【1】アロイ村[2]
数年前から、村の外では魔物が出現するようになったと話に聞いたことがある。魔物は見境なく人を襲い、時には人間を喰うこともあると言う。村の民も魔物の気配に怯えていた。
アロイ村には、古くから続く剣道場がある。魔物が出現するようになって以来、若者たちはこぞって剣術を習った。いつか村に魔物が侵入して来ても、民を守るために戦うことができるように。フェリクもその例に漏れず、幼い頃からこの剣道場で剣術を叩き込まれて来た。
剣道場は、村の東側に建てられている。すでに愛用の剣を手にした若者たちが次々に集っていた。
「フェリク! 早く、早く! 始まっちゃうわ!」
「先に行けばいいのに……」
ディナとともに剣道場に入って行くと、何度も改築と修繕を重ねて受け継がれてきた建物の中には、すでにウォルズとルーイの姿があった。村の若者たちも集まり、気力充分な表情だ。
ウォルズの父である剣道場デュヴァルが軽く手を叩いた。
「集まりましたね。みな、稽古を始める前にしっかり準備運動をすること。稽古で怪我をしては元も子もないですからね」
はーい、と元気な返事をして、子どもたちはそれぞれ準備体操を始める。剣の稽古を始める前には必要な時間だった。
ディナは幼い頃からラエティティアの王宮に仕える騎士を目指しているようだった。そのため毎日の稽古には熱心で、デュヴァル道場長の言いつけを破ったことはない。いつもふざけてばかりのウォルズとルーイも、稽古のときは真面目だった。
準備体操を終えると、子どもたちはそれぞれ木刀を手に基本的な練習を始める。習いたての子どもは、まだ真剣を持つことは許されていない。デュヴァル道場長の言う通り、稽古で怪我をしては元も子もないのだ。
「フェリク! 俺と勝負だ!」
練習用の木刀を振りかざしてウォルズが意気揚々と言うので、フェリクは不満に眉をひそめた。
「勝手なことしたらまずいって……」
「なに言ってんだ! 俺たち上級生は、基礎練習より実戦を積むべきだ! なっ、親父!」
「稽古中は先生と呼びなさい」
穏やかな口調でそう言って、デュヴァル道場長は木刀で軽くウォルズの頭を小突いた。いてえー、とウォルズは不満そうに頭を撫でる。フェリクはいつも、この穏やかなデュヴァルと荒々しいウォルズが実の親子であることが不思議でならない。
「今日こそ、どっちが強いかはっきりさせてやるぜ!」
「フェリクに怪我をさせるのではありませんよ」
止めることはしないらしいデュヴァルに、穏やかすぎるのも問題か、とフェリクは心の中で独り言つ。フェリクとウォルズの模擬試合は決定してしまったようだ。
「フェリク、頑張ってね」
道場の中心にある試合場に上がるフェリクに、ディナがそう声をかける。フェリクはあまり気が進まず、軽く肩をすくめた。
「試合前にだらけちゃ駄目よ! しゃんとして!」
それぞれ基礎練習をしていた子どもたちが、フェリクとウォルズが試合場に上がるのに気付くとその手を止める。まだ模擬試合の許されない子どもたちは、上級生の模擬試合に興味津々だった。模擬試合は下級生たちへの良い手本にもなる。デュヴァル道場長は模擬試合の開催に積極的だった。
模擬試合の立会人は副道場長のリルベだ。女剣士であるリルベは凛々しく、ディナの憧れの人でもある。
「相手の木刀を弾いたほうが勝ちだ」リルベが言う。「木刀が弾かれても床に着かなければセーフだから、空中で拾うように」
「よっしゃあ!」
「ああ、ウォルズ」リルベが続ける。「相手に怪我をさせるような攻撃をしたら反則負けだからな」
「なんで俺だけに言うんだよ!」
「フェリクが反則なんてするわけないじゃない」
