第八話「三つ巴の野望」
皆さんこんにちは、橘 酒乱です。
最近、荒川 弘先生の漫画『黄泉のツガイ』を読んでいます。
掛け合い、ストーリー展開、ギャグのバランスがどれも絶妙で、本当に面白い。
現在10巻まで刊行されているので、ぜひ一気読みしてみてください。
翌朝。
宿舎の窓から差し込む光は、白く鋭く、室内を切り裂いていた。
目を開けた瞬間、肌にまとわりつく湿気と熱気が容赦なく全身を包み込む。
日本の夏とは比べものにならない重たい空気に、思わず呻きが漏れた。
「……暑いな」
額に汗がにじみ、寝間着の浴衣が肌に貼りつく。
起き上がると、背筋を伝って汗が流れ落ち、不快感がさらに募る。
「慣れるまでが試練ですね」 枕を抱えたまま、佐伯 清次が苦笑した。
「ほんま、なんやねん! 昨日のあの腹立つ態度といい、この暑さといい……ええ加減にせぇや!」 筒井 景虎が帯を締め直しながら、ぶつぶつと不満を漏らす。
「筒井殿、落ち着かれよ」
宗田 巌の横顔は朝陽を浴びて涼しげで、その声には澄んだ響きがあった。
年長者の風格は、異国の地でも揺るがない。
「怒りは心を曇らせる。凪の心であれば、いかなる怒気も暑気も、鍛錬の一助となろう」
筒井は宗田をじっと見つめ、それ以上の言葉を呑み込んだ。
年上への礼儀と、その言葉の重みを理解したからだろう。
外からは人々のざわめきが聞こえてくる。市場へ急ぐ商人の足音、果物を積んだ荷車を押す声、僧侶の読経のような低い響き。異国の一日は、すでに始まっていた。
昨日、俺たちはこの地の華やかな文化に触れ、
同時にその裏に潜む複雑な情勢の一端を垣間見た。
この眩しくも混沌とした土地で、果たしてどう生き抜いていくのか。
そして――このシャムで、真の武士道を見出すことはできるのだろうか。
◇
そこへ、障子が静かに開いた。市川が姿を現す。
相変わらず涼しげな表情で、暑さなど意に介していない様子だった。
その立ち姿には、どこか異国の空気に馴染んだ軽やかさがある。
「皆様、おはようございますね。長政殿がお呼びですね」
その口調は柔らかく、しかしどこか掴みどころがない。
「長政殿が?」俺は思わず尋ねた。
「一体、何の用でしょう?」
佐伯が問いかけるも、市川は口元に笑みを浮かべ、言葉を濁した。
「それは、長政殿にお聞きください…ね」
「ちっ、その話し方、なんとかならんのかいな。人をイラつかせるのが趣味か」
筒井が舌打ち混じりに吐き捨てる。
「筒井殿!」 佐伯が普段より強い声で制した。
場の空気に苛立ちの色が残る。
異国で迎える初めての朝――誰もがまだ調子を掴めずにいた。
◇
俺たちは市川の案内で、山田 長政の屋敷の一室へと通された。
障子を開けた瞬間、空気が変わった。
十数名の日本人が円座を組み、激しい議論を交わしている。
商人、武士、職人――身分も立場も異なるが、誰もが険しい表情を浮かべていた。
ただならぬ事態が進行していることは、場の緊張から明らかだった。
「おぉ、来たか」 酒瓶を手にした長政が振り返る。
昨夜と同じ傲然たる態度ながら、その眼差しには切迫した光が宿っていた。
藤波 志津と松下 華子はすでに輪の中に加わり、
黙して事の成り行きを見守っている。
「皆よ、こちらが江戸から来た例の“朱刃組”だ」 長政が俺たちを指し示すと、
場の視線が一斉に突き刺さった。その眼差しは、歓迎とは程遠い。
「……また幕府の回し者か」 商人風の男が唾を吐くように言った。
「我らには十分な戦力がある。余所者など不要だ」
今度は一人の武士が、露骨に不快を示す。
