【28】胸の傷
朝食の席。レフレクシオが重々しく言った。
「小僧。お前には悪い報せだ」
レフレクシオはあくまで冷静だが、嫌な予感をさせる言葉にフェリクはミリアと顔を見合わせる。
「近日中にラエティティアの国王が視察に来る」
「つまり」と、ミリア。「フォルトゥナ姫も一緒に来るってことなのかい?」
「そうだ」
なるほど自分にとっては悪い報せの類いだ、とフェリクは考える。フォルトゥナはフェリクがラエティティアの王都を離れた理由のひとつ。フォルトゥナに会うことで、フェリクは胸の奥で燻っているものが刺激されるかもしれない。
「そうですか……」
フェリクがぼんやりと呟くと、ミリアが眉をつりあげる。
「そうですかって……あんたはいいのかい?」
「ムルタとラエティティアが同盟を結ぶのは良いことだと思う。僕がフォルトゥナ姫と会うことは、それに比べたら些末なことだよ」
ミリアは気遣わしげにフェリクを見つめる。フェリクは曖昧に微笑んで見せた。
(大丈夫。きっと、ちゃんと笑える)
自分に言い聞かせるように心の中で独り言つ。自分の心がムルタに癒されたことは自覚している。フォルトゥナの記憶から自分が消えた事実は、いまだ心の奥底に眠っている。フォルトゥナと会うことでその感情がどう動くのかはわからない。だが、ただそれだけのためにフェリクがムルタとラエティティアの同盟を妨げることはできなかった。
* * *
気持ちの良い快晴のもと、フェリクはミリアとアンブラとともに屋上から町を見下ろした。これからラエティティアの視察団がムルタを訪れる。フェリクはミリアとアンブラとともにしばらく屋上にいるようレフレクシオに言い付けられていた。
「来なすったようだよ」
眼下を見遣ってミリアが言う。城の門に続く階段を見下ろすと、立派なローブに身を包んだ男性が城の使用人に馬を預けているところだった。それを出迎えるように、レフレクシオがイゼベルと数名の使用人を伴って城から出て来る。視察団の中にフォルトゥナとエリオの姿があった。何かを感じ取ったように、フォルトゥナが頭上に視線を遣る。屋上から眺めるフェリクに気付き、軽く手を振った。
「……フェリク」
ミリアが小さく呼ぶ。フェリクは心配させまいと微笑んで見せた。
「大丈夫。いまの僕なら、大丈夫だよ」
フェリクはそう応えることで精一杯だった。
* * *
ラエティティア国王と側近たちが視察で町を回ることになると、フォルトゥナとエリオはフェリクのもとを訪れた。フォルトゥナはフェリクに会うために国王に付いて来たのだ。
フォルトゥナはフェリクとの再会を喜び、彼の手を取る。
「お会いできて嬉しいです、フェリク。ここでの暮らしのお話を聞かせてください」
「はい。お茶を用意しています。こちらにどうぞ」
フェリクは努めて笑みを浮かべて言う。フェリクはレフレクシオに、フォルトゥナをリビングに案内するよう言われている。それにはもちろん、ミリアとアンブラも同行する。フェリクの胸の傷が開かないよう、注意深く監視するのだ。
リビングにお茶が用意され、フォルトゥナはフェリクの向かいのソファに腰を下ろす。ひとり掛けソファにはエリオが腰掛け、ミリアとアンブラはフェリクを挟む形でソファに腰を下ろした。
「先日は手紙の返事をいただけてとても嬉しかったです」
フォルトゥナは無邪気に笑う。運命を覆す前のフォルトゥナを、フェリクは忘れることができない。その笑顔は、フェリクの胸の奥を苦しくさせた。
「エリオから話を聞いて、どうしても会いたかったので、無理を言って付いて来たんです」
「ご心配をおかけしてしまいましたか?」
「ムルタは良い国です。ですが、フェリクが受け入れられているかどうかは少し心配しました」
ムルタからは遠くにラエティティアの王宮が見えるが、ラエティティアからムルタは見えない。ラエティティアにとって、ムルタは遠い異国の地だ。
「よくしてもらっています。僕にはもったいないくらいです」
「それを聞いて安心しました。フェリクには幸せになってほしいですから」
ずきん、と胸の奥が音を立てるのがわかる。忘れていたはずのもの。閉じたと思っていた深い傷跡。
このフォルトゥナは、自分に微笑みかけてくれたフォルトゥナとは違う。その事実を突き付けられているようだった。
