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もういない、誰かとあたし

作者: 居待月

 今ものすごく寂しいはずなのに、何も感じない。涙も流れないのはどういうことだろう。でも胸が詰まる。苦しいような気がする。ああ、やっぱりそうなんだ、私は、私は――――




 部屋の中には、静けさと共に冷たい夜の気配がただそこに横たわっているだけだった。カーテンが開いたままの窓から薄明かりが差している。星明かりだけでも夜はこれだけ明るいのだと、祐香は今更気づかされた。時計は午前二時を回ったところ。ひんやりとしたベッドに横になって、何となしに部屋の中を見回してみると、見慣れたはずの風景も少しだけ違っているように見えた。

 当たり前かな、と祐香は思う。実際この部屋からは、日ごと人が住んでいたという気配が薄れていきつつある。モデルルームのような、生活感のない無味乾燥な部屋に変わっていく。台所の食器類も、本棚のマンガ本も、今彼女の横になっているベッドでさえ綺麗に整えられていて、しかもしばらく使われた様子がない。そのうち、人が住んでいたのかさえわからなくなるのかもしれない。これほどまで整理された部屋では、どんな人間が住人だったのか、詳しくはうかがい知ることができないだろう。

 もちろん祐香はこの部屋の住人ではなく、当の主は今はいない。

 今は、と言っても、この先どれだけ待っても帰ってくることはない。

 帰ることのできない場所へ行ってしまった。

 ふと、部屋の中を泳いでいた視線がベッドの反対側にある勉強机で止まった。

 その上には写真立てが一つ。飾られた写真に写っているのは一組の男女。一人は祐香、もう一人は――

「宏樹……」

 微かな声で、呼びかけるように呟いたのはこの部屋の主の名前。そしてそれはまた、恋しい人の名前。

 もちろんそれに答えてくれる人がいるはずもなく、祐香の声は部屋に漂う夜の気配に吸い込まれて消えていった。ここにはいないその姿を探すように、再び視線が部屋の中をさまよう。別れはあまりにも突然すぎた。あまりにも早すぎた。

 祐香と宏樹がつきあい始めたのは、高校の時からだった。同じ大学に進学してそれから三年。大きな事件もなくて、平凡で幸せな毎日が過ぎていった。ただ一つ皆が心配していたのは宏樹の心臓のこと。昔から軽い持病持ちだった彼は、普通にしていれば問題なく暮らしていけたのだが、ときどき体調を崩すことがあった。

 今年の夏は、去年と違ってひどく暑くなった。「これじゃすぐバテるよ」と毎年毎年、冗談めに言っていたのを祐香はよく覚えている。そんな風に言っていてもそれほど大きく体調不良を起こすこともなく、逆に祐香がバテることが多かったくらいだ。今年の夏も例年と変わりなく二人で過ごせるはずだった。夏の入り頃に少し具合が悪いようなことを宏樹は言っていたが、それは特別気にすることもないと笑い飛ばしていたのである。

 それが七月の半ば、夏休み前の期末テスト直前に彼から入院したと連絡があった。案の定、心臓の具合が良くないらしい。しかし祐香が見舞ったときには、病人とは思えないほど元気な様子でいた。半期無駄にしてしまったのはしょうがないが一月もあれば退院できるとのことで、誰もが安心していたが――、

 それから二週間ほどして、八月の頭。唐突に掛かってきた電話に、祐香は愕然とした。あの時ほど自分の耳を疑ったときはない。初めの一言の意味がよく理解できなくて、そこから後に何を聞いたのかも覚えていなかった。

 宏樹が死んだ。

 たったその一言が彼女には大きな衝撃だった。

 前日に見舞ったときはいつも通りの様子でいたのに。最後に見た笑顔は、何も特別なものではなかった。当然のごとく、明日も会えるものだと信じて疑わなかったのだ。まさかこれほど急に容態が悪化するようなものだとは思いもよらなかった。病気だったことをあまり重く見ていなかったとか、そんなことは関係なくて、それはあまりにも突然すぎた。悪い夢を見ていると思いたかった。正面から受け止めるだけの覚悟がつかずに、それでも涙だけは止まらない。それから三日間、そんな状態が続いていた。まともに家族とも会話ができず、心配する両親の声もよく耳には入らなかった。葬儀の時になってやっと彼が死んだのだと実感したのだった。

 そこまで思い返して、祐香はベッドから起き上がる。そして机の所まで行くと、その横の本棚の前に座り直した。ちょうど窓から差し込んだ明かりと闇との境界線をまたぐような形になる。右半身だけがぼんやり照らし出された格好になった。

 一人でいる夜は長い。

 ぎゅっと膝を抱えて、祐香は冷たい感触のするフローリングに視線を落とした。夏場なのに、少し寒いような気がする。気温がというわけではなくて、身体も心も含めて自分を包んだ雰囲気そのものが冷たいように感じられた。

 これからずっと、毎日同じような時間が流れていくのだろう。それはひどく暗くて先が見えない道で、今はそこを行くのがとても怖い。今は前に何も見えないような気がしていた。

