第十話「炒飯騒動」
夕方までの束の間の自由。
プラサート王子との会談は、夜になってからだと知らされたばかりだ。
「それぞれ好きに過ごせ。ただし、粗相は起こすなよ」
藤波 志津が低い声で言い渡すと、仲間たちは思い思いの方向へと散っていった。
その後ろ姿を見送り、俺は屋敷の縁側に腰を下ろした。
”桐月兼光”を膝に横たえ、静かに油を引き、布で磨き上げる。
山田 長政との剣戟の余韻は、まだ掌に残っている。
入念に研ぎ澄ますと、刀身には昼下がりの光が射し込み、まるで己の心を映すかのように揺らめいた。
「……何のために刀を振るうのか」
あの問いが、未だ胸の奥に残響している。
長政に投げかけた言葉は、結局、自分自身への問いでもあった。
「浅葱さん」
柔らかな声に顔を上げると、松下 華子が立っていた。
両手には、小さな包みと水を汲んだ器。
「あの……お疲れさまでした。本当に心配しました。…腕の傷、痛みませんか?」
俺は思わず視線を落とす。左腕に残る切り傷。立ち合いの最中に受けたものだ。
「これは?」
「シャムの薬草です。市場で手に入りました。傷に効くと教えられて」
そう言って彼女は俺の隣に腰を下ろし、包みを開いた。緑の葉と白い粉薬が顔を覗かせる。
「わざわざ……助かるよ」
「いえ…私にできることなんて、これくらいですから」
松下は薬草を器に入れ、丁寧にすり潰しはじめる。
その手つきは驚くほど落ち着いていて、薬師の娘にでも見えた。
「詳しいのか?」
「父に教わりました。商人は旅が多いでしょう?怪我や病に自分で対処できなければならないんです」
一瞬、松下の指が止まった。
「……父は、元気でいるでしょうか」
不安を隠しきれぬ声音。
「きっと大丈夫だ」
俺はまっすぐに言った。
「長年の旅を生き抜いてきた商人なら、誰よりも強い術を知っている。むしろ今ごろは、松下殿のことを案じているはずだ」
「……そうですね。そう信じます」
再び手が動き、緑の薬草はやがてペースト状になった。松下はそれを指先に取り、俺の腕へ塗っていく。冷ややかな感触が沁みて、じきに痛みが引いていった。
「どうですか?」
「うん…効くな。ありがとう」
彼女は小さく頷き、控えめに笑った。
「ところで……浅葱さんは、なぜ”武傭兵”になろうと?」
「なぜ、そんなことを?」
「今日の立ち合いを見て、思ったんです。浅葱さんの刀には、ただの技ではない……“心”のようなものがある、と」
「心……か」
俺は空を見上げる。
「実は、俺にも分からないんだ…。何のために刀を振るうのか。長政殿に問いかけておきながら、自分でも答えられない」
刀を膝に置き、言葉を探す。
「ただ……気づけばまた刀を握っていた。そして、仲間と共にここにいた。理由なんて、すべて後付けのものになるのかもしれない」
「……うん、それでいいのだと思います」
松下の声音は柔らかい。
「私も同じです。父の紹介で今回の役目に加わりました。深い理由があったわけじゃなくて、ただ流れに身を任せただけ。 でも今は、“来てよかった”って思えるんです。
理由なんて、あとからついてくるものだと思っていて。つい身体が動いてしまう時こそ、心の本音が出るんじゃないかな……なんて」
彼女は俯いてから、ふと顔を上げて微笑んだ。
「真之介さんも、きっと刀を握る本当の理由を見つけられますよ」
その笑顔に、胸がじんわりと熱を帯びた。
「……ありがとう、松下殿」
「いえ…。私の方こそ、感謝しています。一人だったら、こんな遠くまで来る勇気はなかったから」
◇
同じ頃、筒井 景虎は一人でアユタヤの街を歩いていた。
市場の喧騒を抜け、住宅街の路地に入ると、小さな屋台が目に留まる。
「おぉ、なんかええ匂いがするやないか」
米と野菜、肉が絶妙に混ざり合い、湯気と共に食欲をそそる香ばしい匂いに誘われて、筒井は屋台に近づいた。
中年のシャム人男性が、大きな中華鍋を振り、炎の上で米と具材を豪快に炒めていた。
長年鍛えた腕の手つきが、見ているだけで料理の旨さを物語っていた。
「サワディー…クラップ」
筒井が照れくさそうに声をかけると、男はぱっと笑顔になった。
「サワディー・クラップ!…日本人、か?」
片言の日本語だった。
「せや!腹減ったんや。何かうまいもん、あるか?」
「はい、はい!カーオパット、とても美味しいです!」
店主が指差したのは、鍋で炒められている料理だった。
隣にいた娘らしい少女も、見よう見まねで「美味しい、です!」と声を弾ませる。
「それ、もらうわ!」
腰を下ろすと、手際よく盛られた飯が目の前に置かれた。
筒井は箸をとり、ひと口。
「うまああああい!」思わず声を張り上げた。
米は一粒一粒ふっくらと輝き、油と香辛料が均等に絡み合っている。
鶏肉はじっくり炒められ、噛むと柔らかくジューシーで、旨味が口いっぱいに広がる。
