【4】沫に成れず
息苦しさにハッと目を覚ます。目の前に広がるのは暗闇だった。
(……ここは、どこ……)
体を起き上がらせても何も見えない。不安感が呼吸を荒くする。
何か、と辺りに手を探らせる。かつん、と何かが指先に当たった。それと同時に仄かな明かりが灯る。カンテラが点いたのだ。
カンテラを軽く掲げると、ようやく室内が見渡せた。
(そうだ……ここはムルタだ)
ひとつ息をつき、フェリクはベッドから立ち上がる。窓の外を覗くと、月は厚い雲に覆われているようだった。
壁掛けの時計に目を遣る。またこんな時間に目が覚めてしまった。あれほど寝坊助だと言われていたというのに、と小さく自嘲する。
不意に、窓に映る自分と目が合った。透けて見える程度だった星屑は、いまははっきりと見て取ることができる。
こんなものを欲していたわけではない。捨てて来たはずのもの。だというのに、星はいつまでも輝いている。この王国の砂のひと粒にでもなれるなら、きっと引き摺って来た価値もあるのだろう。
カンテラを置いた手が別の物に当たる。護身用の短剣だった。ふと指先で触れ、また自嘲気味に笑った。
(馬鹿なことを……)
溜め息を落とし、適当に上着を羽織る。部屋を出ると、巡回の兵の姿はなかった。安堵しつつ階段を上がる。月の隠れた屋上には、今日も仄かな明かりが灯っていた。
「今日も来るかと思ったよ」
ゆったりと椅子に腰掛けていたミリアが振り向く。途端、心を覆っていた靄が晴れていくようだった。
「わざわざ起きていてくれたの?」
「あたしは夜が遅いんだ。というか、フェリクが早いんだよ」
テーブルを挟んだ向かいの椅子に腰を下ろすフェリクに、ミリアはまたティーコゼーの下から取り出したポットの中身を注いだカップを差し出す。
「見てごらんよ」
フェリクが温いホットミルクを啜ると、ミリアは町を指差す。まだちらほらと明かりが見えた。
「ムルタは夜更かしが多いんだ」
「そう……」
「ラエティティアは規則正しい人が多いんだろうね」
ミリアは明るく笑う。ラエティティアでの生活を思い出しながら、うーん、とフェリクは首を傾げた。ふたつの故郷のうち、どちらも自分が規則正しいとは言えないような気がした。
「僕は騎士の家系だから、規則正しい生活が第一だって言われていたよ」
「それで昼間はずっと稽古だろう? あたしだったらやってらんないよ」
ミリアが目を細めて肩をすくめるので、フェリクは小さく笑う。確かにミリアは規則に縛られるような性質ではない、と思ったが、口に出すのはやめておいた。なんとなく「だらしない」と言っているような気がした。
「ムルタは自由だ。自由しかない」
フェリクはちらほらと灯る明かりを見遣る。フェリクが身を置いていた環境と違い、ムルタの民は時間に縛られることはない。好きなときに寝て、好きなときに起きる。畑や牧場の仕事も、開始する時間は決まっていないのだろう。
「規則正しい騎士なんて居やしないよ」
「この城に仕えてる騎士も?」
「城に仕える騎士は交代制だからある程度の時間は決まってるけど、それでも遊び呆ける者はいるもんさ」
ラエティティアの王宮とは正反対だ、とフェリクは考える。ラエティティアの騎士は規則に従うことが課されている。それを破れば、厳しい処分が下されることだろう。それは、騎士見習いのフェリクとて同じことだ。
「……僕は、自由が欲しかった」
カップを持つ手に力が入る。フェリクがそれを口にすることは許されなかった。
「自由になろうと思えば、いくらでもできたはずなのに」
フェリクの意思で投げ出すこともできた。だが、それは許されない行為だった。それが許されてしまえば、守るべき人は守れなかった。それでも、そう願っていた。フェリクは、それを隠さざるを得なかった。それに慣れきってしまったのかもしれない。
「そんな簡単なことじゃないのかもしれないよ」
ミリアが穏やかに言うので、フェリクは顔を上げる。ミリアは頬杖をつき、優しく微笑んでいる。
