【2】故郷
ごろりと寝返りを打ち、目を開く。カーテンの隙間から光を差し込む月はまだ高く、夜明けが遠いことを示している。ラエティティアの王都であれば街からは人々の声や音楽が聞こえていただろうが、ムルタの夜は想像していたより静かだ。その静けさが、フェリクを眠りから遠ざけるのかもしれない。
少し風に当たって来よう、と起き上がる。薄手の上着を羽織り、部屋を出た。ちょうど城の兵が見回りをしているところで、少し怯みつつ軽く会釈をする。逃げるように部屋を離れ、階段を上がった。さらに外回りの階段を登り、屋上へ向かう。屋上には二脚の椅子と丸いテーブルが置かれ、畳まれたパラソルが立てられている。フェリクが上がって行くと、お、と声が聞こえた。
「随分とお早いお目覚めだねえ」
のんびりした口調で言うのはミリアだった。椅子に深くもたれ、くつろいでいる。
「眠れないのかい?」
「うん……」
ミリアはテーブルを挟んだ向かいの椅子にフェリクを促す。屋上には温かな風が吹き抜け、仄かに明るいカンテラの明かりが穏やかさを演出していた。
「ミリアはどうしてここに?」
「あたしは先代王の孫でね。だから城に住んでるんだ。ここはあたしの気に入りの場所なんだよ」
ミリアはティーコゼーの下からポットを取り出し、カップに濃い茶色の液体を注ぐ。礼を言いながら受け取ると、それはホットチョコだった。
「あたしは王様からあんたの面倒も頼まれているからね。眠れなかったらいつでもおいでよ」
「うん……ありがとう」
温くなったホットチョコを啜ると、少しだけ心が落ち着いたような気がした。自分を知る者がいたことで安心したのかもしれない。
城の屋上からは、町がよく見える。ちらほらと明かりが点いており、まだ活動を終えていない者も多いようだ。以前、ムルタを訪れたときは、人々は死んだように暮らしていた。家々すらまともな状態ではなかったのだ。この明かりが、ムルタの民が生きている証のように見えた。
「……僕は本当にここにいてもいいのかな」
独り言のように呟くフェリクに、ドライフルーツを口に放り込んだミリアは眉をひそめる。
「なに当たり前のこと言ってんだい。王様が決めたんだから、何も問題はないはずさ。あの流鏑馬であんたを認めた民も多いんだよ」
「…………」
フェリクにはまだ実感が湧かない。ラエティティアで生まれた自分がムルタで暮らすこと。ムルタの民の中で生きること。ムルタの民に認められ、受け入れられること。ただの余所者である自分の居場所がムルタにあるのか、フェリクにはまだわからなかった。
「僕はここで何をすればいいんだろう」
「あたしは特に聞いてないけど……そうだ」
ぴょんと立ち上がったミリアが、見てごらん、と手招きする。柵の前に立ち、ミリアは町の向こうを指差した。町の明かりの届かない場所だが、目を凝らすとミリアの指し示すものの輪郭がなんとなくだが見えてくる。
「あの辺りが畑で、あの辺は牧場になってるんだ。村での知識が活かせるんじゃないかい?」
「そう……。それで役に立てるなら、僕がここにいる意味もあるのかな」
フェリクが手元に視線を落とすので、ミリアは少しムッとして眉根を寄せる。
「そんなことを考える必要なんてないよ。王様はあんたに居場所を与えたかっただけさ」
「居場所……」
フェリクはそっと左目に触れる。捨てることのできなかった錘。いまでも重苦しくフェリクの足を引き摺るもの。
「こんなものさえなければ……」
無自覚にこぼれた呟きに、フェリクはハッとして手を離す。ミリアが気遣わしげにフェリクを見つめていた。
「ごめん、こんなこと言ってもしょうがないのに……」
いまさらどうしようもない。いくら憎もうとも、何もかもが遅い。それはわかっているのに、触れずにはいられない。切り離すことができないと思えば思うほど、胸の奥で何かが疼く。忘れられない痛みが指先を痺れさせた。
「フェリク。あたしには取り繕わなくていいんだよ」
