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異国刀  作者: 橘 酒乱
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第十二話「老兵の祈り‣後編 / 誓いと鎖」

町の一角――。


酒と汗と獣脂(じゅうし)のような臭気が(よど)む。

傭兵崩れの荒くれ者が数人、酒瓶を片手にわめき散らしていた。


「はよ金出せ!!俺らがこん町の治安を守ってやっとるんやぞ!」


怒号と同時に、ひとりが店主の胸倉を掴み、壁に叩きつける。


陶器が砕け散り、飛び散った酒が床に広がり、つんとした匂いが満ちた。


「もうやめてください!」


店主の妻が声を張り上げた。だが、そのか細い叫びは荒声にかき消される。


乱暴に腕をねじ上げられ、床に押し倒される。


裾を掴む手に、周囲の男たちは下卑(げび)た笑いをあげた。


「ガハハッ!こいつぁ、良いじゃねぇか。おぉ?もっと泣け! 泣け!」


「へ、へへ…色っぺぇよ…犯してぇ、犯してぇ!」


「いやぁぁぁぁ!やぁぁぁぁぁ!あぁぁぁぁぁ!!」


阿弥陀如来(あみだにょらい)様、阿弥陀如来様……どうかお許しを…お許しくださいませ…」


妻の泣き叫ぶ声。夫は仏に(すが)るように震え、子のすすり泣きが重なる。


町人たちは蜘蛛の子のように退(しりぞ)き、ただ恐怖と諦めが漂っていた。


ギイィィ――。


そのとき、奥の扉が(きし)んだ。


「……またか」


片倉 主馬(かたくら しゅめ)は唇を結んだ。


鞘にかけた指先は武士のものだが、眼差しには長年積もった疲労が濃い。


「こういうことは、よくあるのか」


低く問う宗田 巌(そうだ いわお)に、主馬は肩をすくめる。


「ああ。居場所をなくした連中が、酒に任せて暴れる。止めるのが俺の役目だが……」


(つか)を握る手に力はない。構えは熟練のものだが、心が伴わない。


「正直、もう疲れた。止めても止めても、また繰り返される……」


宗田は黙して荒くれ者たちを見つめた。

(止めるべきか……)


今は会談前。無用な揉め事は避けたい。

任務の重さを考えれば、一件の争いに首を突っ込んでいる余裕はないかもしれない――それでも。


泣き叫ぶ女の声、小さな肩を震わせる子の姿。


(……見捨てて、何を守れるというのか)


宗田は大きく息を吸い、迷いを断ち切るように踏み出した。


「やめろ!!」


荒くれたちが振り返る。


「なんだぁ?老いぼれ…酒はねぇぞ?」


「年甲斐もなく(さか)っちまったか?」


宗田の眼は揺らがない。刀も抜かぬまま言った。


「これ以上の狼藉(ろうぜき)は許さん」


その言葉に、面白がるようにが刃が抜かれた。


「切り伏せるぞ。関係ねぇだろうが」


「ある」宗田は進む。


「ここで暮らす人々の心を踏みにじるなら、儂は許さぬ」


宗田は静かに続ける。


「…心はどこへ置いてきた」


「あ?なんだぁ?」


「……かつてお主らにも、守るものがあったはずだ。家族か、仲間か。心を燃やし、刀を握ったはずだろう」


「今のお主らは、ただ弱きを脅す獣だ。心を失った(しかばね)にすぎん」


「…黙れッ!」


その言葉に、荒くれの酒に赤く染まった目が揺れる。


次の瞬間にはもう抜かれていた。


ギィィン!


