【3】星屑の瞳[1]
「フェリク! 起きてるー?」
窓の外から聞こえた声で、フェリクは夢の世界から覚醒した。
またあの夢を見た。闇に包まれた夢。半月ほど前の十六歳の誕生日を過ぎた頃からよく見るようになった。ディナの目覚ましはフェリクに安心感を与えていた。
窓から顔を出すフェリクに、ディナは呆れたように目を細める。
「おはよう、寝坊助さん! 今日も手伝いをお願いできる?」
「ああ、いいよ……いま行く」
よろしくね、と軽く手を振ってディナは去って行く。その後ろ姿を眺めつつ、フェリクは大きく伸びをした。陽はすっかり昇っている。ディナの言う通り、フェリクは寝坊助なのだろう。
適当に着替えをして一階に降りる。父ジェドはすでに工房で鉄を打っていた。父は若い頃からフェリクの祖父に刀鍛冶を教わり、いまでは村民の持つ武具はほとんど父が打ったものだ。
「おはよう、父さん」
「おう。ああ、フェリク」
家を出ようとしたフェリクをジェドが止めるので、フェリクは首を傾げつつ振り向いた。
「明日、王都に配達に行くから手伝ってくれ」
「え、僕が?」
「嫌か」
「そういうわけではないけど……」
「じゃあ、よろしく」
短くそう言ってジェドはまた刀鍛冶に取り掛かる。詳しく説明するつもりがない様子なのは、他に説明してくれる者がいるということだろう。フェリクはなんとなく予想がついていた。
配達の手伝いなどいままでにしたことはない。フェリクはまだ王都に赴いたことはなかった。特に訪れたいと思っているわけでもない。フェリクは王都に興味がないのだ。
家の前では、ディナがすでにルークスの手綱を握っていた。
「もっと規則正しい生活ができないの?」
「ディナのおかげで規則正しいよ」
「もう!」
「今日もお前さんたちは仲が良いのお……」
不意に聞こえてきた穏やかな声に、フェリクとディナは揃って振り向く。杖をついた長老がゆったりと歩み寄って来るところだった。曲がった腰をとんとんと叩き、白いひげの奥で笑う。同じく白くて長い眉毛は長老の目元を完全に覆っていた。村の子どもたちには、自分の目を見たら死ぬ、という長老の冗談を真に受けている者もいる。その真偽のほどは、誰にもわからなかった。
「おはよう、長老」と、ディナ。「お散歩?」
「家の中にばかりいては、体も鈍るからのお……」
「怪我しないようにね」
ディナに微笑みながら、長老はルークスの頬を撫でる。気難しいルークスも長老の穏やかな心を感じ取っているようで、この村に来た当初から長老によく懐いていた。
ひと頻りルークスを撫でて満足した様子の長老は、フェリクを振り向いて優しく微笑んだ。
「お前さんを見ていると、かの勇者の伝承を思い出すのお……」
「それ、僕に会うたびに言ってるよ」
苦笑いを浮かべるフェリクに、長老はひげの奥でふがふがと笑う。それから、優しくフェリクの左の目元に触れた。
「星屑の瞳……。かつて神の遣いとして、人々を救いに導いた勇者アナスタシア……」
「アナスタシアって、具体的にはどんな勇者なの?」
ディナの問いに、そういえば、とフェリクは考える。長老はフェリクの左目を見るたびにそう呟くが、詳しく聞いたことはなかった。
長老はフェリクの家のそばのベンチに腰を下ろし、ふむ、と呟く。
「勇者アナスタシアはどこからともなく現れ、紛争と貧困、病に冒される民を救った……。アナスタシアは、女神や英雄として隣のミセル大陸で言い伝えられておる。アナスタシアは、左目に星を宿しておった……」
フェリクは自分の左目に触れる。フェリクの青い瞳には、左目だけ星のような色が透けているのだ。長老はこの目を「星屑の瞳」と言う。
「星屑を受け継いだのが、現在のレーヴェ騎士団の始祖となった勇者ウル・レーヴェ……。だが、ウル・レーヴェの伝承はほとんど伝えられておらん」
フェリクもディナも、勇者のことは長老から聞いただけで、修道院での勉強で歴史について教わったことはない。それも、勇者は隣のミセル大陸で言い伝えられているもの。フェリクにとって現実味のある話ではなかった。
「これはただの生まれつきだよ。勇者となんて関係ない。僕はただの牧童だし」
「ふむ……そうじゃな。さて、お前さんたちは牧場へ行くのじゃろう」
