【1】書簡
ラエティティアの復興にムルタが支援を送る中、フェリクはただ平穏な日々をムルタで暮らしていた。世界王が宝玉の勇者を諦めるはずがない、とレフレクシオは言っていたが、あれ以降、新たな攻撃はフェリクには届いていなかった。
牧場の仕事が終わると、フェリクはミリアとともにリビングでお茶の時間を過ごすようになった。アンブラも加わることがあるが、影として暗躍するアンブラは、フェリクが思っている以上に忙しいようだった。
「小僧」
レフレクシオがリビングに入って来るので、フェリクとミリアは話すのをやめる。レフレクシオは険しい表情をしていた。
「お前に兄はいるか」
「兄……? 僕は以前もいまも一人っ子です」
レフレクシオの眉根のしわが深くなる。その手には一枚の紙があった。顔を合わせたフェリクとミリアが立ち上がると、レフレクシオは腰を屈めてふたりに書面を見せる。
「お前の兄を名乗る者から書簡が届いた」
「書簡?」ミリアが首を傾げる。「手紙じゃなくて?」
「ああ。アミキティアからの書簡だ」
「アミキティアって」フェリクは言う。「モルス川の先の国ですよね」
「ああ」
やり直す前に訪れたことのあるアミキティア王国は、海を有する水の都だ。モルス川で繋がっており、ムルタとはさほど離れていない。
その書簡は、王室の判が押された正式なものだった。だが、署名されていた名前に、フェリクは見覚えがなかった。
「交友を結びたい、とのことだ」レフレクシオが言う。「視察を申し出る書簡だな」
「アミキティアはラエティティア領じゃないのかい?」
ミリアは首を傾げつつ、フェリクと顔を見合わせる。頷くレフレクシオの表情は変わらず険しい。
「領地としてはラエティティアだが、国家として独立している」
「ふうん。でも、フェリクに兄って?」ミリアは怪訝に言う。「怪しさしかないよ」
「僕も両親からそんな話は聞いたことないな」
もし実家を出た兄が本当にいるのだとすれば、両親は話題に出すこともあっただろう。フェリクが生まれてから一度も会っていないのだとすれば尚更だ。だが、この署名にある名前を両親から聞いたことは一度もない。フェリクは一人っ子として育てられたのだ。
「でも」フェリクは言う。「アミキティアとの交友はムルタにとって良いことですよね」
「ああ。だが、視察を受け入れれば兄を名乗る者も来ることになる」
レフレクシオもミリアも、突如として浮上したフェリクの兄に強く警戒している。フェリクとしても怪しいとは感じるが、アミキティアとの交友がムルタにとって利点があると考えれば、この話を受けることは悪いことではないのではないかと思う。
「そのあいだはアンブラと一緒にいます」
「あたしも一緒にいるよ!」
ミリアが拳を握り締めると、レフレクシオは小さく頷いた。
「では視察を受け入れる」
「はい」
レフレクシオはまたひとつ頷き、リビングを出て行く。それを見送ったフェリクとミリアはお茶会を再開した。
「アミキティアって、あの姫がいるところだよね」
ミリアが思い浮かべているのは、やり直す前の運命で出会った人物のことだ。
「ルチル姫だね。いまも元気でいるといいんだけど」
「いまでもわがまま放題なのかね」
アミキティアの姫ルチルとは戦いの中で出会ったが、ミリアとは馬が合わないようだった。ふたりとも気の強い性格をしているため、よく衝突していた。
「けど、本当にいいのかい? 両親に手紙で確認したほうがいいんじゃないかい?」
「俺が確認して来てやるよ」
そんな声に振り向くと、フェリクの背後にアンブラが姿を現す。影の中で話を聞いていたようだ。
「ラエティティアに行って来てやる」
「その顔で行って大丈夫なのかい?」と、ミリア。「髪色が違うと言っても、顔はフェリクによく似ているんだよ」
「俺を誰だと思ってるんだ? 姿を変えるなんて簡単なことさ」
やり直す前の運命で、アンブラはフェリクの影として存在していた。その名残りから、アンブラはフェリクをいくつか大人にしたような顔立ちをしている。それこそ兄弟と思われてもおかしくない程度に。
「アンブラは人間なの?」
「もちろん人間さ。魔術師なんだよ」
アンブラは影に潜れば、どこの影にでも転移することができる。レフレクシオと魔力回路を繋いでいるため、フェリクの祝福の恩恵も受けている。フェリクの護衛として優秀と言えるだろう。
「陛下の許可を取ってから行くから安心しな」
軽く手を振り、アンブラはまた影に潜って行く。その姿を見送ると、ミリアが小さく息をついた。
「魔術師ってのは羨ましいもんだねえ。どこへ行くのも自由自在だ」
「おかげで僕は助かってるよ」
レフレクシオは命の契りにより、フェリクがどこにいても発見することができる。それはアンブラにも可能なことで、それによって何度も救われて来た。これからもそれに助けられることになるのだろう。
「フェリクは宝玉で転移できるし、あたしも魔法を使ってみたかったよ」
「僕は意識しないと水の中だよ」
「便利と不便は表裏一体だねえ」
ミリアがつくづくと呟くので、フェリクは小さく笑う。フェリクの転移は意識しなければ水の中に落ちるし、アンブラは影がなければ転移できない。条件が揃えばどこにでも行けるが、条件をクリアできなければ無力も同然。まさしくミリアの言う通りだった。
……――
自分の荒々しい呼吸音だけが辺りに響く。頬を伝った汗が足元に滴り、そのたびに心臓が跳ね上がるようだった。
