【30】生きるということ
ルークスに跨り、平原を走る。見渡すほどの緑。かつてムルタが渇望していた豊かな大地。まるで呪いのような星屑が、滅びの運命にあったムルタを蘇らせた。もしあの戦いで種が失われれば、ラエティティアもムルタも滅びていたのだろう。ラエティティアを脅威から救い、ムルタの滅びを回避した。そしてこの宝玉が自分の命を維持していること。どうあっても、フェリクは種を捨てられないのだ。
遠くに見えるラエティティアを眺める。魔物の襲撃から、いまも忙しく復興が行われていることだろう。
「そんなにラエティティアが気になるか?」
不意に聞こえた声に振り向く。アンブラがゆったりと歩み寄って来た。
「一応、自分の故郷だし……」
「まあそれはいいけど、こんなところで無防備に突っ立ってると、世界王の手下が攫いに来るぜ」
フェリクは世界王に狙われていることに現実味を感じていなかった。しかし先日、ラエティティアを襲撃したのは世界王の遣いであった。ようやく実感を持てたような気がした。
「そうであっても、もう僕は負けないよ」
そっと左の目元に触れる。ただ忌々しいだけだったもの。憎んでいたし、恨んでいた。それでも、捨てられなかった。だが、それもいまは意味がある。
「その決意は認めるが、陛下が仕事に手が付かなくなってるからさっさと町に戻れ」
「……わかってるけど……」
フェリクは俯く。この顔が赤くなる理由を、アンブラはすでに勘付いていることだろう。
「お前はいつまで初心なんだよ」
「影のアンブラにはわからないよ!」
「あ、言いやがったな」
アンブラは眉をひそめる。これはただの八つ当たりのようなもので、フェリクもそれは自覚している。アンブラに当たったところでどうにもならないのだ。
爽やかな風が吹き抜ける。かつて砂の舞う絶望の大地であったムルタを祝福するように。
「フォルトゥナ姫に忘れられた僕は、もう生きる価値がないって思ってた」
フェリクは静かに言う。誰にも打ち明けることなく、胸の奥で燻っていた気持ち。
「あの苦しい戦いがなかったことになって、僕が戦った意味もなくなって。それでも宝玉は宿ったままで、いまは宝玉に生かされてる」
宝玉が消えればこの命は失われると、レフレクシオから聞かされた。宝玉はいまやフェリクの命を握っている。いくら恨んでいようと、憎んでいようと、この宝玉から解放される日は最期の瞬間まであり得ないのだ。
「死ぬことなんて、怖くないと思ってた。でも初めて、死にたくないって思った。レフレクシオ卿が、僕の命に価値を与えてくれた」
もしあのままラエティティアに留まっていれば、この価値を得ることはできなかったかもしれない。ラエティティアはフェリクを憶えていない。その苦しみにも意味はなかっただろう。
「生きるって、そういうことだよね」
「影の俺にはわからないけどな」
アンブラが目を細めて言うので、根に持たないでよ、とフェリクは苦笑する。
「そう思うなら逃げ回るのをやめろよな。いちいち探しに来るこっちの身にもなれ」
「それとこれとは話が別なんだよ」
頭ではわかっていても、心まで納得してくれるとは限らない。心というものは厄介なものである。
「あれだけ夜をともにしておきながらよく言うぜ」
呆れた声で言うアンブラに、フェリクはまた耳まで熱くなった。
「影のアンブラにはわからないよ!」
「また言いやがったな」
自分に呆れていたフェリクは、不意に鐙から足を踏み外してバランスを崩した。ルークスの背中から滑り落ちるフェリクを、アンブラが慌てて受け止める。ルークスが少し驚いたようにいなないた。
「小僧」
アンブラの手で体勢を取り直していたフェリクは、その声にぎくりとしつつ振り向く。相変わらず護衛を伴わず強者の風格を醸し出しているレフレクシオが、目を細めつつふたりに歩み寄った。レフレクシオはそのまま、引き摺るようにしてフェリクをアンブラから引き離す。
「ルークスは任せたぞ、アンブラ」
「はーい」
アンブラが手綱を引くと、ルークスは大人しくそれに従う。あんなに気難しいと言われていたルークスが、フェリク以外の者に手を引かれて素直について行くのだ。
「アンブラ! 見捨てないで!」
「影の俺にはわからねえよ」
「根に持たないで!」
揶揄うようににやにやと笑いながらアンブラは去って行く。恨めしくその後ろ姿を見送ったフェリクを、レフレクシオが担ぎ上げた。レフレクシオはそのまま町へ戻る道に向かう。
「自分で歩きます」
「また逃げ出されても敵わん」
レフレクシオは不敵に微笑んでいる。フェリクは顔が熱くなるのを誤魔化すように、その肩に顔を埋めた。
「もう逃げたりなんてしません」
「現に逃げていたではないか」
「……ルークスを走らせたかっただけです」
「そういうことにしておこう」
レフレクシオの余裕の笑みが悔しいが、フェリクにはもう逃げ場がない。逃げ場など、初めからなかったのだ。
「……僕は、生きていてもいいんですよね」
「言ったであろう。私の横がお前の居場所だと」
「……はい」
この大きな手に導かれていれば、もう道を見失うことはない。星屑が消え失せることはない。もう、自分を見損なわずに済む。
そう実感していたフェリクだが、それで、とレフレクシオの声色が変わるので身を固めた。
「先ほどのあれはどういうことか」
「いや、あれは……ただ足を滑らせただけで……」
「あとでゆっくり聞かせてもらおう」
この腕の中に、逃げ場などすでにないのだ。
風に乗って舞う砂のひと粒になる日を待っていたこの命。ただ消え失せることだけを願っていた星屑は、いずれ散開星団に溶ける。そのときまで、この生は終わらない。きっと、終わらせてもらえないのだろう。輝きの中を生きている。自分の魂が蘇らせたムルタとともに。この命が続く限り、光が失われることはない。もう泣く必要はない。何も恨まず、憎まず、嫌う必要もない。拾われた命を全うするまで、ただ、希望の灯る美しい世界で生きていく。
これにて第1部完結です!
近々、第2部を公開していきます。
同人誌化計画が進行中ですので、そちらもよろしくお願いいたします。
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