ミリアが力強く言うので、フェリクは顔を上げる。ミリアは青色の瞳に輝きを湛え、真っ直ぐにフェリクの目を見つめた。
「あたしはフォルトゥナ姫と違ってすべて知ってる。あたしの前では、何も隠さなくていいんだよ」
真実を見据える瞳が、フェリクの心に温かな光を灯すようだった。
「……ありがとう。僕のことを知っている人がいてくれて、よかったよ」
ミリアに促され、フェリクはまた椅子に腰を下ろす。異国の地であるこの町で、この場所だけがフェリクに安心感を与えるようだった。
「けど、本当に不思議だね」ミリアがナッツを口に放りつつ言う。「その宝玉で運命をやり直すことになったのに、王様もあたしも、フェリクのことを憶えてたなんて」
「そうだね……。それも宝玉の力、なのかな」
ミリアがナッツを勧めて来るので、フェリクはまた無意識に左目に触れていたこと気が付いた。この十四年で癖になってしまった。
「それに、王様から聞いたよ。あんたが宝玉を保有してることで、この一帯は恩恵を受けているんだろう?」
「らしいね」
「ムルタが繁栄したのは、あんたがその宝玉を保持したまま生まれてくれたおかげだね」
「……それはどうかな」
フェリクはまた手元に視線を落とした。この国ではまだ、自信を持って顔を上げることができない。
「ラエティティアの聖地に収まれば、恩恵は受けられたんじゃないかな」
「それはムルタには届かなかったかもしれないよ」
目を細めて微笑むミリアに、フェリクは首を傾げる。このどこか挑発するような笑みは、以前から変わっていない。
「あんたがムルタのことを思ってくれていたから、ムルタにも届いたんじゃないのかい?」
「……そうだといいな」
「だから王様も……」
おっと、とミリアが口を塞ぐので、フェリクは窺うように視線を投げる。にやりと笑って見せたミリアは、軽く肩をすくめた。
「なんでもない」
「何?」
「なんでもないよ。とにかく、自由に暮らしなよ。少しくらいわがままな生き方をしたって、文句を言えるやつはいないよ」
「……ありがとう」
すっかり冷めたホットチョコを飲み干し、ひとつ息をつく。風でずれた上着を直し、フェリクは立ち上がった。
「眠れそうかい?」
「うん。ありがとう」
「朝食の時間になったら迎えに行くよ。おやすみ」
「うん。おやすみ」
眠気が誘われたわけではないが、ミリアと話すことで随分と心が軽くなったような気がした。いまはそれだけで充分だった。
部屋に戻るところでまた巡回の兵と鉢合わせになり、監視されているらしい、とフェリクは肩身が狭くなる思いだった。ムルタの民はまだフェリクを警戒している。いくら王が許し、弓と馬の腕を認められたからと言って、すべての民がフェリクを受け入れるとは限らない。そのための見張りなのだろう。
そそくさと部屋に戻り、上着を椅子に放る。かつて砂漠であったムルタの風は暖かい。体はさほど冷えていなかった。
ベッドに潜り込むと、見慣れない天井はやはり落ち着かなかった。村の木造の天井の下に戻りたい。そんな叶わぬ願いを思い浮かべながら左目に触れる。
(……僕は、なんのために生まれたんだろう)
そんな言葉が何度も浮かぶ。
こんな不要なものを持ったまま。どこにも行けぬまま。何もできぬまま。
恨んではいけない。恨んでなどいない。これが運命だったのだ。
(ああ、そうか……)
いまになって、ようやくわかる。
神がアナスタシアに与えた祝福の正体は……――。
* * *
結局、よく眠れないまま朝になってしまった。朝を告げるあの声をもう一度だけでも聞きたいと、何度、願ったことだろう。
ある程度のところまで陽が昇ったことを確認すると、フェリクはベッドを抜け出した。ラエティティアから衣類は持参しているが「そんなんじゃ余計に浮いちまうよ!」とミリアに指摘され、ムルタの民族衣装が用意されている。ラエティティアの人間がムルタの民族衣装を着ているほうが浮くのでは、というフェリクの意見は全面的に却下されていた。
