日々と馬鹿
翌日、すでに日は高く昇っている。
アルトは何時ものように、背嚢を担いだままぶらりぶらりと街中を歩き回る。時折、立ち止まっては屋台を覗いてみたり、店先に並んでいる物の説明を店主に求めたりする。
一時間ほど歩き回り、一つの屋台でそば粉で作り中に野菜と塩漬け肉を挟みこんだクレープの様な物を買うと、再び狭い路地へと入って行った。
その後本当に小さな音が三回聞こえた。それは蚊の鳴くようなとか、砂地に水が沁み込むようなとか、そう言った程度の音だった。
当然、誰も気がつかない。
アルトが入った路地をさらに奥へ、角を二つほど曲がりさらに奥へ。
下町の中でも荒れた区画。地球でならスラムやゲットーなどと呼ばれるであろう場所がある。当然のように住みたがる者は居らず、所有者が管理すら投げ出したような空き家や廃墟に近しい建物が幾つもある。
その空き家の中でも一際みすぼらしい一軒の家の中。そこにアルトと三人の男がいた。
手は後ろ手で縛られ脚は勿論指先まで縛られているので、絶対に縄抜け出来ない男達が床に芋虫のように這っていた。口には猿轡が咬まされ、目も覆われている。もっとも、三人とも気を失っていては見えようが喋れようが関係の無いことだが。
アルトは部屋に一本の蝋燭を立て火をつけると、苦笑して部屋を出た。
男達が火が灯っているうちに目覚めれば、多少のやけどを覚悟して戒めから抜け出すことも可能だろう。そうでなければこの場所からの脱出は困難を極めると思われる。
殺す事に躊躇いは無いが、死体の処理や後々の面倒を考えるとしたくない。警告と言うにはやや過激だが縛られた後の彼らがどうなっても、もはやアルトの興味の範疇外でしかない。
蝋燭の灯はせめてもの優しさ、あるいはアルトなりのお茶目だろう。
「掃除は終わり…っと」
辺りには仕事を終えた者達も現われ始めたが、未だに露店から掛かる声は熱い。食べ物の類は勿論、古着や生地に化粧品、占いや辻説法に見世物も含めた多数の店が並んでいる。
その中の一つ、装飾品を売る店でアルトは足を止めた。
「その指輪、見せてもらってもいいか?」
「あ、はい!どうぞ」
無骨な金属の指輪は飾りらしい飾りも、色見の良い石等も付いてはいない。その分丈夫でしっかりとしている。重さもある。
「その一番大きくて太いのを二つくれ。幾らだ?」
「あ…一つ50ガランです」
「そうか」
アルトは銀貨を一枚取り出すと、そのまま指輪を手にしてその場を後にした。
後に残った売り子の娘は驚いたように銀貨を握り締め眼を丸くしている。
「値切らなかった…」
どうやら少々ふっかけたらしい。まぁ、日本で考えても露店で売っている鉄製の無骨な指輪が二つで三万円もするとは思えない。
「お早いお出ましで。お掃除は済みましたか?」
「ええ、順調に。ゴミの捨て場には困りましたが」
「それはそれは、ご苦労様です」
少し早い時間ではあるがウィルキンズの酒場に顔を出したアルトはカウンターに腰掛けた。
その手を見てウィルキンズが尋ねる。
「おや?指輪ですか。昨日はしておられませんでしたな。それに、大きさがあっていないようですが」
「さっき買ったんですよ。ちょっと馴染ませておかないといけませんので」
「ほぉ。なぜです?」
「明日、使うかもしれませんから。念のために」
「そうですか。さて、今日は何をお飲みになりますか?」
「お勧めを下さい」
「かしこまりました」
ウィルキンズはにっこりと微笑んだ。
幾つかの酒を楽しみ、幾つかのつまみを楽しんだ。アルトはその日、遅くまで酒を飲んだが、酒量自体はたいしたものではない。ゆっくりと時間をかけ一杯の酒が変化していく様を楽しんだからだ。その様子に、ウィルキンズの顔は純粋にほころぶ。彼も深く酒を愛していたから。
しかし、楽しむばかりと言うわけにも行かない。
客が引き始め、一人だけ残った演奏者が緩やかな音楽を爪弾いている中、ウィルキンズはアルトに話しかけた。
「楽しんでいただけているようですな」
「ええ、旨い酒を楽しめる場所は貴重ですから。恩恵には感謝しないと」
「何より嬉しい言葉です。ありがとうございます」
アルトは静かに杯をカウンターに置くと、声を潜めて語りだした。
「掃除したゴミなら、今頃自分たちでかたをつけているでしょう。きちんと縛ってはいますが、縛っただけとも言えますし…用意もしましたし、他の客人も来るでしょうしね。客人がどうするかまでは知りませんが」
「おやおや、恐怖に震えているでしょう。思ったよりお人が悪いようだ。直接声をかけてはあげなかったのですか?」
「来るかも知れない仮定の恐怖や、意味のない闇は確かに恐ろしいでしょう。確実に来る恐怖や明らかな畏怖の対象よりも不安を誘うでしょうが」
「直接的な危害とはいえませんか…人が良いと言うべきでしょうか?」
