【29】死ぬのが怖いだなんて
頭の中で警鐘が響くような感覚で目を覚ます。嫌な予感に窓の外を覗くと、遠くのラエティティアが真っ赤に染まっていた。火の手が上がっている。フェリクは咄嗟に着替え、愛用の剣と弓を腰に装着した。それから左の目元に触れる。ラエティティアが危機に瀕している。
宝玉によってラエティティアの王都に転移すると、魔物に襲われる人々の姿が見えた。王都は魔物の襲撃を受けたのだ。
(どうして急に魔物が……)
近くで悲鳴が上がる。民に襲い掛かるゴブリンに、フェリクは愛用の剣を叩き込んだ。フェリクが背中を押すと、民は一目散に逃げている。だが、街の中はすでに魔物が溢れており、どこに避難するかはフェリクにもわからなかった。
魔物の襲撃は、どこかに元凶がいるはず。フェリクはまた左の目元に触れた。
(元凶のところに……!)
一瞬にして転移したその場所は、王宮の広いエントランス。そこに、見上げるほど大きな獣の背中が見えた。その姿に、フェリクは愕然とする。
「……どうして……」
* * *
部屋の外が騒がしくなるのでレフレクシオは目を覚ます。それと同時に、ドアが激しくノックされた。返事を待たすに兵が転がり込んで来る。
「失礼します! お休みのところ申し訳ありません!」
「何があった」
「ラエティティアが魔物の襲撃を受けています! それと……」
兵は息を切らせ、嫌な予感をさせる焦燥感に駆られた表情をしていた。
「フェリク殿の姿がありません!」
レフレクシオは意識をフェリクの魔力回路に繋げる。随分と離れた場所を検知した。フェリクはいち早く目を覚まし、ラエティティアに飛んだのだ。アンブラはすでに城を発っている。フェリクを追いかけて行ったのだろう。
なんて情けない、とレフレクシオは顔をしかめた。これほど離れているのに気付かなかったとは。
「すぐラエティティアに向かう」
「はっ!」
フェリクのことだ。身を呈してラエティティアの民を守ることだろう。かつて勇者だった小さき少年。ともすれば、自分の命を懸けることすら厭わないだろう。
* * *
獣の威圧に吹き飛ばされ、フェリクは柱にしたたか体を打ちつける。この小さな体では、獣の圧倒的な力に勝つことはできない。
獣の巨大な手がフェリクを掴み上げる。かつての敵を思い起こさせる獣は、低い声で笑い声を立てた。
「殺しはせん。世界王陛下は宝玉の勇者を望んでおられる」
「なら、どうしてラエティティアを……」
肺が圧迫され、言葉を発することだけで精一杯なフェリクの問いに、獣はにやりと口端をつり上げる。
「さあな。ただの余興だろう。貴様らは世界王陛下には抗えないのだ」
「フェリク!」
悲痛な声が呼ぶ。エリオの背に庇われながら、フォルトゥナが階下を見下ろしていた。
「あの小娘を屠れば、世界王もさぞお喜びになられるだろう」
獣は喉の奥でくつくつと笑う。世界王ともなれば、フォルトゥナがかつて光の巫女であったことも知っているだろう。
フェリクは浅い呼吸を繰り返しつつ、左の目元に触れる。
(こんなつまらないもののために……)
確かな意志を宿し、左目に意識を集中した。
(後生大事に取っておいてやったんだ。今度こそ、僕の役に立て!)
その瞬間、獣の腕を黒い炎が包み込む。獣が声を上げ、フェリクは床に放り出される。獣の腕は完全に燃え上がり、焼き尽くされて灰と化した。
獣を見据え剣を構えたとき、フェリクは何かこみ上げて来るものを感じ吐き出した。それを受け止めた右手が真っ赤に染まる。体から力が失われていくのがわかる。
宝玉は運命をやり直したことで完全な形となってフェリクの体に宿った。その力は欠片だけ宿していた勇者のときより増幅している。この体は、その負荷に耐えられないのだ。
燃え尽きた腕などすでにどうでもいいように、獣が高らかに笑う。
「勇者でなくなった貴様に、宝玉の力は使いこなせぬだろうて」
血に塗れた右手が震える。それは体中に広がり、左手に伝染した。
(ああ……そんな……)
心の中で呟く。
(いまさらになって、死ぬのが怖いだなんて……)
解放されることを願っていた。例えその代わりに命を失ったとしても。だから怖くなどなかった。こんな気持ちは捨てていた。それがいま、覆されたのだ。
「フェリク!」
フォルトゥナが呼ぶ。自分のことを憶えていないフォルトゥナ。いまは、そんなことは関係ない。
(こんなところで死んでたまるか……僕は……!)