長政は酒を煽り、鋭い声を放った。
「黙れや、愚か者ども。おめぇらのような井の中の蛙では、この大事を乗り切れんだら」
その一喝に、場のざわめきが途絶えた。
長政の威圧感は、まるで剣を抜いたときの殺気のように室内を支配していた。
◇
「状況を説明してやる」 長政が市川に地図を持ってこさせ、床に広げる。
厚手の紙には、アユタヤの城郭と周辺の水路が詳細に描かれていた。
「昨夜、王宮から急報が届いた――王が死んだ」
その一言に、場の空気が一気に張り詰める。
「……死んだ?」 藤波が尋ねる。
「毒殺だ」 長政の声音は揺るがない。
「犯人はまだ知れねぇ。だが確かなのは、後継争いが始まるということだ」
長政の指が地図の上を滑る。
「王位を継ぐ資格を持つ王子が三人。第一王子にはポルトガル、第三王子にはオランダが付いちょる。そして俺ら日本人が付いているのは――」
「……第二王子、プラサート殿か」 藤波が低く口にした。
長政はうなずき、唇を吊り上げる。
「そうだ。あの方は聡明で、日本人を信頼してくださる。だが他の二人が王位に就けば、俺らは排斥されるだろう」
「つまり、この国の命運は三つ巴の争いに委ねられるわけですな」
宗田が冷静に分析する。
「その通りだ」長政の目が鋭く光る。
「だからこそ、俺らはプラサート王子を王にせねばならん。そのためなら、何でもやる」
「…何でもやる、やと?」 筒井が問うと、長政は一瞬黙し、やがてにやりと笑った。
「決まってるだろ。邪魔者を消す」
場が凍り付いた。
「第一王子と第三王子を暗殺する。今夜、決行する」
「ちょ、ちょっとお待ちを!」 佐伯が慌てて前に出る。
「それは……あまりに危険では」
「危険だと?」 長政が立ち上がる。背丈も気迫も他を圧倒し、佐伯を見下ろした。
「権力とは、危険を掴む者の手にしか転がり込まん。お前は子供の使いに来ただか?」
その迫力に、佐伯が言葉を失う。
「ですが……暗殺だなんて……」 松下が顔を青ざめさせる。
「私たち“朱刃組”が勝手に王子暗殺に手を貸すようなことをしたら、この国で立つ瀬が――」
長政は手に持った扇子を軽く指で弾き、体を少し前に傾けた。
「……これはな、プラサート王子ご自身の密命だ。実の兄弟を押しのけて、己が王位に就くためよ。そのために、俺ら――てめぇらもまとめて、手駒に選ばれたんだわ」
そう言って長政は懐から巻物を取り出す。シャムの強い日差しが和紙に似た紙質を照らした。
「これが証拠。プラサート殿直筆の書状だら」
「……本物なのですか」俺が疑いを口にした瞬間、空気がざわめいた。
だが長政は怒るどころか、面白そうに口の端を上げた。
「ほう、疑うか。気骨のある男だ」
「答えていただけますか」
「無論だ」 長政は書状を広げる。
そこにはシャム文字で、確かに王子の署名らしきものが刻まれていた。
藤波が覗き込み、小さくうなずく。
「……確かにプラサート王子の筆跡のようだ」
◇
一拍置いて、藤波は静かに口を開いた。
「長政殿、我らは護衛・顧問任務で参りました。暗殺は任務の範疇を超えています。“朱刃組”はあくまでも、武士の矜持の範囲で動かせてもらいます」
長政が鼻で笑った。
「藤波よ……おめえ、そんな甘っちょろいことを言ってるのか。ここじゃ護衛も暗殺も同じだ。敵を殺さなきゃ、守るべき者は守れねぇ」
一拍置いて、長政は酒瓶を傾け、喉を鳴らす。
「それにだ。徳川がこの地で日本人の足場を固めるにも、王子の即位に徳川武士を絡ませ、先手を打って恩を売っておけ――そう言うんじゃねぇのか、おめぇらの大将はよ」
