【5】すべての始まり
「おおい、フェリク。そろそろ起きろよ」
階下から聞こえた声でフェリクは目を覚ます。それは父の声だった。窓の外を見上げると、日はすっかり昇っている。フェリクがディナの目覚ましで起きないはずはない。ディナはフェリクを起こしに来なかったのだ。
手早く身支度を整えて工房に行くと、おう、と父ジェドが振り向く。
「今日はディナが来なかったな」
「やっぱりそうなんだ。何かあったのかな」
「さあな。牧場に行ってみろよ」
「うん」
家を出たフェリクを、待っていた、と言わんばかりにルークスが鼻を鳴らして迎えた。いつもなら、フェリクが下りて来るまでのあいだにディナが朝の手入れをしてくれている。気難しいルークスがディナの手入れを受け入れるのは、ディナの愛情深い心を感じ取っているからだろう。
ルークスの手綱を引いて牧場に向かうと、何やら騒がしい声が聞こえて来た。
「ちゃんと見ててって言ったでしょう!」
それはディナの怒鳴り声だった。普段は穏やかなディナがここまで声を上げるのは珍しいことだった。
「どうしたの?」
フェリクが声をかけると、険しい表情でディナが振り向く。その向こうに、しゅんと肩を落とすウォルズとルーイの姿が見えた。
「ふたりが山羊追いをするって言うから任せたら、山羊が逃げちゃったのよ! だからふたりの乗馬じゃ駄目だって言ったのに!」
「だ、だってよお……」
「もういいわ! 探して来て!」
いつもの高慢な態度とは対照的に、ウォルズは小さくなって頷いた。ルーイを連れて山羊の捜索に向かうが、ディナの見えないところでルーイを殴っている。
「僕も探して来るよ」フェリクは言った。「村の外を見て来る」
「お願いできる? ごめんね、来たばかりなのに」
「大丈夫」
山羊は、決して裕福とは言えない村にとって貴重な財産だった。牧童たちによって慣らされているため逃げ出すことは滅多にないが、その滅多が訪れたときは村中で大捜索となる。フェリクも、こうしてルークスで村の外まで探しに来ることはまれにあった。
日が昇ったばかりの平原。山羊の足では、そう遠くへは行っていないはずだ。
フェリクはルークスを走らせたまま、広く遠くまで見渡した。アロイ村の山羊は体が大きくない。遠くまで行ってしまえば、その姿は見えなくなることだろう。
村の周りをぐるりと走ったとき、ルークスが何かに気付いた様子で方向を変えた。そこはフェリクの気に入りの丘。その上で、平原の草を食む山羊の姿が見えた。フェリクは安堵に胸を撫で下ろし、ルークスを降りる。乗ったままで近付けば、山羊は逃げてしまう。
山羊は、歩み寄ったフェリクに警戒する様子もなく一瞥を与えるだけだった。フェリクはのんびりと草を食み続ける山羊の尻を叩く。そうすることで、小屋に戻れという合図だとロウルズが山羊が子どもの頃から教え込んでいるのだ。
村に戻ろうとしたとき、フェリクは背筋に触れる冷たい風に足を止めた。何か嫌な気配を感じ振り向くと、最も高い木の枝に人影が見える。金と赤の派手なローブに身を包んだ人物が、薄く微笑んでフェリクを見下ろしていた。
「やあ……良い馬を連れているね……」
ゆったりとした中性的な声がフェリクに向けられる。長く黒い髪を無造作に流し、それは右目を覆っている。髪の隙間に見える左目は、夜の闇より深い黒。血色の悪いように見える肌に、怪しげな笑みを浮かべていた。
「僕は人を探しているんだけれど……もしかして、キミがそうなのかなあ?」
「…………」
フェリクが警戒して腰の剣に手を伸ばすと、その人物はおかしそうにくつくつと喉の奥で笑う。
「そんなに警戒しなくてもいいよ……。僕は、いまのキミには興味ないんだ……」
その口調は静かで穏やかだが、フェリクは何か嫌なものを感じた。油断してはならないと感じさせる雰囲気と気配が、フェリクの手を剣の柄に伸ばさせる。
