喰って歩む
「結局、ただの一回だったな。たった、一回」
道の角から、言われた通りを覗き込む。確かに、赤くさびた十字がかかった店が確認できた、斜めにかかっているからクロスと言うよりは×印のようだが、十字には違いない。
「先に腹に何か入れるか」
それもまたバウマンの教えだ。酔っ払いの繰言であろうと、何かの冗談の中に僅かに紛れ込んだ言葉であろうと、バウマンの言葉は全てがアウトの行動に関係してくる。
アルトは自己抑制の強い人間ではあるだろうが、好悪の感情が本来は強い。アルトにとって、師とは最も愛すべき人物なのだ。両親も、ラッセル達マーチング・コックテイルのメンバーも、彼の中では何よりも、好きと言う感情が先に来る存在なのだ。
アルトは近くにあった屋台に座る。辺りには、まばらではあるが飲み食いできる屋台が立っている。先客が食べている物を見て、アルトはこの屋台に入ったのだろう。汁そばのような物だ、塩味のラーメンに近いかもしれない。
アルトが此方に来て少しばかり気に入っている事がある。この地方は主食が麺だ。パンもあるが、朝食に食う者が多いらしく、それほどバリエーションは無い。反面、麺類は焼いた物から汁物まで数多くある、麺の素材も小麦やそば粉、米らしき物や芋から作った物まで多種多様だ。もっとも、それは街中で金に余裕がある者達が食べる食事だ、貧しい者達は芋ばかり食っている。貧民の事を芋食いと言う事もある。
貧民には百姓等も含まれるが、孤児やその成長した者達が多い。今は休戦中だが、長きに渡る戦いは何世代分もの戦災孤児を作り出した。彼らを救済する構造が皆無なわけではない。しかし、全てを救えるものでもない。
至極当然に、彼らは飢え、時に犯罪を犯す。誰が悪いと言えるものではないが、大きな町には貧民窟が作られる事になる。
かつてはアルトも戦災孤児だった。かなり変則的ではあるが、内戦とその影響によって両親を失った事には変わりが無い。
もっとも、彼は飢えた事がない。様々な悪意や暴力が彼を襲ってきたことには間違いない。しかし、質はともかく量だけは食べられる環境に彼は居た。決して善意からの行動ではなく、唾棄すべきような悪意からの行動ではあっても、飢餓を感じた経験は少ない。
それでも、バウマンが初めて食べさせてくれた麺には言い表せない感動を受けた。たかがインスタント、軍人が携帯するレーションではあったが、彼が手を加えて作ったその料理は忘れられない物だった。
幼くして父母から切り離されたアルトにとっては、歪ではあれ家族の温かみだったのかもしれない。
口には出さない。現在では殆ど無意識になってしまっている。しかし、表情が顔に出にくい彼には珍しく、満足そうに麺をたぐる。
「美味いね」
「冒険者かい?にいちゃん。贔屓にしてよ」
「ああ、美味いね。いつもここ?」
「大体ね」
嬉しそうに食べるアルトの姿からは、凄腕である事など想像も出来ないだろう。のんきな冒険者の姿でしかない。店の親爺も安心して話しかけてきた。
「美味そうに食ってくれると嬉しいよ」
店の親爺がにこやかに笑う。思わず、といった具合に漏らしたアルトの言葉が嬉しかったのだろう。どうやら、この店の味はアルトの趣味に合ったらしい。
屋台を離れ、先ほど確認した酒場に入る。他の店に比べると、やや重くて厚い木の扉をぬけると中には静かな空気が漂っていた。まだ、時間が早く酒場に通うような時間ではないからだろうか、飲んでいる客はまばらだ。幾つかのテーブルとバーカウンター、カウンターの奥には下に酒樽、棚には酒の入っているであろう甕が並んでいる。店の奥のほうには、舞台らしき一段高くなった場所があり、両脇には布で目隠しをしてある。
シタールのように首が長い弦楽器と、妙な箱、それから太鼓らしき物が舞台の隅に置かれている。演奏などもするのだろうが、太鼓以外は見た事が無い物ばかりだ。弦楽器の横には弓が置かれている、演奏に使うのだろうが、異様に長い、アルトの身長ほどもある。シタールのように見えても、撥弦楽器ではなく擦弦楽器のようだ。
アルトはとりあえずカウンターに向かい、座って良いかと尋ねた。店の主人は面長で柔和な顔の壮年男性で、笑顔をアルトへ向けてそれに応えた。特に高級そうな服を着ているわけではないが、凛々しく気品のあるいでたちをした主人は50前後だろうか。豊かな銀髪に近い色の髪を後ろに流している。肩に掛けられた光沢のある布は礼装のようだ。薄いクリーム色の服に黒い掛け布、全体的に落ち着いた雰囲気でまとめている。
「何かお勧めのものを。出来れば最初は軽めで」
「かしこまりました」
アルトの注文に頷くと、主人は奥の甕から一杯を錫製らしい杯に入れて出してきた。
「ロートハイド。南方のものですが、運よく手に入りましたので」
