【2】訪れ
目を開いた先に広がっていたのは、ただ暗闇だった。辺りを見回すと、小さな光が見える。歩み寄ったところで、色素の薄い浅葱色が浮かんだ。それはこちらに背を向ける少年だった。慎重に近付くと、少年は左手に護身用の短剣を握る。それを顔に向けるので、咄嗟にその手を掴んだ。こちらを振り向くのは、空洞になった左目だった。まるで涙のように、赤い液体が溢れ出ている。
『自分の罪から逃れようというのですか?』
不協和音のように響く声が、耳の奥を震わせる。責め立てる言葉に似合わず、その顔には嘲笑うような色が湛えられていた。
『僕が戦いたくもないのに勇者になったのはあなたのせいだというのに』
油の切れた機械のように、こてんと首を傾げる。その姿が不気味で、目が離せなくなる。
『フォルトゥナ姫にすべて押し付ければ楽だったでしょうね。確かに、すべての元凶はフォルトゥナ姫だった』
捲し立てる声は楽しんでいるようにも聞こえ、それでいて悲しみを湛えている。
『けど、悪は彼女だけでしょうか。あなたがラエティティアを破滅に導いたことを忘れたのですか?』
「……忘れてなどいないさ」
低く呟けば、空虚な左目は溢れ出る赤色をそのままに細められる。
「許してもらおうなどと思っていない」
それが詭弁だとしても、答えは変わらない。
「私がお前を愛するのは罪滅ぼしなどではない」
まるで水面が揺れるように、陽炎のように姿が消えていく。
『そんなことに意味はあるのですか?』
その瞳は、どこか退屈そうだった。
……――
次にレフレクシオが目を覚ましたのは、寝室のベッドの上だった。
あの空虚な瞳を思い浮かべると、涙を流す姿が思い起こされる。
『あなたは……どうして、僕を戦わせたんですか……』
何を言ったところですべて言い訳になる。罪を課されるべきはフォルトゥナ姫だけではない。
「……忘れてなどいない」
誰にでもなく呟く。この言葉にも、すでに意味がないのかもしれない。
* * *
ミリアとともにダイニングに入って来たフェリクは顔色が良く、ミリアに向ける笑みも朗らかなものだった。朝の挨拶をするその表情も明るい。
「今日はアミキティアの視察団が訪れる」
朝食が始まると、レフレクシオは言った。フェリクとミリアは揃って頷く。
「そのあいだはアンブラから離れぬように」
「はい」
「あたしも一緒にいるよ。少しでも妙な動きをしたらただじゃおかないからね!」
険しい表情になるミリアに対し、フェリクには緊張は見られない。
「警戒しすぎじゃない? 本当にただの視察のだけかもしれないし」
「相変わらずのん気だねえ。いきなり兄を名乗る者が現れるなんて、怪しさしかないだろ」
「それはそうだけど……。アンブラは両親に会えたかな」
「あとでアンブラから確認しろ」
「はい」
いまでこそ気の抜けた顔をしているが、まだ心の内には誰にも見せていないことがあるのだろう。きっとミリアにもアンブラにも見せぬよう、隠し続けているのだろう。
* * *
視察団の到着予定時間が近付くと、フェリクはミリアとともに屋上に出た。隠れ場所として最適なのが屋上だった。柵越しに見下ろせば王宮の入り口が見える。
「あんたはどう思ってるんだい?」ミリアが言う。「自分に兄がいるってのは」
「うーん……どうと言われても……。記憶にないからなんとも……」
以前も現在も、フェリクは一人っ子だった。もし本当に兄が存在しているのなら、両親が口にしていてもおかしくはない。この十四年間、一度も、欠片さえも聞いたことがなかった。
「やっと確認が取れたぞ」
ソファの影からアンブラが姿を現す。その表情は、調査結果が芳しくないことを明らかにしていた。
「結論から言うと、お前には兄がいる」
フェリクはミリアと顔を見合わせた。おそらくミリアも同じく、兄と名乗る者は偽物だと思っていただろう。