試合場の外から言うディナに、ウォルズは悔しそうに顔をしかめた。ウォルズはいつも乱暴だが、模擬試合になると真剣に取り組むことはフェリクも知っている。反則行為をしないことは、ディナもわかっていることだろう。それでも釘を差されてしまうのは、ウォルズの荒々しい性格のためだ。
「では、始め!」
リルベが甲高く笛を吹き、模擬試合は開始された。
フェリクは息を吐き、真っ直ぐにウォルズを見据えた。木刀を持つ左側の脇は空けず、それでいて締めすぎない体勢を取る。ウォルズは緊張するときの悪い癖で、脇を締めすぎることがよくあった。それも日々の鍛錬の成果か、今日は基礎で教え込まれた通りの姿勢を取っている。
しばらく、しん、と耳の奥を冷たく鳴らすような沈黙が続く。
先に動いたのはウォルズだった。大きく踏み出した一歩で、フェリクの手元を目掛けて木刀を突き出す。フェリクは横に跳躍してそれを避け、ウォルズの脇から木刀を振り上げた。ウォルズは横持ちにした木刀で軽々とそれを受け止める。フェリクはその勢いのまま、ウォルズの木刀に足を付いて跳躍し、距離を置いた場所に移動する。下級生たちが感嘆を漏らした。
「いまのは反則じゃねえのかよ!」
不満げに言うウォルズに対し、リルベは冷静に肩をすくめる。
「攻撃じゃないだろう。あんたのお手々は痛かったかな?」
「ちぇっ、馬鹿にしやがって」
ウォルズは唇を突き出すが、すぐにまた真剣な表情になった。
今度はフェリクが先に動き出した。ウォルズの手元を目掛けて木刀を振り上げるが、それも簡単に受け止められてしまう。
(力じゃ敵わない……)
それは、フェリクがいつも痛感していることだった。
剣道場の長男であるウォルズは、ディナに「無駄」と言わしめるほど身体を鍛えている。フェリクもある程度の力はあるが、どうしてもウォルズには敵わなかった。
フェリクが身を翻してウォルズの脇へ回り、ウォルズが身構える前に木刀を振り上げる。ウォルズはサッと身を躱してその一撃を避けた。それから、振り上げたままのフェリクの手元に木刀を叩き込んだ。体勢の整っていなかったフェリクは、柄に一撃を食らった衝撃で木刀を手放してしまう。
「もらった!」
ウォルズがにやりと笑った。まだだ、とフェリクは体勢を持ち直す。木刀の着地視点に滑り込み、床に落下する直前、大きく蹴り上げた。再び宙に舞った木刀をしっかり受け止めた。
ひゅう、とリルベが口笛を吹く。観戦する子どもたちも、興奮して声を上げた。
「そんなのアリかよ!」
「床に着かなければセーフだって言っただろう?」リルベが言う。「それに、本当に魔物と戦うことになってしまったとき、そんなことは言っていられないからね」
「くっそお……!」
ウォルズは眉をつり上げると、再びフェリクに向けて木刀を振り上げた。完全に冷静さを欠いている。フェリクはそれを見逃さず、身を捻って攻撃を避け、そのままの勢いでウォルズの手元に木刀を叩き込んだ。かつん、と高い音を立ててウォルズの手から木刀が離れ、そのまま床へ落ちていった。
「勝負あり!」リルベが笛を吹く。「フェリクの勝ち!」
わっ、と子どもたちが歓声を上げる。フェリクは膝に手をつき、荒れる呼吸を肩で整えた。
「く、っそおおおお!」
ウォルズは雄叫びを上げると、そのまま剣道場を飛び出して行ってしまう。ルーイが慌てふためきながらそれを追う。その様子を、子どもたちは楽しそうに笑いながら眺めていた。
試合場を降りて汗を拭ったフェリクに、ディナが駆け寄る。
「さすがね、フェリク!」
「ぎりぎりだったよ……」フェリクは苦笑いを浮かべる。「確実にウォルズも強くなってる。危なかったよ」
リルベがふたりに歩み寄り、ポニーテールの黒髪を払った。
「確かに、お前たちは確実に強くなっている。けれど、まだまだ隙だらけだ。実戦に出る日は遠いな」
「はい……」
