【3】邂逅
『ねえ』
背後からかけられた声に振り替える。そこにいたのは、怪しい笑みを浮かべる自分だった。
『本当にあの人の愛を受け入れていいの?』
その左目は空洞で、赤い液体がだらだらと溢れている。
『あの人のせいで、僕は戦いたくもないのに戦わなければならなくなったんだよ』
言い返すことができない。それが事実であることは曲げられない。言い返す言葉を持ち合わせていなかった。
『あの人はそれをすべてフォルトゥナ姫のせいにしてるんだよ』
こてんと首を傾げ、怪しい笑みの自分は楽しげに笑っている。
『あの人に、僕を愛する資格はあるのかな』
「……そんなの、関係ないよ」
ようやく言葉を振り絞る。例え否定する言葉を持ち合わせなかったとしても、それだけは違うと証明しなければならない。
「レフレクシオ卿は僕を救おうとしてくれてる。恨んでなんかいない」
『そんなの欺瞞だよ。僕が苦しんだそもそもの原因はあの人なんだから』
怪しい笑みに影が落ちる。これが自分の一部であることに間違いはないのだろう。
「いまはそんなふうに思ってない。卿は僕を愛してくれてる」
『あの人はなんの罪滅ぼしもしていない。すべてフォルトゥナ姫に背負わせて』
笑みが消える。それはただ心の暗いだけの部分。
「もういいんだ」
『本当にそうかな。あの人は、自己満足のために僕を愛しているだけ』
「もういいんだよ」
『きみは本当にあの人を愛しているのかな』
視線を足元に落としてしまう。あの空洞の目を見ていることができない。
『許すべきではない。許せるはずがない』
もう、声を上げることができなかった。
……――
「――起きろ!」
強く肩を揺さぶられ、フェリクは目を覚ます。射し込む陽を遮って覗き込むのはアンブラだった。アミキティアの使者たちから隠れるために屋上で待機している中、いつの間にか椅子にもたれて寝てしまっていたらしい。
「酷くうなされていたぞ」
「うーん……何かよくない夢を見た気がする」
フェリクは立ち上がり、大きく伸びをする。椅子で寝ていたため、垂れていた首が痛んだ。
「よくこの状況で寝られたもんだ」
「ミリアは?」
「様子を見に行った」
ひとつ息をついたアンブラが、厳しい表情になって身を翻す。フェリクを背に庇うアンブラに首を傾げていると、屋上に上がって来る者があった。それはあの紺色の髪の騎士だった。
「やあ、きみがフェリクかな」
アンブラの背に隠れるフェリクを見据えて青年は言う。アンブラは眼中に入っていないようだった。
「僕はレーニス。きみの兄だよ」
「話し合いは終わったんスか」
威嚇するようにアンブラが言う。青年――レーニスは穏やかな笑みを返す。
「これから始まるところだと思うよ。ところで、きみは? フェリクと似ているけど……」
「兄貴分みたいなもんスね」
「ふうん……」
レーニスは不思議そうに首を傾げるが、興味が薄いような表情だ。それから、気を取り直すようにまたフェリクに視線を戻して朗らかな笑みを浮かべた。
「隠れていないで出ておいで。ずっと会いたいと思っていたんだ」
信用に値するかどうかを見極められず、フェリクはさらにアンブラの背に隠れる。悪意や害意は感じられないが、無害とは限らない。兄という点に関してはどうとも思わないが、ムルタにとってどういった存在となるかはわからない。警戒するに越したことはないだろう。
「すみませんねえ」アンブラが言う。「うちの坊ちゃんは人見知りなもんで」
その言葉に、レーニスの眉がぴくりと震えた。
「僕の弟が随分と世話になっているようだね」
アンブラの威嚇の色が濃くなったように感じ、まずい、とフェリクは心の中で呟く。
(なんだかよくわからないけど張り合ってる……!)