主馬の鋭い抜き打ちが刃を受け止め、火花が散った。


「!? ぬうっ……!」


荒くれは押し込もうと力を込めるが、主馬は揺るがない。


直線的な力と静かな決意をもって、相手の刀を弾く。


「主馬殿……」


久しく沈んでいた眼光には、生気が宿っている。


「俺も枯れたと思っていたが……まだ残っていたらしい。心が」


解き放たれた刃は、すでに血の未来を映していた。


「これ以上暴れるなら容赦はせん。――切る」


その気迫に、荒くれ者たちは一瞬、躊躇(ちゅうちょ)した。


だが酒に(あお)られた愚か者の勇気は、すぐに怒号へと変わる。


「やれるもんならやってみろや!」



最初の突進者が、右肩から大振りで間合いを詰める。


主馬は半歩、左に転じる。

刃を受け流し、柄を返すと同時に腰の(ひね)りを加え、相手の脇腹を払う。


血が熱く頬にかかった。


男は膝を折り、小便を漏らしながら地面へ沈む。

黒い血が床を伝い、じわりと広がった。


「う、う…!うおぁぁぁぁ!」


他の仲間たちが吠えて斬りかかる。


刃の軌跡が重なり、音が交錯(こうさく)する。荒くれの一振り、もう一人の突き──


主馬の動きは淀みなく、正確無比。

受け、流し、返す。金属音。


酒と怒りに任せた刃では、長年の技と冷静さの間に致命的な差を生む。


主馬は受け流しの間に一歩踏み込み、逆袈裟(けさ)に一人の胸を斬り裂く。

血飛沫が袖を染めた。


続けざまに、刃を返してもう一人へ直線に振り下ろす。


最後の男の肩口を深く捉えた。血が噴き上がる。


静寂。


虫の声も、遠くのざわめきも消えたようだった。


倒れ伏す音だけが、遅れて響く。人が人を斬るという現実が横たわる。


切っ先に映るのは、散った命と、赤くにじむ足跡。


店内は刃の痕跡(こんせき)だけを残して静まっている。


主馬は刃を拭い、低く呟く。


「……汚してすまない」



店主夫妻は膝をつき、深々と頭を下げた。


「ありがとうございます……!」


宗田は首を横に振る。


「いえ、当然のことをしたまで」


やがて町人たちが恐る恐る姿を現し、安堵と感謝の声を口々に述べる。


誰かが掛け声をかけ、割れた陶器や遺体を片付け始めた。


その光景を、主馬は黙って見つめる。やがて、ぽつりと呟いた。


「宗田殿……あんたのおかげだ」


宗田はかぶりを振る。


「いや、主馬殿が刀を抜いてくださったからだ」


「違う」


主馬はゆっくりと首を振った。


「あんたの言葉が、俺を動かした。忘れていたものを……呼び覚ましてくれた」


そう言って、(やしろ)の方へ向き直る。


手を合わせ、深く頭を垂れた。


「……亡き妻よ、子よ。俺はまだ……お前たちを胸に生きているぞ」


その背は震えていた。


涙を見せまいとする男の姿に、宗田はただ静かに立ち尽くす。


胸の奥で、自らの心もまた確かに息を吹き返していた。


まだ死んではならぬ。


残した家族がいる限り――

悲しみを増やすことなく、守り抜こうとする意志こそ、己の武士道なのだ。


宗田はひとつ、深く息を吐いた。


その目に、かすかに光が戻っていた。



-----------



――自由行動が始まってすぐ。


佐伯 清次(さえき せいじ)は人混みを()うように市場を抜け、港へと足を延ばしていた。


幾重(いくえ)にも積まれた木箱と紐の匂い、潮で鈍く光る板場の感触。


港の湿った空気が、彼の呼吸に混ざる。


表向きの理由は「情報収集」だ。


几帳面な佐伯には、夜の会談に備えて周辺の雰囲気を掴むという、もっともらしい言い訳がある。


だがその足取りは、いつもより速かった。


人目につかない倉庫街へ――約束の場所へと向かうのだ。


扉の奥は薄闇に包まれ、遠くからかすかに波の低い音が届く。


中に足を踏み入れると、すでに一人の男が待っていた。


三十代ほどの中国商人風の男。


長衣(ちょうい)の襟元は整えられ、顔立ちは粗野ながらも、そこに宿る目は鎌のように鋭い。