「きっと運命が動き出せば、キミとはまた会うだろうね……。僕はその日を心待ちにしているから、キミも楽しみにしているといいよ……」
そう言ってローブを翻すと、まるで風に掻き消されるようにその姿は消えた。辺りを覆っていた冷たい空気もなくなり、フェリクは小さく息をつく。鼻を摺り寄せて来たルークスの頬を叩いて撫で、また草を食んでいた山羊の尻を叩く。早く村の暖かな空気に触れたかった。
* * *
「ありがとう、フェリク。山羊も無事でよかったわ」
逃げ出した山羊は全頭、集められたらしい。安堵した様子のディナは、連れて行って、とウォルズとルーイに厳しい声で言った。すっかりディナに逆らえなくなったふたりは、フェリクに一瞥を与えてから山羊たちを小屋へと連れて行く。その姿を見送ると、ディナは少し険しい表情でフェリクを振り向いた。
「最近、山羊の様子がおかしいと思わない?」
「山羊の様子が?」
「そう……なんだか、みんな落ち着かないわ。人の言うことを聞かないことはよくあるけど、今回は特に酷い気がするの。何か……よくないことが起こらないといいんだけれど」
ディナがいつもの笑みを消して沈んだ声で言うと、フェリクの脳内に、先ほど平原で出会ったローブの人物が思い起こされる。
――きっと運命が動き出せば、キミとはまた会うだろうね……。
フェリクは自分の頭の中に浮かんだ考えを振り払い、ディナを安心させるために笑みを浮かべた。
「考えすぎだよ。山羊だって季節の影響を受ける。特別なことじゃないよ」
「そうかな……」
「きっとすぐに落ち着くよ。考えすぎるのはよくない」
「……そうね」
ディナはひとつ息をつき、あーあ、と伸びをする。
「最近、フェリクが組手に付き合ってくれないから、体が鈍って沈んだ考えしかできなくなるんだわ」
「なに言ってるんだよ。ウォルズに相手してもらってるんでしょ?」
「ウォルズよりフェリクのほうが強いって、このあいだ証明されたじゃない。私は強い人と戦いたいの」
「そんなことばっか言ってると、結婚できなくなるよ」
「言ったわね!」
怒って拳を振り上げたディナにフェリクが笑っていると、不意に強く肩を掴まれた。上げた視線の先にいたのは、青筋を立てるウォルズだった。
「俺よりお前のほうが強いなんて認めねえぜ」
「なに言ってるのよ」ディナは目を細める。「ウォルズはこのあいだ、フェリクとの模擬試合に負けたじゃない」
「たまたまだ! フェリク、明日は休みだろ。俺と勝負しろ!」
「うん、いいよ」
「ぐぬぬ……余裕ぶっこきやがって……! 今度こそコテンパンにして、ぎゃふんと言わせてやるからな!」
「ぎゃふん」
「いま言うな!」
「おおい、そろそろ仕事を始めるぞ」
山羊小屋の中から呼んだロウルズに返事をして、フェリクとディナは牧場に戻る。ウォルズはしばらく悔しそうな表情をしていた。
* * *
その日、フェリクはまた暗闇の夢を見た。
暗闇の中をひたすらに走る自分を、刃を手にした闇が追いかけて来る。いくら走っても逃げ切ることができず、永遠とも思える暗闇をただ逃げ回った。
息が詰まりそうな重苦しさは、激しく鳴り響く警鐘によって遮られた。窓の外を覗くと、森から火の手が上がっている。逃げ惑う人々の背後に目をやると、村に魔物が攻め込んで来ていた。
フェリクは手早く着替え、愛用の剣と弓を手に階段を駆け下りた。家の中に父の姿はない。村の者たちを助けに行ったのだ。
村中に、子どもの泣き叫ぶ声や人々の悲鳴、そして魔物の鋭い咆哮が響く。それは、まるで地獄のようだった。
そのとき、狼に乗るゴブリンの中で最も体の大きな個体が、フェリクを指差して仲間に対して何かを言った。すると、それまで村人たちを追っていたゴブリンが方向転換し、フェリクに向かって来た。
フェリクは最初に突っ込んで来たゴブリンを躱し、次のゴブリンを剣で撃退。さらに弓矢で次々と魔物を討ち取っていく。
「へえ……やるねえ、キミ……」