「張り合ってどうするんだい」
フェリクの心の声を代弁するように、屋上に戻って来たミリアが呆れた表情で言う。ミリアを振り向いたレーニスが、丁寧に辞儀をした。
「これはミリア姫。ごきげんよう」
「どうしてここにフェリクがいるって知ってるんだい」
「廊下の巡回の兵に聞きました」
「口の軽い者がいたもんだね」
ミリアは小さく舌を打つ。アミキティアの使者の中にフェリクの兄を名乗る者がいること、それに対し彼らが警戒していることが伝わっていない兵もいたようだ。ムルタの兵は緩い。また兵に対するミリアの評価が下がったようだ。
「それで? 実家に勘当されたはずのあんたがどうしてフェリクの存在を知ってんだい」
警戒心を湛えたままのミリアに、レーニスは小さく笑って肩をすくめる。
「僕のことは調べたんですね。警戒させてしまったようですね。実家にいた頃の仲間に聞いただけです。そのとき、フェリクがムルタに連れて行かれたと聞いたんです」
「連れて行かれた?」ミリアは眉をひそめる。「まるで誘拐したみたいな言い方じゃないかい」
「そうでないなら、なぜフェリクはムルタに?」
レーニスは相変わらず穏やかな笑みを浮かべているが、その声にはどこか棘があるように感じられた。
「まだ十四歳のフェリクが、両親のもとを離れる理由は?」
「理由は言えません」
アンブラの背に隠れたまま言うフェリクに、レーニスは問いかけるような視線を投げる。
「でも、ムルタには自分の意思で来ました」
「ラエティティアの騎士になるんじゃなかったのかい?」
「そうと決まってたわけじゃないっスよね」と、アンブラ。「生まれが騎士の家ってだけで」
レーニスは笑みを浮かべたまま表情を崩さない。アンブラとミリアと対立するつもりはないようだが、その空気が張り詰めていることをフェリクの左目は感じ取っていた。
「でも、こんな王都から離れた国では苦労も多いんじゃないか? 僕と一緒にアミキティアに行こう。血の繋がった兄弟のほうが頼りになるだろう?」
「この国を見下しているのかい」
嫌悪感を露わにするミリアに、レーニスは慌てたように頭を下げる。
「そんなつもりはありません。お気に障ったのなら謝罪します。ですが、ラエティティアとムルタでは、気候など環境が違います。その点、アミキティアならラエティティアと環境が似ている。もっと過ごしやすいはずです」
ミリアは怪訝な表情のままレーニスを睨めつける。それでもレーニスは意に介さず、またフェリクに向き直った。
「もちろんすぐに返事をしろとは言わない。ここには何日か滞在させてもらう。そのあいだに考えてみてくれ。アミキティアはきみを歓迎するよ」
また辞儀をしてレーニスは屋上をあとにする。ミリアとアンブラの空気がようやく緩み、フェリクは安堵にひとつ息をついた。ふたりがこれほどまでに殺伐とした空気を醸し出すのは初めてだった。
「なんて鼻につくやつだ」ミリアが言う。「あれが本当にフェリクの兄なのかい?」
「坊ちゃんの宝玉がそう教えたならそうなんだろ」
「まさかついて行くなんて言わないだろうね」
ミリアは厳しい視線をフェリクに向ける。フェリクは薄く笑みを浮かべて見せた。
「そんなつもりはないよ。僕がムルタから離れることはない」
「じゃあどうしてはっきりそう言わなかったんだい」
「うーん……何か嫌な感じがするんだ」
フェリクは左の目元に触れながら言う。それが何であるかはっきりと感じ取ることはできないが、左目に何か違和感のようなものを覚えた。
「嘘は言ってないけど……」
「世界王と何か繋がりがあるかもしれない」と、アンブラ。「警戒するに越したことはないだろうな」
宝玉はフェリクに真実を伝える。だが、いまは何か曖昧な感覚で、その正体を掴むことができない。アンブラの言う通り、警戒するに越したことはない。いまはレーニスの真意に届くまでには程遠いのだろう。




