第八章 新しい鍵
朝の光が、壊れた窓から遠慮なく差し込んでいた。
ダニエルは居間の中央に立ち、家の惨状を眺めた。窓ガラスは床に散らばり、壁には黒い焦げ跡が残っている。玄関の扉はかろうじて形を保っていたが、枠が歪んでいた。地下室に至っては、何から手をつければいいのか考えるだけで頭が痛くなる。
結界は維持できていた。昨夜の攻撃でいくつかの箇所が弱まっているものの、外部からの干渉を防ぐ働きは残っている。修復には時間がかかるだろう。時間と、材料と、かなりの量の忍耐が。
ダニエルは床のガラス片を避け、椅子に腰を下ろした。
小さな竜が、すぐに足元へやってきた。
「そこにいる必要はないぞ」
竜は答えず、黒い頭を傾けた。鱗の隙間に残る赤い光は、昨夜のように激しく明滅していない。呼吸に合わせて、かすかに明るくなったり暗くなったりしている。
ダニエルが立ち上がると、竜もついてきた。
「……なるほど。私が動くと、お前も動くわけか」
竜は彼の靴に鼻先を押しつけた。
「懐かれたんじゃないか」
居間の反対側から、ルシアンが言った。彼は昨夜からほとんど同じ場所に陣取り、無傷のグラスを見つけてきて、牛乳を飲んでいる。
「違う。こいつは孵化したばかりで、ほかに行く場所がないだけだ」
「その二つに、どれほどの違いがある?」
「俺が食事と寝床を用意する義務が発生するかどうかだ」
「ずいぶん人間的な区別だな」
「人間の家に住んでいるんだから、人間の問題を増やすな」
竜は二人の会話に興味を示さず、ダニエルの足元で丸くなった。彼はその様子を見下ろしたが、意味を読み取ろうとはしなかった。安全な場所だと感じているのかもしれない。単に疲れているだけかもしれない。どちらにしても、今すぐ答えを出す必要はなかった。
問題は、竜がここに居続けるわけにはいかないことだった。
昨夜の強制術式は解除した。魔術師たちの装置も破壊た。少なくとも、あの計画をこの家で再開することはできない。
だが、竜の安全を確保することは別の問題だ。ダニエルの家は隠れ場所にはなっても、竜を育てるための設備などない。そもそも、彼は竜の飼育方法を知らなかった。
悪魔祓いの仕事を始めたとき、こんな知識が必要になるとは想定していなかった。想定していたら別の仕事を選んだかというと、たぶんそうでもない。人間は、選ばなかった人生まで都合よく考える生き物だ。
玄関の外で足音が止まった。
ダニエルは顔を上げた。結界に異常な反応はない。昨夜のような複数の魔力も感じられなかった。
呼び鈴が鳴った。
「今度は誰だ」
「訪問者に対する態度としては、あまり歓迎されていないようだな」
「歓迎される理由のある訪問者なら、まだ検討する」
ダニエルは扉を開けた。
立っていたのはモーガンだった。
彼女はまずダニエルの顔を見て、それから彼の肩越しに家の中を見た。壊れた窓、壁の焦げ跡、散乱した家具。その視線が地下室へ続く階段に向いたところで、彼女の表情が変わった。
「卵は?」
「無事だ」
ダニエルが答えると、モーガンは息を吐いた。張りつめていたものが、ようやく緩んだようだった。
「よかった……」
「君にとっては、だろうな」
彼女の安堵が消えた。
「ダニエル、私は――」
「説明してもらおう。なぜ事情を何も話さず、危険なものを私の家に置いていった?」
声を荒らげるつもりはなかった。怒鳴ったところで、壊れた窓が元に戻るわけではない。だが、平静な声で話せることと、腹を立てていないことは別だった。
モーガンはすぐには答えなかった。
「追跡されていたの。事情を知る人間が増えれば、それだけ卵の居場所が漏れる可能性も高くなる。あなたの家なら、結界で魔力の反応を隠せると思った」
「それで、私には何も知らせなかった?」
「あなたなら守ってくれると思ったから」
「信頼と、無断で危険物を持ち込むことは別だ」
モーガンは口を開きかけた。しかし、居間の壁に残る黒い跡を見て、言葉を止めた。
昨夜、彼女がここにいれば、何が起きるかを説明できただろうか。強制術式のことも、魔術師たちの目的も、竜がどれほど不安定な状態にあったかも。そうすればダニエルは、卵を預かることを断ったかもしれない。
その可能性があったからこそ、彼女は説明しなかったのだろう。
ダニエルはその判断を理解できた。理解できることと、許せることもまた別だった。
「あなたを巻き込むつもりはなかった」
「だが、巻き込んだ」
「……ええ」
モーガンは今度こそ言い訳をしなかった。
「私の判断が、あなたに余計な危険を負わせた。謝るわ。家の修理費用も私が負担する」
ダニエルは壊れた窓を振り返った。