「あたしは王族だから自由にやってるけど、町には自由のない民もいるはずさ」
「…………」
「でも、いまのあんたは自由だ。ムルタの自由を堪能しておくれ」
「……ありがとう」
欲しかったものは、どう足掻いても手に入らなかった。それも仕方がないことだと、ただ諦めていたのかもしれない。それも致し方ないことだと、自分に言い聞かせるしかなかった。
カップのミルクを飲み干し、フェリクは立ち上がった。
「部屋に戻るかい?」
「城内を少し散歩して来るよ」
「そう。外には出ないようにするんだよ。ムルタの夜は治安が良いとは言えないよ」
「わかった」
ミリアとおやすみの挨拶をして、フェリクは城内へ戻る。階段を降りたところで巡回の兵と鉢合わせになり、怯みつつも軽く会釈をした。兵は簡素な敬礼をして去って行く。ミリアは「王様が決めたんだから、何も問題はないはずさ」と言っていたが、ここにいていいものかという疑問はいまだに消えていなかった。
寝静まった城内は、明かりの落とされたランプが仄かに灯っているだけで、昼間の賑やかさはなりを潜めている。静けさは嫌いではない。だが、慣れない異国の城は落ち着かない。役割を失くした自分がここにいるのは、やはり不釣り合いにしか思えなかった。
足を止めて窓の外を見遣る。目が合った自分は、憂鬱そうな顔をしていた。
故郷には戻れない。この瞳に宿る星がそれを許さない。許しを乞うのは、許されることなのだろうか。
「小僧」
静けさの中で不意に聞こえた声に、フェリクは肩を跳ねさせた。足音も立てずに近付いて来るのはレフレクシオだった。仄暗い中に見えるその姿は王の威厳を湛えており、畏怖の念すら懐いてしまう。
「こんな時間に何をしている」
「……目が覚めてしまったので、少し散歩をしていただけです」
フェリクは目を逸らしつつ言った。いまはまだ、王を真っ直ぐに見つめることができない。この星を正面から見据えられるのが怖かった。
「屋上には行かなかったのか」
「さっきまでいました。ミリアと少し話をしました」
小さく息をついたレフレクシオがフェリクとの距離を縮めるので、それに合わせてフェリクは退く。しかし、左頬に添えられた大きな手がそれを許さなかった。逸らすことのできなくなった視線を向けると、レフレクシオはその強面に薄い笑みを浮かべる。
「勇者だったとは思えん表情だな」
「……僕はもう、勇者ではありません」
無骨な指が左の目元を撫でる。露呈した星を正面から覗く目に耐えられず、その手を軽く押し退けた。拒絶の手が掴み上げられ、フェリクは息を呑む。その手をぐいと引かれ、フェリクはバランスを崩しつつ、歩き出したレフレクシオに続いた。レフレクシオは何も言わず、ただフェリクの手を引く。
レフレクシオがドアを開いたのは、フェリクの部屋だった。混乱するフェリクを、レフレクシオは少し乱暴にベッドに放る。そのまま覆いかぶさるように膝をつくと、ぎし、とベッドが鈍い音を立てて軋んだ。
左頬に触れる大きな手に肩を跳ねさせると、レフレクシオは口端をつり上げた。
「そんな怯えた顔をするな」
レフレクシオは体勢を戻し、ローブの裾を直すと、フェリクに背を向ける。
「これに懲りたら夜中にうろうろ歩き回らないことだ」
背中でそう言い、レフレクシオは部屋を出て行く。フェリクはしばらく呆然と扉を眺めていたが、心臓が痛いくらいに跳ねていた。
それはあのときの恐怖か、はたまた別の感情か。
ひとつ息をつき、立ち上がる。心臓を落ち着けるため、月の隠れた窓の外を覗いた。フェリクの心を表したかのような空。カンテラの光が反射して、ガラスに映る自分と目が合う。憂いを帯びた瞳に宿る星。
この左目がなければ、なんの力も持たないただの小僧。
忌々しいだけの星。空に消える沫にもなれず。
カンテラの明かりを消し、ベッドに潜り込む。目を閉じていよう。そうすれば、いずれ朝が来る。
いずれ、星は消える。