「しかし、お前のその才能を活かさないのはもったいない。お前もディナと一緒に騎士を目指したらいいのにな」
「はは……僕は牧童で充分ですよ」
フェリクがそう言うと、ディナはいつも不満げな顔になる。しかし、同じ道を無理やり推して来ることはなかった。
* * *
稽古はいつも、二時間程度で終わる。模擬試合のあと、ウォルズはいつも以上に稽古に力が入っており、その相手をしているルーイの悲鳴が、何度も剣道場の中に響き渡っていた。
稽古が終わってひと段落つくと、ディナがフェリクに言う。
「フェリク、家に戻って休んだら、また牧場に来てくれる? 山羊追いをお願いするわ」
「わかった、い――」
「ディナ!」
駆け寄って来たウォルズがまたフェリクを突き飛ばそうとしていたので、フェリクはサッと身を翻してそれを躱す。ウォルズは忌々しくフェリクを睨み付けるが、すぐディナに向き直る。
「山羊追いくらい、俺がやってやるぜ!」
「ウォルズの乗馬じゃ山羊追いは無理よ」
さらりと言ったディナの言葉に、ウォルズは暗い表情になって肩を落とす。ウォルズは子どもの頃から乗馬の才能がなく、与えられた馬を乗りこなすことがいまだにできていない。フェリクは、ウォルズの荒々しい性格を馬が感じ取っているのだと考えているが、それがウォルズの弱点でもあった。
「ウォルズさんにだって、ウォルズさんにしかできないことがありますよ!」ルーイが慌てて言う。「ほ、ほら! フェリクより力持ちですし……!」
「そ、そうよ」ディナも困ったように言った。「重い物を持ってくれるのは、いつも助かってるわ」
「……本当か、ディナ……」
「ええ、とても。馬に乗れなくても、ウォルズにはその力持ちの立派な腕があるわ」
励ますように笑みを浮かべて言ったディナに、落ち込んでいたウォルズの瞳がようやく輝きを取り戻す。自慢の金髪をかき上げ、腰に手を当てて胸を張った。
「聞いたか、フェリク! お前より俺のほうが役に立って……あれ?」
「フェリクのやつ、いませんね……」
「フェリクならとっくに帰ったわよ」
「…………」
「…………」
* * *
フェリクの牧場での仕事は、ルークスで山羊追いをすることで終わる。山羊をルークスで追い立て、小屋の中へ戻すのだ。一頭も残らず牧草地が空になると、牧場の一日は締められた。
「今日もありがとう、フェリク。よく休んでね」
「うん。また明日」
ディナに見送られて牧場を出ると、フェリクはいつもルークスとともに村の外に向かう。それがフェリクの日課のひとつだ。
村を出て森を抜けると、小高くなった丘がある。魔物を出るから控えろと父には言われているが、この丘はフェリクの気に入りの場所だった。丘の頂上に上がると、ラエティティアの平原が一望でき、その向こうに荘厳な王宮が見える。これだけ離れていても見えるのだから、王都で人間は蟻も同然だろう。
ディナが騎士を目指しているのは、ラエティティアの都会への憧れもあるようだった。ウォルズの話では、デュヴァル道場長は若い頃には王宮で騎士を務めていたらしい。ディナは、幼い頃からウォルズにその話をよく聞かされていた。それはフェリクも同じことだったが、騎士への憧れなど懐いたこともなかった。村で平凡な暮らしをするのが一番だと考えている。
「村が一番だよな、ルークス」
頬を撫でてやったフェリクにルークスが鼻先を摺り寄せたそのとき、フェリクは不意に、視線のようなものを感じて振り向いた。しかし、フェリクのもとには森の動物たちが集まって来るだけで、鋭い視線を発するような者はない。
「…………」
嫌な感覚だった。何かが背筋を寒くさせる。魔物が接近している様子もないが、ここに居てはならない。そう思わせる風が吹いている。フェリクはルークスに跨り、辺りを警戒しながらゆっくり歩き出した。早めに村へ戻ったほうがいいようだ。