「……どうして……」
譫言のように呟く。それだけで肺が苦しくなる。
「僕は……こんなことのために、剣を取ったんじゃない……」
「あら、いまさら何を言うの?」
鈴を転がすような声が言う。この苦しみを知ってもなお、楽しんでいるような色で。
「あなたは私の騎士。私だけの騎士なのよ」
「……違う……僕は、苦しむ人々を解放するために……」
「……あーあ」
可愛らしい声が、大袈裟なほどに溜め息を落とす。
「つまんない。そんなこと、どうだっていいの」
温かい手が頬に触れる。覗き込んだ顔には、愛らしい笑みが湛えられていた。
「私のために役立ってちょうだい。私だけのために。ね、勇者様」
胸中に浮かぶのは、ただ失望だった。この剣が望みを叶えることはない。この願いが届くことはない。すべての希望が閉ざされたのだ。
……――
仄暗い世界から脱するように目を覚ますと、まだ窓の外は真っ暗だった。
久々にこんな時間に目が覚めてしまった、とフェリクは体を起こす。ここのところはよく眠れていた。だが、何か嫌な夢を見たような気がして、心がざわつく。すっかり目が冴えてしまった。
適当に上着を羽織り、屋上に向かう。最近は夜のお茶会の回数も減ってきていた。
屋上にミリアの姿はなかった。すでに深夜であるため、部屋に引き上げたようだ。
いつものソファに腰を下ろし、ぼんやりと星空を眺める。
(……兄、か……)
フェリクは本来、ラエティティアの騎士の家に生まれ落ちた。それが、フォルトゥナ姫が世界樹の種に触れたことで運命が変わり、アロイ村の牧童として生まれ変わった。ラエティティアのすべての運命が変わったのだ。
フォルトゥナ姫と宝玉の力を使って運命をやり直し、フェリクは再びラエティティアの騎士の家に生まれた。以前の記憶を有したまま。
アロイ村の父ジェドに赤ん坊だったフェリクを預けて息絶えた母。おそらく、父はすでに別の場所で倒れていたのだろう。運命はすべて元通りになったのだ。
(どうしていまさらになって兄なんて……)
アミキティアから書簡を送った者が本当に兄なら、本来の運命に戻ったいま、ラエティティアの実家にいてもおかしくない。両親から兄がいるなど一言も聞いたことがなく、その存在は書簡が届くまで浮上すらしていなかった。
「こんな時間に何をしている」
呆れた声に振り向くと、レフレクシオが屋上に出て来るところだった。フェリクが自室から離れたことを感知したらしい。
「嫌な夢を見たような気がして、寝付けなくなってしまったんです」
「ならなぜ私のもとへ来ない」
「いや……少しひとりで考えたかっただけです」
レフレクシオのもとへ行くことを考えなかったわけではないが、まだなんとなく甘えることへの抵抗が消えない。それを話せばミリアとアンブラは呆れた顔をするのだろう。
「兄のことか」
テーブルを挟んだソファに腰を下ろしてレフレクシオが言うので、フェリクは小さく頷いた。
「僕たちが本来の運命に戻ったなら、兄も王都の実家にいてもおかしくないはずです」
「離れ離れになっているのが本来の運命だったのだろう「
「でも、どうしていまさらになって……」
フェリクは兄のことを知らなかった。ラエティティアの実家で十四年を過ごして来たが、兄は存在すらなかった。もし兄がフェリクのことを知っていて、接触するつもりがあるならもっと早く浮上したはずだ。
「なぜ僕がムルタにいることを知っているんでしょう」
「アミキティアはラエティティアよりムルタに近い。何かしら噂を聞きつけたのだろう」
ムルタからラエティティアは平原を挟んだ向こうにあるが、アミキティアはモルス川を下った先にある。国交こそないもの、距離としてはラエティティアより近かった。
「それより」
レフレクシオがおもむろに立ち上がる。それから、フェリクを抱き上げた。
「また私の添い寝が必要なようだな」
フェリクは顔が熱くなりつつ、ムッと顔をしかめる。
「いつまで僕を子ども扱いするんですか」
「子ども扱いに腹を立てているうちは子どもでないとは言えん」
言い返せず悔しがるフェリクに対し、レフレクシオは不敵に笑う。
「では、どう扱ってほしいのだ」
「う、えっと……それは……」
フェリクは口ごもり、また言い返せなくなってしまう。レフレクシオがそれを承知しているように笑うので、この人に敵うことはない、とフェリクに思わせた。
「世界王国に狙われている自覚が先だ」
フェリクは宝玉を有する者として、世界王に狙われている。ラエティティアでの騒動以来、何も事件は起きていないが、依然として世界王は宝玉の勇者を欲していることだろう。
「実感が湧きません。宝玉を持っていても、世界王国は遠い存在です」
「アンブラがどれほど暗躍しているか、いまだ知らぬようだな。たまには労わってやるといい」
アンブラは夜の闇に紛れ、世界王国の手下をムルタに入れないよう闘っていると以前、レフレクシオから聞いた。それについてアンブラが口にすることはなく、フェリクは知らないうちに守られている。
アンブラも不思議な存在だ、とフェリクは考える。かつて敵として対峙した影。それがなぜ、いまは自分を守っているのだろうか。
(僕はまだ、知らないことばかりだな……)
自分がこうして平穏に暮らせているのが彼らのおかげであることだけは知っている。いつまでもそれに甘え続けているわけにはいかないだろうが、いまのフェリクは宝玉を使いこなすことができない。勇者の力は失われたのだ。