再び剣を構えたとき、ふと背後に気配を感じた。それと同時に、左目を温かな手が覆う。
「目を閉じろ」それはアンブラの声だった。「こんなところでくたばられちゃ困るんだ」
獣が声を上げる。残された右目で見上げると、ミリアが宙で拳を振り上げている。獣の左目を短剣が貫いていた。
「大当たり!」
肩で息を整えるフェリクの前に、大きな影が現れる。ムルタの独特の模様が施されたローブが目の前を覆う。
「愚かな遣いよ。世界王に伝えろ」
低い声でレフレクシオが言った。その後ろ姿に、フェリクの荒れていた心が落ち着きを取り戻すようだった。
「宝玉の勇者は私のものだ」
「抜かせ」獣が高らかに笑う。「ただの人間となった貴様に何ができる」
獣に背を向け、レフレクシオがフェリクを振り向いた。
「お前の祝福を私に与えろ」
フェリクは身を屈めたレフレクシオの肩に手を添える。そして自然と、唇を重ねた。
と、と地を蹴ったアンブラが剣を手にする。柱を蹴って勢いをつけ、獣の左腕に斬りかかった。威力が数倍に増した鋭い切っ先が、獣の左腕を肩から落とす。アンブラは挑発するような笑みを浮かべた。
「残念だったな。宝玉の勇者の祝福は俺たちのもののようだ」
浅い呼吸を繰り返すフェリクを背に、レフレクシオが宙に手をかざした。その手に、レフレクシオの身長と並ぶほど巨大な剣が現れる。ゆっくりと抜かれた剣は、黒い炎に包まれていた。
「愚かな……世界王陛下を敵に回して、貴様らは無事では済まんぞ」
「受けて立とう」
レフレクシオの体が一瞬にして獣の背後に滑り込んだ。それと同時に、獣の体が一刀両断される。
「世界王。貴様の寵児は私が貰い受ける」
獣は断末魔を上げ、黒い炎に包まれる。それが灰となって散って行く中、フェリクは意識を手放した。
……――
目を覚ますと、かつて夢で見たような暗闇の中に佇んでいた。あのまま死んでしまったのだろうか、と辺りを見回す。そうしていると、不意に背後に気配を感じた。振り向いた先にいたのは、白いヴェールを被ったフォルトゥナだった。
「運命の勇者……いいえ、フェリク」
フォルトゥナは美しく微笑む。それはフェリクの知るフォルトゥナだった。
「ありがとう。ラエティティアはあなたのおかげで生き延びた。過去も、現在も」
フォルトゥナの手がフェリクの左の目元にそっと触れる。その手は温かかった。
「フェリキタス。あなたの足枷は、すべて私が貰い受けます」
その瞬間、ふと体が軽くなる。すべての憂いが失せたように、重苦しさが消えた。
「何にも縛られない、あなたの、あなただけの生を」
朗々と歌うように、フォルトゥナは笑みを深める。
「あなたは愛されるために生まれたのです」
フォルトゥナの姿が泡となって消える。フェリクは軽くなった体を確かめるように、静かに目を閉じた。
……――
再び目を開くと、窓の外から夕陽が射し込んでいる。フェリクが横たわるベッドのそばで、大きな影が覗き込んでいた。フェリクの目覚めに気付いたレフレクシオは、優しくフェリクの頬を撫でる。その表情が安堵に少しだけ緩んだ。
「……初めて、死ぬのが怖くなりました」
フェリクは、自分の手をレフレクシオの大きな手に重ねる。
「レフレクシオ、僕はまだ生きていたい」
忘れていた感情に、涙が溢れ出した。捨てたと思っていた心が、そう叫んでいる。
「まだあなたに何も伝えていない」
レフレクシオはフェリクの左の目元をそっと撫で、優しく口付けを落とす。
この心はいま、満ち足りた。そんな気がした。
……――
小さな種を握り締める。完全に取り除いてやることはできない。それでも、この身には呪いを引き受けるだけの力はまだ残されている。
「大丈夫。私たちにも、幸せになる権利があるの」
誰にでもなく呟く。この声が届く者はない。
「もう、泣かなくていいのよ」
ただ美しい景色の中に居ればいい。そして、自分の幸福を祈るだけでいい。ただ、それだけのために。
「なんだ、こんなところにいたのか」
呆れたような声に振り向く。左手を握り締めたまま振り向き、穏やかに微笑んで見せた。
「待たせてしまいましたか?」
「まあそれはいいが、そんなに呪いを溜め込むと、きみがどうなるかわからないぞ」
「いいのです。私にできることは、もうこれだけしかないのです」
左手の中に納まる光を眺める。これはもう、不要なものだ。
「生きた分だけ引き受ける。それが、私の使命なんですから」
「人が好いにもほどがあるな」
呆れたような笑みになりつつ、それはいいが、と肩をすくめる。
「早くいかないと、彼女は待てができないようだ」
「ええ。いきましょう」
もうこの場に居る必要はない。それぞれに相応しい場所がある。
「やれやれ。きみは相変わらず美しいな。救済の女神様」