着慣れない服に袖を通し、鏡台を覗き込む。かつて、幼馴染みがフェリクの頭髪を見て、寝癖が付かないことを羨ましがっていたものだ。民族衣装はやはり似合っているようには見えなかった。
部屋を出ると、巡回の兵の姿はなかった。安堵の息をつきつつ、廊下を歩き出す。城はすでに目覚めており、賑やかなことがよくわかった。
(あ、しまった。朝食の時間に迎えに来るってミリアが言ってたな……)
部屋に戻ろうかと振り向くと、ムルタの兵士たちが並んで歩いているのが見える。なんとなくその前を通り抜けるのは気が進まず、ふと目に入ったバルコニーに出た。爽やかな風の吹き抜けるバルコニーは、目覚めたムルタを一望できる。町の通りを行き交う人々の姿がよく見えた。
ラエティティアの王都に比べれば、文明は遅れていると言わざるを得ない。それでも、人々は明るい表情で暮らしていた。
暖かな風が頬を撫でる。都市の空気はフェリクの肌には合わない。あの静かな森の澄んだ空気に慣れすぎてしまったのだ。
「小僧」
不意に背後から低い声で呼び掛けられ、思わず肩が跳ねる。廊下の窓の向こうにいたのはレフレクシオだった。護衛の姿がないのは、レフレクシオが変わらず強者であるという証拠のようだった。
「こんなところにいた」
レフレクシオの背後から、ミリアがひょこっと顔を出す。ミリアが完全に隠れてしまうほど、レフレクシオの体は大きかった。
「よく眠れなかったかい?」
「うん……」
「朝食の時間だ」
レフレクシオに続いて、おいで、とミリアが廊下に戻る。フェリクはまだレフレクシオに対して少しだけ萎縮してしまう。ミリアがいなければ、こうして付いて行くことはできなかったかもしれない。
ふたりのあとに続いて着いたのは、ダイニングのようだった。長いテーブルに上質な椅子が並び、高い天井には質素なシャンデリアが見える。使用人らしい女性が数名おり、フェリクを気に留める様子はなかった。
ミリアに促されて椅子に着くと、右の斜交いレフレクシオが腰を下ろす。ミリアはフェリクの左の椅子に腰掛けた。当たり前のようにフェリクを挟んだふたりに、え、とフェリクは思わず小さく声を漏らす。
「僕はこれから王族と食事をすることになるんですか?」
「いまさら何を言う」レフレクシオが言う。「貴様をここに連れて来たのは私だ」
「でも、僕はただの牧童ですし……」
「それは前の話だろう?」と、ミリア。「深く考える必要はないよ」
牧童であったのが以前の話だったとしても、フェリクはラエティティアでもただの騎士見習いだった。王族と並んで食事を取るような身分ではない。
「民に知らしめなければならないこともあるしな」
「知らしめないといけないこと……?」
「いまは知らなくてもいいことだ」
曖昧な物言いに首を傾げたフェリクは、窺うようにミリアを見遣る。ミリアは頬杖をついて意味深に笑っているだけで、フェリクの問いかける視線に答えるつもりはないようだった。
運ばれて来た食事は質素な料理だった。料理にまで萎縮するような必要がないことをフェリクは少しだけ安堵する。それでも、町の民の食事に比べれば豪勢なのだろう。
食事は静かに始まる。フェリクはまずスープを口に運んだ。ラエティティアに比べると味付けが濃い。それが美味しく感じるのは確かだが――。
「口に合わんか」
レフレクシオが言うので、フェリクは慌てて首を振る。
「そんなことありません。美味しいです」
目を細めるレフレクシオに曖昧に微笑んで返し、フェリクは視線を料理に戻した。
フェリクの舌はまだ、アロイ村の味を憶えている。ラエティティアの頃からそうだった。都市の食事は自分には贅沢すぎる。
「食事が終わったら町に行こうよ」気遣うようにミリアが言う。「案内するよ」
「うん……ありがとう」
王族の食事が口に合わないと感じるのは、自分のまた贅沢なのかもしれない。フェリクはそんなことを考えていた。