ゆっくりと立ち上がり、腰をとんとんと軽く叩くと、長老はまた杖をついてふたりのもとを去る。村の子どもたちはよく「長老は二百歳」と言う。あながち冗談ではないのではないかとフェリクは思っていた。
フェリクとディナが牧場を訪れると、すでにウォルズとルーイが手伝いを始めていた。
「あのふたり、急に真面目になったみたい」ディナが言う。「いまでは呼ばなくても自分たちから来るのよ」
「ふうん……」
フェリクはディナとともに、小屋の中にいた山羊を牧場へと放った。山羊はそれぞれ思い思いの場所に駆けて行き、草を食み、ゆったりと歩いて回る。
ルークスの手綱を引いて牧場に入ったフェリクに、おはよう、と声がかけられた。牧場主のロウルズだ。
「配達の話は聞いたか?」
「一応……詳しいことは聞いてないんですけど」
「はは、やっぱりな」ロウルズは朗らかに笑う。「ジェドが打った剣を王都に配達してるのは知ってるだろ?」
「はい」
「今度、山羊ミルクも合わせて王都で出店を出すことになったんだ。フェリクには、王都までの護衛と出店の手伝いをしてほしいんだ。やってくれるか?」
「はい、もちろん」
これまでの配達で手伝いを頼まれなかったのは、その頃にはまだ魔物がいなかったためだろうか、とフェリクは考えた。剣道場で稽古を受けているフェリクと違い、ジェドはただの刀鍛冶で、ロウルズは牧場主。魔物と戦う力はほとんど持っていないだろう。
「あ~あ、いいなあ、フェリク」ディナが言った。「王都に行けるなんて~」
「遊びに行くんじゃないぞ」と、ロウルズ。「仕事なんだからな」
「わかってるわ。ねえ、フェリク。帰って来たら街の話を聞かせてね」
「うん、いいよ」
「美人と駆け落ちでもしちまえよ~」
山羊ミルクのための樽を運びながらウォルズが言うと、ディナは眉をつり上げた。
「フェリクはそんなことしないわよ!」
「わっかんないぞお~?」
「もう!」
* * *
それからいつものように牧場の手伝いをし、二時間ほどの剣の稽古を受けたあと、フェリクはルークスに跨って村の外の丘へ出た。このあとはまた子どもたちの相手をしてやらなければならない。束の間の休息だった。
沈みかける夕陽を背負うラエティティアの王宮を眺める。自分とは縁遠い場所だと思っていた。生涯を村で過ごすつもりであるフェリクは、王都に赴くことは一度すらないのだと。ディナが王都に憧れを懐く気持ちはよくわからないし、王都に行ってみたいとすら思ったことがなかった。
(……王都、か……)
ふ、と息をついたそのとき、不意に眼下が騒がしくなった。魔物の声がする。辺りに視線を巡らせると、平原の真ん中に狼に跨るゴブリンに追われる馬車を見つけた。
「大変だ……!」
フェリクはルークスの腹を蹴り、丘を駆け下りる。幸い、腰には愛用の剣と使い慣れた弓があった。
馬車の幌にはラエティティアの紋章がある。王都を目指していたのだろうが、魔物を伴っては街に入ることができない。馬車は魔物を撒くために速度を上げて駆けている。馬車の中から矢を放つのが見えたが、棍棒を手にしたゴブリンがそれに怯む様子はない。迂回を続ける馬車からでは、矢の狙いも定まらない。
追いすがるゴブリンが弓を構える。その矢には火が灯されていた。その矢が放たれるより一瞬だけ早く、フェリクの矢がゴブリンの首を貫く。ゴブリンが地に落ちたことでバランスを崩した狼が、体勢を崩して他の狼に衝突した。それによりゴブリンがまた一体、平原へと身を投げ出す。襲撃に気付いた数体のゴブリンが、狙いをフェリクに移した。フェリクはさらに矢を放ち、棍棒を振り上げるゴブリンの喉を貫く。馬車を横目で見遣ると、ふたりの騎士が平原へ飛び出す姿が見えた。ゴブリンの数が減り、戦闘態勢を取れるようになったのだ。
しかし、視線を向けていたその一瞬、フェリクに別の脅威が迫っていた。空に身を隠していたガーゴイルが、フェリク目掛けて降りて来たのだ。旋回が間に合わず、フェリクはその攻撃を真面に食らう。その衝撃でルークスの背から放り出され、体を地面にしたたか打ち付けた。ぐらりと頭が揺れ、立ち上がれそうにない。
(助けに入って、やられるなんて……)
眩暈で視界が歪む。騎士が次々とゴブリンの首を落とすのを眺めながら、フェリクは意識を手放した。
……――
――フェリク、その瞳を開いて。
あなたの――は、私が引き受けます。
どうか、目を開いて。私たちの希望よ。
