【27】脱兎
昨夜のことについて、フェリクは複雑な表情をしているだろう。そう想像しながらレフレクシオがダイニングに入って行くと、ミリアの右隣の席は空いていた。
「小僧はどうした」
おはようの挨拶のあと問いかけたレフレクシオに、ミリアは頬杖をつく。
「もう朝食を済ませて出たらしいよ」
そう言って、ミリアが悪戯っぽくにやりと笑った。
「王様、あんた、フェリクに嫌われたんじゃないだろうね」
ミリアはすでに、フェリクと会っているのだろう。そのときのフェリクの表情は想像に易い。ミリアはなぜフェリクがそういった態度でいたかを察しているのだ。
溜め息を落とすレフレクシオに、ミリアは意地の悪い笑みを浮かべている。それがただ面白がっているだけではないということは、レフレクシオにもわかっていた。
* * *
ルークスに跨って平原を走っていると、頬を撫でる風が冷静さを取り戻させようとしているようだった。
丘を上がり、遠くに見えるラエティティアの王宮を眺める。手綱を外して尻を叩くと、ルークスは意気揚々と平原に走って行った。かつてムルタが求めていた緑の海を見渡していても、どうしても頭の中には昨夜のことが思い出される。心地良い風も顔の熱を奪ってはくれないようだった。
「まさか、ラエティティアまで逃げようってんじゃねえだろうな」
不意に聞こえた声に、フェリクは驚きつつ振り向く。アンブラが影から出て来るところだった。
「いまさらラエティティアに戻るつもりなんてないよ。ないけど……」
アンブラが探しに来たのは、レフレクシオに命じられてのことなのだろう。レフレクシオはフェリクがなぜ城から離れているかを把握している。そう考えると、また顔の熱が上がるようだった。
「ちょっと頭を冷やして来る!」
「待て待て」
左目に伸ばされたフェリクの左手をアンブラが押さえる。星屑による転移は触れることでしか発動しない。左手を封じられれば転移は叶わないのだ。
「というか、宝玉の転移って水の中だけじゃないんだろ」
「何も考えずに触れると水の中になるよ」
「つまりラエティティアの実家を指定することもできるのな」
「できると思う。たまには里帰りもいいかな……」
遠い目になるフェリクに、アンブラは呆れたように溜め息を落としつつフェリクの左手を放す。
「ラエティティアに戻るつもりはないんだろ」
「ないけど……」
フェリクは口ごもる。なんと答えたらいいものかわからなかった。
「逃げ回ってもしょうがないぜ。どこにいたって――」
「小僧」
アンブラに続いて聞こえた声に、フェリクはサッと左目に触れる。一瞬にしてルークスのそばに転移したフェリクを、レフレクシオが目を細めて呆れた表情で見遣った。
「そんなことで宝玉の力を使いこなしてどうする」
「陛下、嫌われてるじゃないっスか」
アンブラが意地の悪い笑みを浮かべる。レフレクシオは重い溜め息を落とした。
「お前を世界王にやるつもりはない。お前は私の嫁になるのだ」
レフレクシオの言葉に、フェリクは唖然とする。
「まさか、そのために僕をムルタに……」
「気付いてなかったのはお前だけだぜ」
アンブラまで呆れて言う中、フェリクはルークスに跨った。
「実家に帰らせていただきます」
ルークスは主人の意思を汲み取り、レフレクシオとアンブラに背を向ける。すると、一瞬にしてアンブラがその行く手を塞いだ。
「まあ待てよ。そんなに嫌がることないだろ」
「別に嫌がってるわけでは……」
「へえ、嫌なわけではないのか」
アンブラが悪戯っぽい笑みを浮かべるので、フェリクは悔しい気持ちになって顔をしかめる。
「そう虐めてやるな」レフレクシオが言う。「また宝玉の力を使われても敵わん」
アンブラが肩をすくめているうちにレフレクシオが歩み寄り、フェリクの脇に手を差し込む。引き摺るようにルークスから降ろすと、アンブラがルークスの手綱を引いた。
「じゃあ、俺たちは先に戻ってるんで」
気難しくて他人になかなか懐かないはずのルークスが、アンブラとともにフェリクに背を向ける。
「ルークス! 僕を見捨てるのか!」
「ルークスだってご主人様が幸せなほうがいいよな」
その通り、と言うようにルークスは鼻を鳴らす。賢いのも考えものだ、とフェリクは溜め息を落とした。
左手を押さえたまま、レフレクシオはフェリクを下ろす。レフレクシオの手の力にフェリクが敵うはずはない。
「逃げ場がなくなったな」
「いつも逃げ場をなくしているのは卿です」
「そうだな。あのときも」
あの瞬間を忘れることは、フェリクは終生、ないと思っている。最期をともにした勇者と魔王。そのすべてが、いまはなかったことになった。
「あのときから、私はすでにお前を愛していたのかもしれない」
静かに言い、レフレクシオは体の向きを変える。それから、押さえたままのフェリクの左手の薬指に銀の指輪を嵌めた。
「これは誓いだ。お前を生涯、愛するという」
自分の左手を眺め、フェリクは俯いたまま口を開く。
「僕はまた逃げ出すかもしれません」
「何度だって追いかけるさ」
「泣いてばかりかもしれません」
「好きなだけ泣けばいい」
「恨んでいるくせに宝玉の力を使うかもしれません」
「便利な道具は使ってこそ意味がある」
レフレクシオが視線を合わせるように腰を屈める。フェリクは真っ直ぐに目を見つめることができず、レフレクシオの肩に顔を埋めた。
「愛なんてまだ理解できないかもしれません」
「私が教えてやる」
「嫌いになるときがあるかもしれません」
「そうだとしても私はお前の手を離さん」
レフレクシオの大きな手が背中に添えられると、フェリクは左手が熱を帯びるようで胸が締め付けられる。
「他にはないのか」
レフレクシオは優しく問う。ようやく顔を上げたフェリクに、少し呆れたような笑みで小さく笑った。
「お前は本当に泣き虫だ」
涙を拭うようにフェリクの頬を撫で、触れるだけのキスをする。そのまま抱き上げられ、肩に顔を埋めながら、ああそうか、と心の中で呟いた。
(こういう気持ちを、幸せっていうのかな)
勇者でいた頃は感じたことのなかった感情が胸の奥を疼かせる。それは心地の良いものだった。
「今日から寝室を同室にしてもらうぞ」
「それは嫌です」
きっぱりと言いつつ、フェリクは顔が熱くなる。
「そんなの、心臓がもちません」
口ごもりながら言うフェリクに、くく、とレフレクシオは短く笑った。
「早死にされても敵わん」
まだ生きていたい、と自然と思っていた。それと同時に、まだ生きていてもいいのだ、と実感する。それは生まれて初めての感情だった。まるで輝きを失った生に光が灯るように、この魂が世界を祝福しているようだった。