野菜はシャキッと歯応えを残しつつ、唐辛子のピリリとした刺激が甘みと絶妙に調和していた。
ナンプラーの塩気、ライムのほのかな酸味が複雑に折り重なり、舌の上で踊る。
「これが…カーオパットか」
筒井は箸を止められず、次の一口を口に運ぶ。
香りの層が口内で溶け合い、甘みと辛み、塩気と酸味のコントラストが交互に押し寄せる。
シンプルな材料なのに、一口ごとに新しい発見がある――
それは、鍋を振る手に込められた職人の“心”が料理に宿っているからだ。
「おっちゃん!これ!どうやって作るんや!?」
身を乗り出す筒井に、店主は笑いながら答える。
「企業秘密、です。でも——心を込めて作る、それ一番大切です」
「大切です!」と娘も胸を張った。
「心を込めて…ええ言葉やな」
筒井の脳裏に、かつて故郷で兄弟に振る舞った飯の光景が浮かぶ。笑い声、褒めそやす言葉。
藩主に仕えていた頃も、たまに作っては「うまい、うまい」と笑顔が返ってきた。
そんな過去の断片が、不意に胸を熱くした。
「……へっ、こんな異国で思い出すとはな」
筒井が鼻をすすった途端、娘が茶化す。
「お兄ちゃん泣いてる~!」
「泣いてへん!」
◇
そのやりとりを裂くように、怒鳴り声が響いた。
「ヘー・ソムチャイ! トゥリアム・ングン・ワイ・ルー・ヤン?」
三人組の男が屋台へ迫ってくる。明らかに荒くれ者だ。
店主ソムチャイの顔から血の気が引いた。
「すみません!お客さん。今日は店じまい!」
「おっちゃん、客がおるのに何を言ってんねん」
一人がソムチャイの胸ぐらをつかみ、怒鳴り散らす。
「ワン・ナン・クー・ワン・ナット! ジャーイ・ングン・マー!(約束の日だろ、金を出せ!)」
「コー・ロー・サク・ニット……(あと少し、待ってください。来週には必ず…)」
「レン・ルー!(ふざけるな!)」
男が突き飛ばし、ソムチャイは地面に転がった。
材料の袋が破れ、米や香草がばらまかれる。娘が悲鳴を上げて駆け寄る。
「おい。何しとんねん」
立ち上がった筒井の声は低く、屋台の空気を一変させた。
「ペン クライ ワー?(何者だ?)」
男の一人が筒井を睨む。
「ポム・ペン・クェック・ナー(ただの客や)……くっそ、言葉が出ぇへんわ。とにかくこのおっちゃんは見逃せへんのや」
「日本人か」
リーダー格の男が鼻で笑う。
「余計な口出しはするな」
「余計やと? せやな、余計かもしれへん」筒井の目が鋭く光る。
「けどな、おっちゃんにも事情あるんやろ。もうちょい待ったれや」
男はナイフを抜き、陽の光を反射させる。
「黙れ、日本人。こいつは千バーツ借りてんだ」
「千バーツ……相場は知らんけど、おっちゃんの顔見りゃ、そら重いんやろな」
筒井は腕を組み、にやりと笑う。
「分かった。わいが代わりに払ったる」
「なに?」
「その代わり、二度とここに顔出すな」
ソムチャイが制止する。
「だめ!お客さん、迷惑をかけるわけには…」
「ええから、ええから」
懐に手を突っ込んだ筒井の顔がすぐに引きつる。
指先に触れるのは、わずかな銀貨だけだった。
「……すまんなおっちゃん。賭けに全部突っ込んでもうてたわ」
筒井が頭をかくと、借金取りの刃先が迫る。
「口だけの日本人。死ぬか逃げるか、いま決めろ」
「ちっ……騒ぎ起こすなって言われとったんやけどな」
◇
筒井が肩を回したその時、遠くから太鼓の音が響いた。
「ん? なんや、あの音は」
人だかりの立つ広場で、華やかな旗が揺れている。
「料理対決ですね」ソムチャイが声を震わせながら説明する。
「月に一度の大会。優勝すれば千五百バーツの賞金が出ます」
「千五百バーツ!」筒井の目が輝く。
「そんだけあれば借金返して釣りもくるやないか!」
「でも、出場するには料理を…」
「任せとき!」筒井はにやりと笑った。
「わいな、料理はちょっとした自慢やねん」
「えっ?」
「おっちゃんのカーオパット、しっかり観察しとったで。
具材と香辛料の入れ方、火加減、鍋の振り方……ぜんぶ頭に叩き込んだわ」
そう言ってソムチャイの肩を軽く叩く。
「せやから――心を込めて作るコツ、教えてくれや」
娘の目に涙が光り、ソムチャイが深くうなずいた。
「分かりました。一緒に頑張りましょう」
◇
料理対決の会場に着くと、既に多くの参加者が手際よく準備を進めていた。
中には明らかにプロの料理人も混じっており、筒井は少しだけ不安になる。
「こりゃ、大丈夫かいな……」
「大丈夫です」ソムチャイが静かに言った。
「さっき私たちを守ってくれた、その気持ちを料理に込めてください」
「さっきの気持ち、か……」
筒井は頷いた。
遠巻きに見ていた借金取りたちが顔を見合わせ、ニヤリと笑う。
「面白え。日本の料理人ごっこ、見せてもらおうか」
第十話 了
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