「殴って縛って猿轡と目隠しですから、直接危害も加わっていますが。まぁ、彼ら相手にいい人になる必要はありませんから」
そう聞いてウィルキンズは噴出すように笑い出した。あくまでも上品にではあるが、おかしさを隠す気は無いらしい。
「わざと少女相手にふっかけられる人間が悪い人な筈はありませんね」
「からかわないで下さいよ」
そう呟くアルトの耳が少しだけ赤くなっている。酒の酔いではないだろう。酒場のあまり強くない照明の中では分かりにくいが、店主のウィルキンズがそれに気がつかないわけがない。
彼はことさら気持ちよく笑った。笑いながらアルトの杯に酒を注ぎ足す。アルトはやや憮然として酒を飲み干した。
「本当に、からかわないで下さいよ」
彼は憤慨していた。
常々怒っている。気焔を上げている。何かにイラつき。毎日むかむかと過ごしている。
彼は自分の家の家格に不満があった。
彼は周囲からの自分の評価に不満があった。
彼は不出来な子供達に不満があった。
彼は自分が娶った妻に不満があった。
彼は、住居に社会に周囲その他目に見えるものにはすべからく不満と不平があった。
直轄領を持たない侯爵としての家格に嘆き、無能な先祖からどうして自分ほど素晴しい人間が生まれたのかが不思議だった。
王どころか皇帝としても十分、それどころか全世界に燦然と輝く歴史上第一の人物に慣れるほどの能力を持った自分が、短期交代しなくてはならないフランの執政官でしかない事に怒りを感じていた。
自分とは似ても似つかないような愚鈍な息子や、美しさとはかけ離れたヒキガエルのような見た目の娘に不満があった。なぜ、天上の神に並ぶほど美しい自分から、全知にして全能とまではいかないかも知れないが、それに近い自分からこんな子供が出来たのか不思議でならなかった。哀れんでいた。
生まれる前から決まっていた許婚だった女。つまり、二児の母となった妻に対して、自分のような最高の男の伴侶になれたのだから毎日頭を床に擦りつけた感謝し崇尊すべきだと心から思っている。見た目も家格も知性も性格や行動も全てが下なのだ。なのに何故崇めないのかが理解できなかった。
彼は本気で思っている。
何処までもひたすらに、ただただそう信じている。
彼の信仰は頂点と底辺しかない。彼が頂点、世界を構築する要素は全て底辺。
勿論、それは幻想にしか過ぎない。狂信と言ってもいい。
彼はまともに馬すら制御できない運動音痴で、脚は短く腹は突き出て顔は娘よりもさらにヒキガエルに近い。40前だというのに薄くなった頭髪はべったりと脂にぬれたように張り付き生理的な嫌悪感を覚える者は多い。
能力にいたってはさらに酷い。目を覆わんばかりの評価しか受けたことがない。運よく貴族の家に生まれたから生きてこれただけで、最低限の仕事すらまともに出来たためしがない。フランの執政官になれたのも、彼の父がかつてよい実績を収めたから選ばれたに過ぎない。最悪、協会側で調整が入るだろうと見越して厄介払いという側面もある。あとは、妻の実家がそれなりの権能を持っているのでその縁故と言うのもあったようだ。
つまり彼は、能力も見た目もそして彼の家族も含めて、全て彼には見合っていないのだ。彼の考えとは逆の意味でだが。
そんな残念なおじさん。ゲーラル侯爵は何時にも増して憤慨していた。
彼としては大枚をはたいて雇った監視が、全て仕事を辞退してきたからだ。
曰く「無理」「死ぬ」「恐怖でやつれた」「人間とは思えない」「自分の不甲斐無さを知った」「貴方も手を引いたほうがいい」「悪魔に出会う」「知らないほうがよい世界もある」等。
ひたすら恐怖をあおることを喚いて彼らは去って行った。法外ともいえる違約金を払っても任務遂行は無理らしい。
彼らもプロだ。引き際は心得ている。
しかしながら、バカで素人で思い上がりの考え無しな空頭のゲーラル侯爵はその言葉にただただ怒りを撒き散らすだけだった。
「あと一息であの小憎たらしい生意気なヴォケの息の根を止めてやる事が出来るのに!!」
状況把握の出来ない馬鹿の末路は一つしかない。そして、状況が把握できないからその末路へとまっしぐらに彼は駆けていた。
アルトが酒を楽しんでいる頃、ゲーラルのバカは額にあぶら汗を浮かべながら怒鳴り散らしていた。
妻子が不憫になるほどの大ばか者である。
こんな男が一回限りとは言えウィルキンズを出し抜いたのだから世の中は不思議なものだ。如何なる方法を使ったのか、ウィルキンズは頭を悩ませている。
バカの行動力は時に侮れない。バカゆえに斜め後ろの策を平気で使ったりするからだ。もっとも、最終的には失敗するのだが。
馬鹿だから。
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