【4】居場所
ベッドに潜り込んでも、フェリクはしばらく寝付くことができなかった。兄と名乗るレーニスと出会ったことで神経が落ち着かないのかもしれない。少し城内を散歩しようと起き上がり、適当な上着を羽織る。ここのところはよく眠れていたが、普段と違うことがあると神経質になってしまうらしい。
廊下に出ると、城内はまだ寝静まっていなかった。いつかミリアが言っていた通り、ムルタの民に比べてフェリクは早寝らしい。城内にはまだ活動を終えていない者がいるのだ。
いつものバルコニーに出る。ムルタを一望できるこのバルコニーは、すっかりフェリクの気に入りの場所になっていた。
フェリクは、屋上でのうたた寝の際に見た夢のことも気になっていた。
(あれは……僕の本心なのかな……)
確かに自分は戦いに巻き込まれただけ。勇者にはなりたくてなったわけではない。だが、いまはそんなふうには思っていない。レフレクシオを罪だなんて思っていない。もちろんフォルトゥナ姫も。すべて自分の選択であったことに間違いはないのだ。投げ出すこともできた。だが、そうしなかった。それが自分の選択だった。
「またこんなところに無防備に立っているのか」
呆れた声に振り向くと、レフレクシオがバルコニーに出て来る。フェリクが少しでも部屋から出ればすぐに気付かれるらしい。
「いざとなれば宝玉がありますから」
「そうだとしても警戒するべきだ。アミキティアの連中もいる」
レフレクシオはフェリクの隣に並び、街を見下ろす。こうしていると、フェリクの心は穏やかになる。レフレクシオの隣で感じるのは安息だった。
「アミキティアの使者たちはどうでしたか?」
「いまのところ怪しいところはない。ムルタとの協定を望んでいる」
アミキティアはムルタにも流れるモルス川の先に位置している。ムルタにとっては隣接する国である。
「水資源の限られたムルタにとって、水の王国であるアミキティアとの協定には意味がある」
「協定を結ばれるんですか?」
「それをいま決めることはできん」
国同士の協定となると難しいことなのだろう、とフェリクは小さく頷く。これから数日、ここに滞在する、とレーニスは言っていた。そのあいだに協議を進めるのだろう。
「お前は兄に会ったのだろう」
「はい」
「どう思う」
「悪意は感じませんでした。ただ……何か嫌な感じがします」
それは宝玉から伝わってきた感覚でしかない。言葉で説明することが難しく、話したところで理解できないかもしれない。
「単純に弟というだけでアミキティアに連れて行こうとしているわけではない気がします」
「世界王の手下が接触している可能性がある。宝玉のことを知れば、どの国もお前を欲するだろう」
宝玉の力は万能と言える。宝玉の力があれば、どんな国でも栄えることができるだろう。ラエティティアは宝玉の恩恵を受けて繁栄し、ムルタにもそれが届くことで頽廃の砂漠は豊かな大地へと変貌を遂げた。貧困や病に苦しむ国はどこにでも存在する。宝玉は喉から手が出るほど欲するだろう。
「アミキティアは宝玉のことを知ったのでしょうか」
「使者たちはどうかわからん。だが、あの兄は知っている可能性がある。この協定をあの兄が進言したものであるならな」
「兄を利用して僕を卿たちから引き離すことが目的なんでしょうか。でも……兄にそうする利点はあるでしょうか。世界王国から何かしらの報酬を約束されたりとか……」
「その可能性はあるだろう。勘当された家の十歳も離れた弟に、いまさら情などない」
フェリクがレーニスに感じたのは、確かに“情”ではなかった。情のある表情をしていたが、宝玉がそれを感じ取ることはなかった。
「お前自身はどう思う。兄に付いて行きたいと思うか」
「……思いません。僕はムルタを離れるつもりはありません」
いまさら何を言われようと、フェリクの心は変わらない。
「……卿の隣が、僕の居場所なんですよね」
窺いつつ見上げると、レフレクシオは小さく笑う。それから、優しく触れるだけのキスを落とした。
「それがわかっていながらこんなところに無防備に立っているのはいただけない」
レフレクシオはいつものようにフェリクを抱き上げる。こうして左腕に身を委ねていると、それだけで心が穏やかになる。だが、今夜はいつもと違った。あの夢が、まだ心の中で引っ掛かり続けている。
「……あの……」
「なんだ」
「……なんでもないです」
この人の愛を疑うなんて馬鹿げている。そう思ったとき、笑い声が聞こえた。あの怪しい笑い声。