……――
誰かの声に呼ばれた気がして、フェリクは目を覚ました。
見上げるのは、質素なシャンデリアが誂えられた白い天井。カーテンから射し込む明るい陽の光とともに、何やら耳慣れない喧騒が聞こえてくる。
体を起こしてみると、そこはやはり自室ではなかった。
フェリクの自室の倍はあるのではないかと思われるほど広い部屋。横になっていたベッドは柔らかく、手触りが良い。本棚と机が置かれただけの質素な部屋だが、フェリクの村とはまったく別の場所であることがよくわかる。
室内を見回しながらベッドを降りると、不意にドアが開かれた。顔を覗かせた青年は、厳しい視線をフェリクに投げる。
「……目が覚めたか」
青年が身に着ける青い鎧には、ラエティティアの紋章が刻まれていた。騎士のようで、歳のほどはフェリクとそう変わらないように見える。
「傷は平気そうだな。痛まないなら、さっさと出て行くといい」
「……ここは?」
フェリクの問いに、青年はまた目を細めた。
「王宮の救護室だ。お前が運ばれた経緯は聞いている。今度からは、もう少し鍛錬を積んでから魔物に挑むんだな」
冷たく言って、青年は手にしていたトレーを机に置いて部屋を出て行く。食事を運んで来たようだった。
フェリクは窓の外を覗き込んだ。そこは見たことのない栄えた街が広がっている。多くの人が行き交い、その賑やかさに不安感が広がった。ここが王都の中心であることは、一度も訪れたことのないフェリクでもよくわかった。
青年が運んで来た食事を手早く済ませると、フェリクは部屋を出る。赤い絨毯の敷き詰められた廊下には、仰々しい鎧を身に着けた騎士たちの姿が見えた。
フェリクが気になったのは、ルークスの安否だった。フェリクは気を失い運ばれたようだが、気難しいルークスが無事について来ているか。いまはどこにいるのか。せめて村に戻っているといいのだが、とフェリクは祈らずにはいられなかった。
王宮の権威を示すような豪華な廊下では、ただの牧童であるフェリクは浮いていた。行き交う騎士たちも怪訝な視線をフェリクに投げる。一刻も早くこの場から立ち去りたかった。
しかし、フェリクには街への出入り口がわからない。とりあえず、と階段を降りてみたが、端まで見渡せないほど廊下は広い。誰かに訊こうにも、廊下を歩く者に声をかける勇気もない。勘でいくしかないようだ、とフェリクは溜め息を落とした。
とぼとぼと歩いていると、廊下に面した中庭のような場所が目に留まった。外壁に囲まれたそこは、小さな花々が咲き誇り、美しい蝶が舞っている。まるで楽園のようだ、と考えながら、フェリクはその中に引き込まれていった。その中央に、高い石碑が佇んでいる。何か文字が刻まれているようだが、フェリクの読める文字ではないらしい。まるで隔離された空間のように、街や城の喧騒が遠ざかる。
「小僧。そこで何をしている」
不意に背後から声が聞こえ、フェリクは肩を跳ねさせた。我に返ったフェリクに視線を遣るのは、独特の模様が描かれた上質のローブを身に纏った、浅黒い肌の背の高い男性だった。
「……街への出方がわからなくて……」
男性の気迫に押されつつ、フェリクは自信なく言う。男性は目を細め、片眉を上げて見せた。
「傷はもうよいのか?」
「え……?」
男性が歩み寄って来ると、その圧倒的な威圧感に退きそうになる。しかし、それは失礼かとなんとか踏み止まった。
「お前に助けられた馬車に乗っていたのだ」
男性は嫌味っぽい笑みを浮かべて言う。フェリクはなんと返答したものかと、曖昧に笑って誤魔化した。
「街に出るには、南側の門だ」
そう言って男性が指差したのは、先ほどフェリクが歩いて来たほうの廊下だった。つまり出入口の反対側に向かって来てしまっていたらしい。そのことに気付き、フェリクはまた苦笑いを浮かべる。
「お前の馬は、街の厩にいる」
「ありがとうございます……」
「……次に見えるときは、まともに剣を取れるようになっておくことだな」
「え?」
上手く聞き取れず首を傾げたフェリクには応えず、男性は廊下に戻って行く。フェリクは胸に僅かな違和感を懐きつつ、男性が指差した方向に、つまり元来た廊下に戻った。ここから南側の門は見えないが、無事に街へ出られることを祈りつつ歩く。早く自分に不釣り合いな場所から離れたかった。