うのは、過去最小投票による大統領選出記録だそうだ。
そして、その常識を知らない大統領は、海外からの技術者や有識者の力を自侭に使おうとした。簡単に言えば、命を的に脅し、あるいは家族を人質に取り、拷問や様々な恫喝と脅迫を使い彼らを縛った。その中には、俺の父も含まれる。そして、それぞれの国許に対しては、事故による死亡を通達した。
当然ではあるが、このような暴挙が完全に隠匿されるなどありえない。世界中から不可思議な通牒に対しての疑念の声は上がった。しかし、場所と時期が大統領の立場を守り、俺たち人質を見放した。
当時はソ連によるアフガン侵攻の只中。そんな時期に中東にありながら、ソ連に対して抵抗意志を持つ国家元首の存在、宗教的な背景を強く持たない国家政権の存在は世界の雄アメリカにとって都合が良かった。そもそも、クーデターの火付けすらアメリカではないのかと言う噂もあった。個人的には、無い話でもないと思っている。中東に楔を打ち込む機会と言う物は、それこそ当時は垂涎と言ってよかった。
力関係の面白さと言った所だろうか。どうでも良い、それまで世界中の国の人間が聴いたこともないような小国に、大国の視線が向いたのだ。様々な援助や、駆け引きに裏取り引き、脅し。まさに冷戦時代を象徴する様に、東西各国の思惑の曳いた線の上で歪な緊張の上に国は成り立った。成り立ってしまった。
大統領とそのシンパは、何の事は無い新たな王族、独裁者とその一族になる。未だに各国で続く、独裁者の多くもこう言った成り上がりの当人かその後継だ。
父は技術者として働かされ、俺とは母は人質として軟禁される生活が続く。
そのはずだった。
しかし、残念な事に事態は変わる。理由は、端的に言えば我が母の容姿に因る。
母は、美しかった。
幾つかの国の混血で、白人的な鼻筋のとおりのよさやプロポーションに抜けるような色白さ、アジア人特有の綺麗な肌やつややかな黒髪をとても良いバランスで持ち合わせていた。
先ほど言った独裁者、大統領の一族には、愚かな一族の中でも輪をかけて馬鹿な男がいた。大統領の弟で、兄の影に常に隠れて裏で厭らしく笑うような狡い男だったが、こいつが母に目をつけた。
笑える話だ。内陸国であるにも拘らず、その下衆は海軍の将軍という役職を持っていた。間違いなく、身内ですら奴に期待は持っていなかったのだろう。しかし、暇と権力をもてあましたその愚か者は、父を母の目の前で殺し、俺に銃を突きつけて母を汚した。
母は、よく耐えた。
不幸にも、耐えられるだけの気丈さと俺に対しての愛情を持っていた。
その後、引き離された俺は伝え聞き、あるいは後からの調べで分かった事だが、母は本当に良く耐えた。
最愛の夫を殺され、息子と引き離され、豚に慰み者にされながらも三年は耐えたようだ。
母は壊れ、自らの服を裂き、それを飲み込んで息絶えたそうだ。ご丁寧にもその下衆が俺に教えにきた。殺意と言う物を、はっきりと認識し、復讐を誓った日の事だ、よく覚えている。
当時、俺は6歳になって少しと言った所だった。
3歳で両親と別たれ、凡そ一年後に軍の特殊訓練施設に入れられた。もっとも、そんな名前の拷問施設、そう言ったほうが正しいような場所だった。
ギリギリと、心も身体も鑢で削られて細く細く尖らされるような場所だった。
件の下衆は、嗜虐心も旺盛だった様子で、よくそこへ様子を見に来ていた。
殴る蹴るならばまだ良い。
下は4歳から上は10歳ほどの子供に、拷問の訓練と称しておとなでも音を上げる拷問をする。子供の前で親を殺し、あるいは殺させ、子供同士で戦わせる。俺も何度か殺った。重傷を負った子供は、他の子供のくそったれた訓練のために使うと言う事だ。
そこで何とか、2年生き延びた時、母の死を知った。
今思えば、その時にはすでに心は壊れていたのだろう。
目の前で父が死んだときなのか、その後の下衆による虐めなのか、あるいはあの施設での生活が原因か、母の死を知った時なのか。いつかは分からないが、あの時点では壊れていたのだろう。
母の死が哀しくなかった。
ただ、深く冷静で思い殺意を抱いた。
すでに殺しの経験はあったが、殺意と言う物を理解したのはそのときが初めてだった。初めて殺したのは、俺よりも1つか2つ年嵩の子供だった、身体も俺より大きく、壊れてしまった心で呻きながら刃物を振るう姿は恐ろしかった。その恐ろしさで、俺は彼を殺した。いや、彼女だったのかもしれないが、その時はそんなものだ。何も分からなかった。
その時から、出来るだけ感情を表に表さないようにはしていた。別に深い考えがあったわけではないが、泣く子供はよく虐待の対象になっていたから。だから、ほぼ無意識にそう言う行動をとっていたのだろう。
その時も、傍から見れば母の死を聞いても何の反応も見せない人形のような子供、それが俺だった。
その、淡々とした態度が、かえってあの豚を刺激したようだ。母が死ぬ前よりも頻繁に、あの下衆は俺の目の前に現れた。俺の浅知恵は、あまり良い結果を生まなかったのかもしれない。
何度も何度も、現れては俺を痛めつけた。
奴からすれば、毎回毎回趣向を凝らした楽しみだったのだろう。受ける側からすれば、ただただ痛いだけだ。そこには何の変化も無い。
変化があるとすれば、顔を見るたび、口を開くたび、その太った肉体がうごめくたびに俺の殺意は研ぎ澄まされて行ったと言う事くらいか。もっとも、その男だけでなく、俺や他の子供達をしごいてくれた教官共に対してもその殺意は向けられていた。当然の反応だ。
子供達は、俺も含めて毎日必死だった。もしかすれば、明日は殺し合わなければならないかもしれない者同士が肩を並べ、手を握り合い、助けられるのならば助けもした。
そして翌日には、どちらかがどちらかの眼窩に刃先をねじ込み、縊り、殴打し、噛み付き、壊して殺した。必死だ、互いにそれだけが共通していた。
必死に生き延びた。
その必死の俺たちを、哂いながら、醜く顔を歪めながら見ていた奴らに殺意を積み上げていった。
そして、その殺意が遂げられる日が来た。
遅くなっております。申し訳ない。
キケロ様返信が遅れました。申し訳ない。
謝ってばかりですね。
明日も更新します。
では