――ああ、なんて残酷なんだ。
それでもフェリクは微笑まなければならない。それがフェリクに課された運命なのだ。
* * *
フォルトゥナと話すフェリクの笑みは、いつものものではない。それはミリアだけでなく、アンブラもわかっていることだろう。フォルトゥナはフェリクの微妙な表情に気付いていない。フェリクとの再会を純粋に喜んでいた。
(何が“いまの僕なら大丈夫”だよ)
ミリアは心の中で独り言つ。フェリクはそう言って微笑んでいたが、その言葉が心と裏腹であることはミリアにもわかった。
(大丈夫な人間は、そんなふうには笑わないんだよ。それに……)
ミリアはフェリクの左手に目を遣る。先日、レフレクシオから贈られた指輪は、その姿を消していた。
(大丈夫なら、どうして外したんだい)
その問いを口にすることは許されない。フェリクは充分に傷付いた。その傷口をわざわざ開かせる必要はない。ミリアは、黙っていることしかできなかった。
* * *
フォルトゥナはフェリクからムルタでの暮らしの話を聞くことを喜んだ。ミリアとアンブラは口を挟まなかったが、その心中は穏やかなものではないだろう。エリオも時折、気遣わしげな視線をフェリクに遣る。彼らはフェリクの苦しみを知っているのだ。
国王の視察はそう時間がかからず、陽が傾き始める頃には帰国の準備を終えていた。
別れ際、フォルトゥナはまたフェリクの手を握り締めた。
「機会があったら帰って来てください。あなたもお父様も心配しています。帰って来たときには、またお話を聞かせてください」
「はい。どうかお元気で」
「はい。フェリクも」
フォルトゥナは名残惜しそうにしながらも、視察団に付いて去って行く。最後に手を振ったフォルトゥナを見送ると、その背中が見えなくなるよりも早く、フェリクはその場を立ち去った。これ以上、その姿を見ていることができなかった。
* * *
その夜。フェリクはバルコニーで町を見下ろした。かつてラエティティアの繁栄の裏で貧困と病に苦しんでいたムルタ。その姿を知っているフェリクにとって、ムルタが生きていることが救いだった。
「小僧」
穏やかな声が呼び掛ける。バルコニーに出て来たレフレクシオは、隣に並んでフェリクの肩を抱いた。その手の温もりは、フェリクを慰めるようだった。
「……フォルトゥナ姫が僕を憶えていないと気付いたとき、胸の奥が痛かったです」
見えないように誤魔化していただけのものが剥がれ落ちる。本当はずっと見えていたのかもしれない。ただ、目を逸らしていただけ。
「本当は、忘れてほしくなかった……。僕は、フォルトゥナ姫のために……」
どうしようもなく声が震える。
捨てたと思っていた感情。だが、事実は捨てられない。
「フォルトゥナはもうお前のそばにはいない」
俯くフェリクの腕を引き、レフレクシオは軽々とフェリクを抱き上げた。
「フォルトゥナのことを考える隙もないくらいに私が愛してやると言っただろう」
突き付けられた事実を覆すことはできない。それでも、この腕の中にいれば見る必要はなくなる。フェリクはただ、その肩にしがみついていた。
* * *
腕の中で健やかに眠る少年は、すべての憂いを忘れたように穏やかな寝顔をしている。それが叶わぬことだとしても、せめて綺麗な夢を見ているといい。
あの戦いが、フェリクの心を壊した。それはどうあっても覆らない事実だ。
――すべて無駄なこと。
凛とした声に振り向く。白いヴェールを纏ったフォルトゥナ姫が、強い意志を湛えた瞳で真っ直ぐにこちらを見ている。
『あなたは勇者に敗れる。それがあなたの運命です』
『さすが運命を変えた姫だけある』
鼻で笑う魔王にも、フォルトゥナの瞳は曇らない。
『せいぜい、貴様が運命を捻じ曲げた者たちから恨まれる覚悟をしておくことだ』
『そんなこと、とっくに……』
フォルトゥナは清濁併せ呑むことを受け入れていた。管理人の目を欺き、聖地に足を踏み入れたフォルトゥナは世界樹の種に触れた。それにより宝玉は散り散りになり、フェリクとレフレクシオに宿った。そうして戦いは始まったのだ。
(力なき愚かな姫よ。貴様が小僧を忘れることも運命だったと言うのか)
その言葉はすでに届かない。もはや意味を成さない。フォルトゥナはすべて忘れてしまった。飲み込んだ覚悟とともに。