「ああ、あの時やめとけばよかったな」

 改めて部屋を見回して思うのは、今更ではあるのだが片付けなければよかったということ。

 時折、祐香は宏樹の部屋を片付けることがあった。あの日も、宏樹が入院した日も、いつものように部屋を掃除した。どうせ帰ってくればまた散らかすことになるのだ。何気なくそう思っていたのだが、今になって後悔することになるとは考えもしなかった。整然としすぎていて、何一つ彼が生活していたという気配が感じられなくなっている。まるで別人の部屋のように。

 寂しいはずなのだ。そうに違いないのに、なぜか今ははっきりとした感覚が胸の中にない気がする。寂しいどころか、他の感覚もまったくと言っていいほど感じていないような。何もかも抜け落ちてしまったような空疎な感覚。

「なんで、」

 祐香はふうっ、と嘆息して、俯く。

「なんで、こんなことになったのかな……」

 後悔を含んだ言葉がこぼれた。

「切ったのに」

 不意に頭を上げると、左手を星明かりに照らして見遣る。

 確かに切ったはずだった。

 祐香の左手首にはまだ新しい刃物傷がついている。今しがた切ったかのようにまだ傷口は少し開いているが、血は流れ出てはいない。

「あたし、死んだはずなんだよね……」

 寂しげに、また確認するかのように呟いて、傷口に触れてみる。

 痛みはない。血の固まっているような感触もない。気持ち悪いわけではないが、変な感じがする。

 やっぱり死んでるからなのか、と妙に納得して祐香は軽く息を吐いた。

 馬鹿な真似をしてしまったと今は思うが、あの時は気が動転しすぎてわけがわからなくなっていた。葬儀が終わったその夜、散々泣きはらして家族と顔をあわせることもしたくなく、祐香は部屋に閉じこもっていた。そして夜中になってからふと、ある決意を行動に移したのである。

 要は、宏樹の後を追ったのだ。単純な方法であるが、実家のバスルームで手首を切った。あやふやながら覚えているのは、緩い痛みと赤い色の漂う浴槽、そしてまどろむように薄れていく意識。これで死ぬのだ、宏樹に会えると思ってそれに身を任せた。しかし、次に気づいたときにはこの部屋にいた。宏樹の葬儀から三日が経っていた。その三日が何だったのかはわからない。だがまだ宏樹の両親は、この部屋を引き払うことをしていなかったらしい。祐香の知っているいつも通りの部屋のまま、片付けた日のままだった。

 まさか自分の葬式を見ることになろうとは思いもよらなかった。続けざまの不幸ごとに、誰もが憔悴しきっているようすだった。家族も、友人たちも、高校の恩師も、皆自分の死を悲しんで涙を流してくれている。自分の葬式の最中にいるということに唖然としてしまったが、別段ひどく驚くこともなかった。ただ、自分も死んだのだという実感だけが少しずつ湧いてきただけだった。今この場に居るのだと伝える手段が無かったことだけが歯がゆかった。立ち尽くした祐香の横を、皆が通り過ぎていく。彼女はそれをただ見送るだけしかできないのだった。その後は結局、家にいるにもただつらくて宏樹の部屋に戻ってきたのである。

 それにしても、どうしてこんな状況になったのか祐香にもそれはわからない。後を追おうとして自殺したはずなのに、まだここにいるということはどういうことなのか。

 死んだのは確かだ。食欲もわかないし、眠気もおきない。まず物にぶつかるという感覚もなければ、痛みも感じない。祐香の感覚の上では物を持ったり、ドアを開けたりしている感じはあるのだが、実際には触れているわけではないから動いてはいない。便利なのか不便なのかよくわからなかった。未練でもあるのかと考えれば、それはもう山ほどある。しかしそれは宏樹も同じはずである。それならなぜ、自分だけがこの世界に居残ることになってしまったのか。可笑しな話だが、笑うわけにもいかなかった。理由を探そうにも祐香には見当が付かない。考えれば考えるほど、なにもわからなくなるだけだった。

 誰の未来にももう自分は存在しないのに、それでもこれから自分はこの世界に存在し続けるのかと思えば、寂しさを感じてしまうはずなのに。それも感じているのかさえよくわからないなんて。

 これからどうなるのだろう、まったく先がわからない。この状態がどのくらい続くのか。もしかすれば、永久にこのままなのかもしれない。それでは宏樹に会うことも叶わないだろう。しばらくすれば、この部屋にも居られなくなる。

 その後は?

 自分が一人暮らししていた部屋もすぐに引き払われてしまうに違いない。実家に帰っても一人でいるのは変わらない。

「ねえ、あたしはこれからどうしたらいい?」

 誰も答えてくれる人はいない。そこに在るのは夜の気配だけ。急に自分を包みだした孤独に、祐香は身体を強張らせた。

 誰か助けて。

 どうすることもできずに、彼女はさらに強く膝を抱えた。



 教えてほしい。いつになったら彼の下へいけるのか。誰でもいいから、この夜から抜け出す方法を教えてほしい。

 誰か、誰か――――


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