「お前と十歳、離れていて、お前が生まれる前に家を追い出されている」
「追い出された?」と、ミリア。「なんだってまたそんなことに?」
「素行が悪くて父親に勘当されたらしい。騎士の家は厳しいからな」
父がそれをアンブラに話したということは、とフェリクは考える。アンブラはどうにか上手いこと両親に取り込んだらしい。あの父がそう簡単にそんなことを他人に話すとは思えない。アンブラはそのために時間がかかっていたのだ。
「ただ、書簡を寄越したのが本当にその兄なのかまではわからなかった。お前の両親は兄がいまどこにいるか知らないらしい」
「勘当されたんだから、当然だね」
「じゃあ、実際に対面して確かめるしかないんだね」
「陛下がな」
おそらくレフレクシオがフェリクをアミキティアの使者の前に出すことはないだろう。兄を名乗る者とはより会わせないようにするはずだ。本当にフェリクの兄なのかどうか、それはレフレクシオが確認するしかない。
「お越しなすったようだ」
ミリアが柵越しに眼下を眺めて言う。フェリクも柵の外側を見下ろすと、王城に続く階段にレフレクシオとイゼベル、側近の女たちの姿がある。その先に、白を基調にしたローブを身に着ける三人と騎士ふたりの五人組が階段を上がって来るのが見えた。アミキティアの使者が到着したのだ。
五人の中に視線を巡らせたフェリクは、紺色の髪の騎士を指差した。
「あの騎士の人。あの人が僕の兄だ」
「どうしてわかるんだい?」
「宝玉が教えてくれた」
「ふうん……」
「あんまり身を乗り出すなよ。本当に兄だとしても、無害とは限らないぞ」
短い紺色の髪の騎士は背が高く、重厚な鎧を纏っている。騎士を眺めていたミリアが、ふとアンブラを振り向いた。
「あの人よりアンブラのほうがフェリクに似てるよ」
「それは当然だろ。俺はこいつの影として作られたんだからな」
「僕は母似だから。あの人は父に似てる」
「そうか?」
アンブラが目を細めてつくづくと騎士を見る。アンブラは実際にフェリクの両親と対面しているが、フェリクの目ではそう見えたとしても、アンブラにはよく理解できないのかもしれない。
「しばらくここにいよう」ミリアが言う。「さすがに屋上までは来ないはずさ」
「本当に僕に会いに来るかな。ムルタとの交友を申し込む書簡だったし……」
「相変わらずのん気だな」と、アンブラ。「少なくとも、あいつの目的にはお前も含まれてるはずだ」
「うーん……」
アミキティアの使者は、レフレクシオと和やかに挨拶を交わしている。その雰囲気は穏やかで、それ以外の目的があるようには見えなかった。それも、アミキティアの使者には、ということなのかもしれない。フェリクはそう考えていた。
「それにしても」ミリアが言う。「どうしてあの人はフェリクがムルタにいるって知ってるんだい?」
「さあな」と、アンブラ。「そもそも、勘当された家に弟が産まれたってことをなんで知ってるのかって話でもあるしな」
「フェリクをアミキティアに連れて行くなんて言い出すんじゃないかい?」
「そうする利点があることをあいつらは知らないはずだ」
「……ということは……」
窺う視線を向けるフェリクに、アンブラは肩をすくめる。
「考えられるとすれば、世界王の手下にそそのかされているんじゃねえかってことだな」
「フェリクを手に入れるためには手段を選ばないだろうしね」
「ムルタから……もしくは陛下から引き離すことが目的かもしれねえな」
「そうすれば勝算があるって?」ミリアは呆れたように目を細める。「そんな罠にあたしたちがかかるわけないじゃないか。舐められたもんだね」
「なんにしても、しばらくはここで大人しくしてろ」
フェリクは柵のあいだから紺色の髪の騎士を眺めた。こちらに気付くことなく微笑んでいる“兄”を見ていても、特になんの感情が湧いて来ることもなかった。