不意にゆったりした声が背後から聞こえ、フェリクは踵を返した。フェリクの背後にいたのは、怪しい笑みを浮かべるあの金と赤のローブの人物だった。
「やっぱり動き出したねえ、運命……これって、運命だよねえ……」
「……お前は何者だ……!」
「ああ、僕? そう言えば名乗ってなかったっけ……ごめん、ごめん……」
そう言ってローブの人物がくるりと身を翻すと、一瞬にしてその姿は消える。息を呑んだとき、悍ましい殺気が背筋を凍らせた。フェリクが反応できずにいると、耳元で声が聞こえる。
「僕のことは、グレアムと呼んでくれればいいよ……みんな、そう呼ぶしねえ……」
フェリクは無我夢中で剣を振り上げた。グレアムと名乗った人物は、それを宙に浮いて軽々と躱す。それがただの人間ではないことの証明のようだった。
「残念ながら、僕はいまのキミにも興味はないかな……まだ運命は動き出したばかり。面白くなるのはこれからさ……」
そのとき、子どもの悲鳴が響いた。燃えて倒れた木に足を取られ、背の低い子どもが地面に転んでいる。そこにゴブリンが襲い掛かるのだ。
フェリクは駆け出そうとした瞬間、心がけたたましく警鐘を鳴らすのを感じた。フェリクに向けて振り下ろされる、研ぎ澄まされた刃。あくまで楽しげに微笑むグレアムが、フェリクが子どもに気を取られた隙を狙ったのだ。フェリクが身を捻ろうとしたとき、彼の前に影が飛び出す。それと同時に、激しい金属音が耳の奥に響いた。
「父さん……!」
フェリクを背にかばったジェドは、いつも気にして整えている赤毛を振り乱し、腕に力を込めてグレアムを突き飛ばす。
「逃げろ、フェリク! いまのお前に敵う相手じゃねえ!」
「へえ……僕のこと、知ってるんだ。人間のくせに……」
怪しい笑みを浮かべるグレアムが、ちらりと背後を見遣った。
「でええい!」
大きな掛け声とともに、ウォルズの剣が振り下ろされた。グレアムが一瞬にして姿を消すと、ウォルズは勢いのまま地面に倒れ込む。グレアムは余裕の笑みを湛えたまま、ウォルズの背後に再び現れた。
「フェリク!」ウォルズが身を起こしながら言う。「よくわからねえが、こいつが魔物の親玉だな!」
「よせ、ウォルズ!」と、ジェド。「お前たちは逃げるんだ!」
「村を放って、逃げられるかよ!」
そう声を上げ、ウォルズは大きく剣を振り下ろす。乱暴なその一撃がグレアムに届くことはなく、グレアムはただ面白がるように微笑んでいた。ウォルズが体勢を整えていたとき、グレアムの背後にディナが飛び出す。狙いを済ませたその切っ先を、グレアムは刃を指で挟んで止めた。
「へえ……女の子の騎士なんだ……」
「これ以上、村で好き勝手はさせないわ!」
「いいねえ……気の強い女の子は大好きだよ……」
フェリクはグレアムの背中を目掛け、矢を放った。グレアムは一瞥を与え、ディナとともに姿を消す。宙に転移したグレアムの腕には、だらりと体の力が抜けたディナが抱えられていた。ディナは気を失っているようだった。
「てめえ……ディナに触るんじゃねえ!」
ウォルズが声を上げるが、グレアムはおかしそうに笑っている。
「放していいの? この子……落ちちゃうよ……」
ウォルズが悔しそうに歯を食いしばって黙り込むと、グレアムはまた怪しい笑みを浮かべてフェリクを振り向く。
「もっと強くなってよ……そしたら、相手してあげる。きっと僕たちは、また出会う運命だからね……」
くつくつと喉の奥で笑い、グレアムはローブを翻した。ディナを抱えたままのその姿は、風に乗って消え失せる。ウォルズがディナの名を呼び、その場に崩れ落ちた。
「フェリク、王宮に向かえ。フォルトゥナ姫に会うんだ」
ジェドに背中を押され、フェリクはわけもわからぬまま頷いた。
主人の危機を敏く感じ取っているのか、ルークスは落ち着かなく柵に繋がれた自分の手綱を外そうとしていた。まるで自分が何をすべきかわかっているようなルークスに、フェリクは胸の奥がざわつく。素早く手綱を外し、フェリクが跨った瞬間にルークスは駆け出した。