「佐伯,你來得太遲了」


男は中国語で軽く声を投げた――来るのが遅すぎる、という意味だ。


佐伯は一礼し、声を潜めて応じる。


「申し訳ありません、(ちん)殿。仲間に怪しまれぬよう振る舞っておりました」


陳は窓の外、停泊する外洋船の影を一瞥(いちべつ)してから、ゆっくりと佐伯に向き直る。


「……まぁいい。肝心なのは結果だ。例の者はどうだ」


「予想以上です。長政(ながまさ)殿とも刃を交えましたが、その剣筋は確かです。只者ではありません」


佐伯の言葉に迷いはない。


「ふむ、やはり血か……」


陳は顎に手をやり、含み笑いを漏らす。


「その血が我が国の手に入れば、日本への介入など容易く、影響力も計り知れぬ」


言葉には表れぬ野心が、倉庫の暗がりに際立つ。


佐伯は慎重に口を開く。


「ええ、仰る通りです。しかし問題もございます。藤波 志津(ふじなみ しづ)です。彼女は浅葱(あさぎ)以上に剣も機略も優れており、まさに“朱刃組(しゅじんぐみ)”の眼と心そのものです」


陳の顔に軽い苛立ちが走る。


「藤波 志津……徳川に縛られた女か」


その口調には、侮蔑(ぶべつ)と算段が混じっていた。


「あの女がいる限り、浅葱を動かすのは難しい……」


陳の目が冷え、語気が鋭くなる。


「今宵の会談で、藤波を始末せよ」


佐伯は一瞬言葉を失った。


「……始末、ですか」


声は震えない。

しかし内側では揺れている。


任務は理解している。

だがそれを口にするたび、鋭く胸を刺すものがある。


陳は間髪を入れず続ける。


「既に我らは山田長政(やまだ ながまさ)側と裏で話を済ませている。会談の混乱に乗じて仕留めれば、あらゆる障害は消える。浅葱を我が国へ引き入れることが叶うのだ」


佐伯の思考が素早く回る。

暗がりで交わされる利権と権力のチェス盤。


そこに仲間たちの笑顔や、訓練の日々がふと立ち現れる。


誰のために、何のために――。


「お前を救ったのは誰だ。お前に生きる意味を与えたのは何だ」


陳の低く、念を押すような声が響く。


佐伯の胸に、過去の記憶が波紋のように広がる。


明国(みんこく)に拾われ、取引で命を繋がれた日々。

恩と義務――その温度が今も奥底で彼を焼く。


「……明国です」


佐伯は短く答える。

それは誓いでもあり、鎖でもあった。


陳は頷き、言葉を濁す。


「ならば果たせ。失敗すれば――」


暗黙の脅しが空気に溶け、佐伯はその続きを想像した。

明国が課す代償は、容赦がない。


心の中で(はかり)が揺れ続ける。


義――忠誠。

義――仲間。


どちらを重んじるべきか。


顔を上げた佐伯の目は静かだが、決意が(にじ)んでいた。


「分かりました。任務を遂行します」


陳はにやりと笑い、薄暗い扉の外へと消えた。

長衣の裾が闇に溶ける。


(僕は、何のために生きているのか――)



倉庫を出ると、冷えた海風が顔を撫でた。


港に停泊するポルトガル船、オランダ船が互いに睨み合い、重苦しい空気を張っている。


木造の甲板(かんぱん)からは、遠い異国の匂いが潮風に混ざって届く。


(この世界は、裏切りと算段に満ちている)


自嘲(じちょう)を込めて、佐伯は自らの足跡を見つめた。


几帳面に、計算し尽くされた人生。


だが今、胸を締め上げるのは冷えた理屈ではなく――仲間たちの顔。


(やるしかない――)


唇を固く結ぶ。

瞳には、陽光の反射が一筋きらりと走った。


港は無言で、それを見届けていた。




第十二話 了

第十二話「老兵の祈り‣後編 / 誓いと鎖」をお読みいただき、ありがとうございました。


感想やリアクションをいただけると、執筆の大きな励みになります。


今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

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