杯の中の酒は、透明で少し赤みがかっている。飲んでみるとさわやかな酸味で口当たりがよく、酒精は低いがキリリとした爽快さがある。そして、補うように熱帯の果実のような甘い芳香が飲み応えを増し満足させてくれる。最初の一杯としてはこの上ない、次の杯に期待のかかる酒だった。
「良いですね。気に入りましたよ」
「それは良うございました。此方は、ハツカゴマの塩漬けでございます」
金柑のような、小さな柑橘系の実を塩につけた物が出された。それぞれに串が刺さっており、一つを口に入れると塩気と酸味が口の中を切り替えてくれる。摘みと言うよりは、チェイサーに近い役割のものだろう。
舌を新たにしてもう一口と杯の酒、ロートハイドを飲んでアルトは唸った。
「美味い」
「喜んでいただけると嬉しゅうございますな」
「ええ、この間飲んだ物があまりにも酷くて。なんと言いますやら、酷い安物で喉も口もやすりで削られるような、そんな酒だったので余計に。いや…美味い」
「それは災難でしたな。しかし、多種多様な酒に出会うのも酒の楽しみ、そう考えれば酷い物にあたる事も経験と申せましょう」
「おかげで美味い酒がより美味く飲めています。次はちょっと変わった物を出していただけませんか?強い物でも構いません」
「そうですなぁ」
話しながら杯を干したアルトの次の注文に、主人はしばらく考えると一本の瓶を取ってきた。土瓶や陶器の甕ではなく、ガラスの瓶で表に文字が掘り込んである。新たな杯に少しだけ注ぐと、辺りに濃密な香りが漂った。鼻を突くと言って良いほど強烈な甘い芳香だ。
「まずはお試しください」
そう言われて、アルトは杯を手に取ると、ゆっくりと咬むようにそれを飲んだ。
華やかな甘みと強い酒精、それを流すように鋭く酸味が通り抜け圧倒的な芳香が鼻に抜ける。癖が強く酒精度も高い、万人向けとは言えないだろうが、恐ろしいほどの力を秘めた酒だ。
「素晴しい」
アルトが反射的に言葉を漏らすと、主人はにこやかに頷いた。
「お気に召したようですな。これはアキツォール。蜜から造った酒です。癖は強いですが、力が湧き出すような高揚感を与えてくれる酒です。昔は騎士に愛飲され、別名を『行進の酒』とも言います」
「行進…マーチ…行進の酒」
「ええ、行進の酒。軍靴の音と馬の嘶き、掲げた剣の酒でございます」
「そうか……」
静かに俯くと、アルトは杯の上に手のひらを重ねた。杯に酒を注ぐのを制止するように蓋をする。
「何か?」
「頼みがあるのですが、宜しいですか?ご主人」
俯いたままでアルトは訊いた。
「何でございましょう?」
「その酒を用いて、混酒を混酒を作ってもらえないだろうか。行進する混酒を」
「行進する混酒でございますか。さようですか。ふむ」
新たに酒の瓶と小さな壺を持ってきた主人は静かに語り出した。
「アキツォールは癖が強く、偏りのある酒ではございますが、すでに完成した形を持った酒でございます。何かを混ぜれば破綻するか、まったく別のものになってしまうでしょう。
しかし、あえて足すならば、新たな完成と上昇を求めなくてはなりません。
この酒に足すならば、僅かな苦味。
あるいは、痛みでしょうか」
小さな杯に幾つかの酒と果汁を混ぜ、最後に勢いよくアキツォールへと注ぎ込む。一度、杯をカウンターの上に軽く打ちつけると、アルトが覆いを外した杯にそれを注いだ。
「名前は付けておりません。どうぞ」
「もう一杯、杯をくれ。何も入れなくて良い」
「承知しました」
アルトに言われたとおり、新たな杯をカウンターに置く。アルトは注がれた酒を少しだけ新たな杯にも分けた。
「献杯」
そう言って杯を掲げると、主人は一歩下がり俯く。アルトは杯を口に運び、もう一度呟く。
「献杯。マーチング・コックテイルへ。ラッセル、ダール、トール、ゲイリー、ベンス、マクマホン、キーンズ、俺だけ残っちまった。半端所属の俺だけじゃ、今更後も継げやしねぇ。あんたらも望みはしないだろうが………」
その後の言葉は口から漏れなかった。寂しい、哀しい、あるいは怒り、様々な事を言葉にしてしまえば出来たのだろうが、出しては別のものへとなってしまう。アルトはそれを言葉にしなかった。
僅かに杯の底に酒を残し、アルトは杯を飲み終えた。本来、客が飲み終えた杯は速やかに片付けるのが高級な店のやり方ではあるが、主人はそれを片付けなかった。
しばらく、主人もその場から離れ、カウンターにただ一人でアルトは酒杯を眺めている。
段々と店の中には客が増え始め、舞台では歌と楽曲が始まっていた。
歌謡の女性は、伸びやかな声で歌い、肢体を伸ばし、踊りを始めた。
決して破廉恥ではなく、しかし優美で艶饒。派手さは無いが、躍動感と生命力に溢れた踊り。
歌もさることながら、その踊りの素晴しさにアルト以外の客は目を奪われた。
その時だ。
入り口の重い戸を開けて、荒々しく男達が入ってきたのは。
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