『本当に愛なんて不確かなものを信じてもいいのかな』
その姿を確かめようと体を起こす。そこには誰の姿もなかった。
「どうした」
「……なんでもありません」
何かが心を惑わせようとしている。何かが心を試している。ムルタにいること。この愛を受け止めること。何かがその決意を捻じ曲げようとしている。
* * *
健やかな眠りに就いたことを確認すると、レフレクシオはフェリクの寝室を出た。ここのところ、夜中に部屋を出歩くことが多い。ムルタへ来たばかりの頃はよくあることだったが、ラエティティアの騒動以降はよく眠れているようだった。アミキティアの使者がいることで落ち着かないのだろう。
寝室を出たレフレクシオを待つ者がいた。アンブラだ。
「城の中に世界王の手下の気配がありますよ」
歩き出したレフレクシオに続きつつアンブラが言う。それはなんとなくレフレクシオも感じていることだった。
「あの兄か」
「おそらく違うかと。あの兄はただの人間っス。かなり曖昧な存在っスね。所在がまったく掴めませんわ」
アミキティアの使者が来てから、アンブラは寝る間も惜しんで動き続けている。フェリクもミリアも気付いていないだろうが。
「いままで以上に坊ちゃんから目を離せないっスよ」
「それはお前の得意分野だろう」
「本当に人遣いの荒い王様っスねー」
「不満か」
「いえ、別にー。自分も宝玉の恩恵に預かってますしねー」
不貞腐れたように言ったあと、それにしても、とアンブラはまた真剣な表情になる。
「世界王もなかなか飽きないもんスね」
「王というものは強欲な生き物だ」
「ご自分のことを仰ってるんですかー?」
茶化すように言うアンブラに、レフレクシオは背中から覇気を飛ばす。ひえ、とアンブラが小さく声を上げた。
「冗談はさておき、坊ちゃん自身にも何か対策をしないといけなくなるかもしれませんよ」
「考えておく。必要であればお前にも兄弟を作ってやろう」
「自分の弟は坊ちゃんだけで充分っスよ」
いつの間に兄弟分になっていたのかは知らないが、フェリクもあの兄よりアンブラを取るだろう。フェリクが兄貴分と慕っているのかは知らないが。
「んじゃ、今日も張り切って行って来ますわ」
アンブラは影に潜り込んで行く。影があればどこにでも出入りできるのは便利な能力だ。
フェリクの魔力回路は回復の兆しを見せているが、完全な修復にはまだ時間がかかる。いまだに何かがフェリクを捕らえているのだろう。その正体は誰にも掴めないのかもしれない。実に歯痒いことだった。
……――
自分の荒い息遣いが嫌に響く。両腕は重い物を握り締めたまま、力を失いただ引き摺られている。
「おかえりなさい」
愛らしい声に肩が跳ねる。振り向けば、目を細めて微笑みかけているのが見えた。
「ちゃんとハイドフェルドに種を撒いて来た?」
「……どうして、こんなことを……。あれでは、ハイドフェルドは滅んでしまう……!」
「そのほうが面白いじゃない。民があれを見つけるのが楽しみだわ」
心の底から楽しむような声に、嫌悪感すら湧いて来る。だが、歯向かうことはできない。
「何が目的なのですか……どうして、僕はこんなことをしなければならないんですか?」
「あなたは世界にたったひとりの勇者なのよ。その力を使わないのはもったいないでしょう?」
この胸を苦しくさせるものが悲しみなのか、それとも痛みなのか、もうそれすらもわからない。何もかも失われてしまった。奪われ、剥ぎ取られ、何も残されていない。
「……こんなことのために使う力ではありません」
「じゃあなんのために使うの?」
「…………」
「私のためでしょう?」
もう言葉にも意味はない。もう、何も残されていないのだ。
「ね。私だけの勇者様」
この声にすら、意味はないのだろう。
……――
またこんな時間に目が覚めてしまった、とベッドの上に体を起こす。壁の時計を見遣ると、レフレクシオに寝付けられてから数時間と経っていない。フェリクは小さく息をつき、また布団の中に潜る。部屋から出てうろうろしているとまた叱られてしまう。
明日はまたアミキティアの使者とレフレクシオのあいだで話し合いが行われる。そのあいだ、兄はおそらくフェリクのもとへ来る。
(……僕はムルタから離れない。何があっても。……卿が、僕を愛さなくなるまで)
静かに目を閉じる。このまま朝を待っていればいい。星が眠りに就けば、いつか夜は明ける。