「窓だけじゃない。扉の枠と、壁と、地下室。それから結界の修復にも材料が要る」
「わかった」
「専門家を呼ぶ必要があれば、その費用もだ」
「わかったと言っているでしょう」
「念のため確認している。君の説明は、必要なところがいつも抜けているからな」
モーガンは反論しなかった。今度は、その沈黙に多少の反省が含まれているようだった。
彼女の視線が、ダニエルの足元へ移った。
竜はモーガンを見ていた。黒い頭を少し低くし、前脚に体重をかけている。威嚇するほどではないが、警戒しているのは明らかだった。
「この子を連れに来たの」
「そうだろうと思った」
ダニエルはしゃがみ、竜の頭に手を伸ばしかけて止めた。昨夜、竜は自分から鼻先を手に触れさせた。だからといって、いつでも好きに触れていいことにはならない。
「モーガンが迎えに来た。君を安全な場所へ連れていくそうだ」
竜は瞬きをした。
言葉を理解しているかどうかはわからない。それでも、ダニエルは急いで引き離すつもりはなかった。彼は少し身体を横へずらし、モーガンが近づけるだけの空間を空けた。
モーガンは慎重に膝をつき、手を差し出した。竜はすぐには応じなかった。彼女の手とダニエルの顔を交互に見てから、小さく喉を鳴らした。
「無理に抱き上げるなよ」とダニエルは言った。「昨夜、拘束術式に反応した。急に捕まえようとすれば、また警戒するかもしれない」
「わかっているわ」
「本当に?」
「ダニエル」
「確認だ」
モーガンはため息をつき、手を引かずに待った。
しばらくして、竜が一歩だけ彼女へ近づいた。次にもう一歩。鼻先で指の匂いを確かめるようにしてから、彼女の手に頭を寄せた。
モーガンはその反応を待って、そっと竜を抱き上げた。
竜は一度だけ身体をこわばらせたが、暴れなかった。彼女の腕の中で姿勢を整えると、黒い頭をダニエルのほうへ向けた。
「安全に育てられる場所を確保するわ」とモーガンは言った。「二度と、あんな計画に利用されないようにする。必要な対策も講じる」
「今度は、その場所について説明してから連れていってくれ」
「約束する」
「善処する、じゃなくて?」
「約束するわ」
ダニエルはうなずいた。
竜はまだ彼を見ていた。彼は手を振ったり、別れの言葉を並べたりはしなかった。ただ、竜の視線を受け止め、モーガンが玄関へ向かうのを見守った。
扉のところで、モーガンが振り返った。
「本当にありがとう、ダニエル」
「修理費用を払ってから感謝してくれ」
「わかったわ」
今度の返事も、信用できるかどうかは保留にしておいた。
モーガンが竜を連れて出ていくと、家の中は急に広くなったように感じられた。地下室から聞こえていた唸り声も、照明のちらつきもない。壁の傷や壊れた窓は残っているが、少なくとも何かが孵化しそうな気配は消えていた。
ダニエルは扉を閉めた。
「ずいぶん懐かれたな」
ルシアンが、待ち構えていたように言った。
「その話はもう終わった」
「竜は君を見ていたぞ。別れを惜しんでいたのかもしれない」
「孵化直後の生き物が、最初に安全だと感じた場所を覚えていただけだ」
「それを懐いたと言うんじゃないのか?」
「俺は引き取らない」
「誰もそんなことは言っていない」
「君は今、そういう話に持っていこうとしていた」
ルシアンは楽しそうに笑った。ダニエルは相手にせず、床に散らばったガラス片を掃き集め始めた。
玄関の鍵が目に入った。昨夜の侵入者たちにとって、鍵など意味をなさなかった。ルシアンも普段から、鍵を使わずに家へ入ってくる。それでも、新しいものに交換する価値はあるだろう。少なくとも、人間の泥棒には役に立つ。
「鍵を交換したほうがいいんじゃないか」とルシアンが言った。
「そのつもりだ」
「今の鍵は、君の知人たちに対して何の役にも立っていない」
「人間の泥棒には効果がある」
「人間の泥棒は、君の家に何を盗みに来るんだ?」
「今は、壊れていない家具があると思われているかもしれない」
「なるほど。希望というものは残酷だな」
ダニエルは返事をせず、掃き集めたガラスを容器へ移した。
結界の修復は今日中には終わらない。窓も直さなければならない。魔術師たちの計画については、押さえた証拠を渡し、今後の処理を進める必要がある。モーガンが約束を守るかどうかも、しばらくは確認しなければならないだろう。
厄介事は、終わったあとにも請求書を残していく。
「君の家は、退屈しないな」とルシアンが言った。
「退屈を取り戻すために修理するんだ」
「それは成功しそうか?」
ダニエルは壊れた窓を見た。それから、修理の必要な扉を見た。
「費用次第だ」
ルシアンが笑った。