村で暴れ回る魔物たちを蹴散らし、フェリクは村を抜ける。そして、月の光が差し込まない暗闇の平原へと飛び出した。
* * *
王都は混乱に陥っていた。
火の放たれた家々。魔物が押し寄せ、人々は悲鳴を上げてひたすら逃げて行く。フェリクは人々に襲い掛かる魔物をルークスで蹴散らしながら、ただ王宮を目指した。
なんのためにフォルトゥナ姫に会うのかはフェリクにはわからない。だが、父は何かを知っている。フェリクはフォルトゥナ姫に会わなければならないのだ。
しかし、王宮には正面から入ることはできなかった。正面の門は、城内への魔物の侵入を防ぐために閉ざされている。フェリクは軽く舌を打ち、西通りへ向かった。迷い込んだ聖堂に裏口があったはずだ。
ルークスから飛び降り、転がり込むように聖堂の裏口を開く。王宮の中もやはり怒号が飛び交い、激しい戦闘の音が響き渡っていた。
魔物と対峙する騎士たちのあいだを擦り抜け、フェリクは廊下をひたすら駆けて行く。何かがフェリクに道を示しているように、足は勝手に動いた。角を曲がり、真っ直ぐ向かう。辿り着いたその場所に、目的の人物の姿が見えた。
「フォルトゥナ姫!」
エリオの背に庇われたフォルトゥナがフェリクを振り向き、目を丸くする。
「フェリク、来てはいけません! 逃げてください!」
「そうそう……いまは逃げなよ……」
聞こえた声に、ピリ、と肌が痺れる。エリオと対峙するのはグレアムだった。
「いまのキミじゃ、僕には敵わないんだから……」
「……ディナはどこだ」
威圧するように低い声で言うフェリクにも、グレアムは飄々と笑う。この状況を楽しんでいる表情だった。
「あの子……? そうだなあ……教えてあげてもいいけど……キミの態度次第、かな……」
そのとき、エリオがフォルトゥナの体をフェリクに預けるように押し、剣を構えて駆け出した。鋭く研ぎ澄まされた切っ先を振り下ろすと、グレアムはくるりと身を翻して軽々と躱す。エリオが体勢を整える前に、その首筋にグレアムは剣を突き付けた。
「キミ……フェリクって言ったっけ……。僕たちに協力しなよ……。そしたら、あの子を村に帰してあげるよ……」
「貴様の望みはなんだ。宝玉か」
身動きの取れないエリオの言葉に、グレアムは突然、声を立てて笑った。
「そんなものに興味はないよ……僕たちが欲しいのは……世界さ」
グレアムの黒い瞳が怪しく光るので、フェリクは息を呑んだ。見つめていると、その深い闇に吸い込まれそうになる。
「フェリク!」
フォルトゥナの悲痛な声にフェリクがハッと我に返ると、いつの間にかグレアムの姿が目の前にあった。咄嗟に退こうとするが、剣を握る左手を掴まれてしまう。グレアムはフェリクに顔を寄せ、怪しい笑みを浮かべた。
「ねえ、フェリク……キミがあのお方と手を組んだら……世界は恣だよ……」
「……あのお方……」
にやりと口端をつり上げたグレアムは、不意にフェリクから離れる。それから、フェリクの背後に視線を遣った。それを追った先に見えたものに、フェリクはぞくりと背筋が凍るのを感じる。
「……レフレクシオ卿……」
それは、かつてここで出会ったときと何も変わらないレフレクシオだった。
そのとき、フェリクは突如として左目に鈍い痛みが走って唸り声を上げた。左目が熱く疼く。なんとか左目を開くと、視界が緑色に染まっている。その先で、レフレクシオが不敵な笑みを浮かべていた。その右目に、燃えるような赤の星が輝く。
「まさか……」エリオが声を上げた。「まさか、貴様も世界樹に選ばれし者だと言うのか!」
フェリクが肩で呼吸を整えつつ剣を構えたとき、体を淡い光が包み込んだ。
「姫様! なりません!」
声を上げたエリオを振り向くと、フォルトゥナが手を組んでいる。彼女が魔法を使おうとしていることはフェリクにもすぐにわかった。フォルトゥナを中心に眩い光が溢れ、フェリクは一瞬にして意識を手放した。