その言葉は、ただの挑発ではなかった。
長政と藤波の背後には、政治と武力が絡み合う現実が横たわっている。
「えぇ。それでも……」 藤波の声は揺らがなかった。
「それでも、何だ?貴様まで腰抜けになったのか」
長政の言葉は刃のように藤波の頬へと切り込む。
藤波は表情を変えず、静かに言った。
「私は、部下たちの”士道”を第一に考えます。“朱刃組”の将は私でも徳川でもない。”士道”だ」
「てめぇ!!」
その瞬間、長政の目に強い怒りが宿り、足元を力強く踏み鳴らした。
「こんな青二才どもに士道を語るだと?冗談も大概にせぇ!貴様らみてぇな半端者に士道も誇りもあったもんじゃねぇ!」
その侮蔑に、胸の奥で熱が爆ぜ、血を巡って全身を支配する。
立ち上がらずにはいられなかった。
「長政殿!!……その発言、ただでは聞き流せぬ。撤回していただこう!」
「あァ!?なんだと?こん若造が!」
長政の瞳が、危険に光る。
「若輩の半端者風情が、夢でも見てんだか?あァ!?」
その声音に、周囲の空気が一気に張り詰める。
誰もが息を呑む中、長政の口元がゆるりと笑みを描くと、低く告げた。
「……いいだろう。力を見せてもらおうじゃねぇか。そこの庭で――立ち合え」
場が一瞬にしてざわめいた。誰もがその不穏な提案の意味を理解したのだ。
藤波が慌てて立ち上がり、俺の腕を掴む。
「浅葱!それだけは、やめろ」
しかし俺は首を振った。藤波の制止を受け流すわけではない。
だが、この男の本性を自分の目で確かめる必要があった。
「お受けします」──俺の声は静かに、しかし確固たる決意を伴って響いた。
◇
庭に出ると、すでに日本人町の住民たちが軒先に集まりはじめていた。
戸を半開きにして顔を覗かせる者、遠巻きに肩を寄せる者。
空気は熱気と緊張に満ち、誰もが息を潜めている。
「真之介の奴……大丈夫やろか」 筒井が心配そうに呟く。
「信じるしかありません…」 佐伯が拳を握りしめた。
長政は宝石を散りばめた上着を脱ぎ、ゆっくりと腰に手をやる。
その動きには、数多の斬り合いを潜り抜けてきた者だけが持つ、油断なき気配が漂っていた。
刃を抜いた。
刀身は庭の陽光を浴びて閃き、その光は一瞬、観衆の目を射る。
鍔元に刻まれた銘は「和泉守兼定」。
かつて戦国の武将たちがこぞって求めた名匠の一振りだ。
刃文にはところどころ、火花のように猛る文様が現れ、まるで炎がゆらめくように刀身を走っている。見物人の中から、思わず息を呑む声が洩れた。
長政はその名刀を軽やかに握り、音もなく構えを取る。
右足を半歩引き、刃先をわずかに下げる――隙があるようにも見える中段崩し。
だが、それはあくまで「形」にすぎない。 武に嗅覚のある者ならすぐにわかる。
斬り合いの理にかなった柔軟な体軸。
死地を幾度も越えてきた勘が、その構えそのものを「罠」へと変えているのだ。
集まった人々は声を失い、庭は静まり返った。長政が口の端を歪める。
「来い、小僧」
俺は“桐月兼光”を抜いた。
刃文は青白く揺れ、潮の満ち引きのように、静かに刀身の奥で命を打っていた。
長政の殺気が肌を刺す。だが、恐れはなかった。
俺は刀を頭上に掲げ、刃先をまっすぐ相手に向ける――上段の構え。
この一戦で、”朱刃組”の価値を示す必要がある。
それが、ここで生きるための第一歩だ。
「いざ……!」
俺の声と共に、異国の地での初めての真剣勝負が始まった。
第八話 了
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