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殿下、もう何もかも手遅れです  作者: 魚谷


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1/3

1 終わりのはじまり

「父上!」


 王太子アドルフォス・フォン・ストリークが部屋に飛び込んでくる。

 その場にいる宰相のエルゾーク・ヴィローワ公爵、そしてアドルフォスの婚約者でエルゾークの娘であるロザリンデ・ヴィローワ公爵令嬢は深々と頭を下げる。

 普段から人一倍見た目を気にするアドルフォスだったが、いつも僅かな隙もなくきっちり整えられた美しい金髪は乱れ、ロザリンデと同じ学園の制服も着崩れているところから、彼がどれほど慌てて駆けつけてきたかを窺い知ることができた。

 しかし部屋に飛び込んできた王太子はひとりでなかった。



 彼に寄り添うように、小柄な少女がいたのだ。

 肩の辺りで切り揃えられたピンクの髪に青い瞳。これと言ってすぐれたところのない平凡な目鼻の顔立ちに、ロザリンデと同じ学園の制服姿。



「申し訳ありませんが、ここは……」



 侍従が少女を追い出そうとするが、「触れるな!」とアドルフォスは鋭く告げ、少女を守るように優しく抱き寄せた。



「殿下……っ」



 少女は必要以上に過剰に反応し、アドルフォスに追いすがる。

 潤んだ瞳と相俟って、それがどれほど男の庇護欲をそそるのかは、アドルフォスの反応を見ても明らか。



 少女は、エレイン・プルツァ。

 プルツァ男爵令嬢にして、百年に一度生まれると言われる聖女。

 聖女はあらゆる傷を癒やす『聖力』と呼ばれる治癒の力を使う、奇跡の人のことを指す。



「父上、聞こえますか。アドルフォスでございます……っ!」



 アドルフォスがベッドに縋り付く。

 そこには、骨と皮と表現したほうがいい老人が横たわっている。

 やつれ、死の色が表情のそこかしこに滲んでいながらも、往時の威厳を失ってはいないストリーク王国の十七代国王、レスター八世である。

 聖女の力ならば、もしかしたら癒やせたかもしれない。

 だが、エレインが力に目覚めたのは一年前。

 今の彼女にできることは傷を治癒することがせいぜいで、今の彼女の力では死の運命に絡め取られた人間まで救うことはできない。

 奇跡を起こすには彼女は、まだ未熟だった。



 息子の呼びかけに、レスターはゆっくり目を開けた。

 虚ろな光を浮かべている青灰色の瞳が息子、そしてその隣の聖女へと向けられた。

 その表情がかすかに歪むのを、この場のどれほどの人間が気づくことができただろう。

 レスターは荒い息遣いを繰り返し、その乾ききった唇が小刻みに震えながら、開かれる。



「何ですか、何を仰りたいのですかっ」

「す……ぬ……」

「え?」

「す、ま、ぬ……っ」

「父上、謝らないで下さい! 大丈夫です! 私がこの国を引き継ぎ、再び偉大な国にしてみせます!」



 アドルフォスは父の手を包み込むように握り締めると、涙ながらに告げた。

 息子の力強く頼もしい言葉に、レスターは応えようとしたが、結局それは言葉になることはなかった。

 それよりも早く、神がレスターの魂をさらってしまったのだ。

 やがてその手から、かすかに残された最後の力さえ消えた。

 温もりを残しながらも、もうその手が誰の手を握り返すことができないのは明らか。



「……父上……」

「殿下」



 エルゾークが声をかけようとするが、振り返ったアドルフォスの鋭い眼差しに動きを止めた。

 亡き后によく似た青い瞳に滲んでいる感情は憎悪と言って良かった。



「反逆者め! すぐここから出ていけ!」

「殿下」



 父への暴言に、ロザリンデが口を開こうとするが、アドルフォスは婚約者に対してもまた刺すような視線を向けた。



「これは王太子の命だ。ふたりとも、すぐにここから出ていけ! ここは、お前たちのいるべき場所ではない……!!」



 ロザリンデたちは深々と頭を下げると、命令通り、部屋を出ていった。

 ロザリンデたちが出ていくなり背後で扉が閉じられた瞬間、「何ということだ……あと、あともう少しだったのに……」とそれまで能面のように表情を変えることがなかったエルゾークが膝から崩れ落ちる。



「父上」



 ロザリンデは駆け寄り、父の背中を優しくさする。

 腰まで届くほどに銀色の髪に、明るい紫色の瞳は切れ長。

 見る人によっては冷淡にも見えるかもしれない顔立ちは、怖ろしいほど整っている。

 常日頃から感情が表に出ることのない表情だったが、父へ向ける表情は歪んでいた。

 そこにあるのは悲しみと痛み。



「……すまなかった。これまでお前にどれほど助けられたか……それだというのに私は何もなすことが叶わなかった……無力な父を許してくれ……」

「ともかく、離れましょう。父上には、宰相としてやらなければならないことが残っております」



 本当であればかけるべきはもっと優しく、慈悲のこもった言葉であることは分かっている。

 しかしエルゾークはレスター八世を支えた最も親しい側近であり、王が病に倒れてからはこの国の政の舵取りを任されてきた宰相だ。

 そうである以上、公私は分けなければならない。



「……そうであった……臣下として、友として、レスターを見送らなければ……」



 娘の言葉にどうにかエルゾークは立ち上がった。

 それでも今にも倒れそうなほど顔色の悪いエルゾークを支えるようにロザリンデは寄り添い、ふたりは長い廊下を歩いていくのだった。

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