【23】魂の行方
荒い息遣いが間近に聞こえ、フェリクは目を開く。眼前に、闇を纏う獣が見えた。かつての敵を彷彿とさせるその姿を、フェリクは無感情に眺める。獣はフェリクを見下ろし、卑しい笑みを浮かべた。
『貴様はこちらに来るべきだった。貴様の居場所はここだ』
なんの感情も湧かないまま、足が自然と前に出る。思考は停止し、体は無意識下に置かれていた。
そのとき、左手が強く引かれる。温かなものが触れ、フェリクは意識を取り戻した。
『フェリク、そちらにいってはいけません』
頭の中に流れ込む声は、フェリクを微睡から引き上げる。フェリクがここに在る理由を思い出させるように。
『あなたには、まだその命があるのです』
そっと胸に触れる。そこには確かな鼓動があった。
『邪魔をするな、光の巫女よ。この小僧はこちら側の人間だったのだ』
『いいえ。彼は私たちの光。あなたとは違います』
凛とした声は、フェリクに息吹を与えるように響く。
『世界王。あなたの思い通りにはさせません』
獣は声を立てて笑う。耳の奥を震わせる嘲笑は、次第に邪悪さを帯びた。
『いまさら貴様に何ができる。力なき小娘よ』
『私にはもう何もできない。だから、目覚めるのです』
左手に力強さが加わる。フェリクの生きる意味を伝えるように。
『フェリク。その瞳を開いて。あなたの足を引くその錘は私が引き受けます。だから、どうか目を開いて。私たちの希望よ』
風に浚われるように、体の力が抜けていく。眠りに誘われるように意識が薄れ、ゆっくりと目を閉じる。星屑が瞬く。逃れられない宿命は確かにそこにある。しかし、それはすでに意味を成さない。フェリクには、ただ命が残されているのだ。
* * *
瞼の裏が白むので目覚めを自覚する。開け放たれた窓から射し込む陽に目が痛んだ。それはフェリクが取り戻したものを象徴しているようだった。
瞬きを繰り返していると、光の中から人影が覗き込む。
「やっと起きたのかい。この寝坊助」
呆れた表情でミリアが言った。フェリクはひとつ息をつき、微笑んで見せる。
「おはよう、ミリア」
「おはようさん。さっさと朝食に行くよ」
「うん」
起き上がらせた体は軽い。すべての愁いを捨てたように。命を取り戻したように。
手早く朝食を済ませると、フェリクはミリアとともに牧場に出た。牧草地を眺め、大きく伸びをする。澄んだ新鮮な空気が肺を満たし、清々しい気分になった。
「おはよう、フェリク」
山羊を牧草地に放つイゼベルが声をかけて来る。山羊の世話をする女たちや牧童もフェリクに気付いて口々に挨拶をした。
「風邪はもういいのかい」
「はい。ご心配をおかけしました」
「あれだけ水に濡れれば風邪もひくさ」
薄く笑うフェリクの横で、ミリアが呆れたように目を細めていた。
フェリクは風邪をひいていたのではないが、それについて話す必要はないだろう。
厩に入って来た主人を目敏く見つけ、ルークスが鼻を鳴らす。フェリクが歩み寄ると、興奮した様子で鼻を摺り寄せた。
「ルークスのやつ」ミリアが言う。「あたしたちの手入れじゃお気に召さないようだよ」
「でも、ミリアなら安心してたんじゃない?」
「どうだろうね」
ルークスはフェリク以外を背に乗せない気難しい馬だが、ディナの手入れは受け入れていた。きっとミリアの優しい心も感じ取っていることだろう。
* * *
牧場を見下ろすと、愛馬を伴ったフェリクとミリアの姿が見えた。主人の目覚めを心待ちにしていたルークスは、興奮している様子だった。
「坊ちゃんが目を覚ましてよかったっスね」
ゆったりした口調でアンブラが言う。それから、でも、と静かに続けた。
「これで一件落着、とはいかないんスよね」
「小僧の精神面の不安定さは変わらん。油断すれば世界王に攫われるのは一瞬のことだろう」
意識を閉ざしていたフェリクに何があって目を覚ましたのかはわからない。朝食の際、まるで憑き物が取れたように明るい表情をしていた。フェリクの無意識の意識下で何かが起きたのだろう。
「警戒の目を緩めるな」
「でも、坊ちゃんが陛下のものにならないと堂々巡りなんじゃないっスか? 坊ちゃんには、陛下の愛はまだ届いてないっスよ」
そんなことは言われなくても重々承知している。レフレクシオには手応えがまったくないと言っても過言ではない。とぼけているわけではないこともわかっている。それが余計に厄介なのだ。
「陛下の愛を信じてないんスわ。あんなに鈍いやつだったとは」
「貴様の口は今日もよく回るな」
牧場に視線を向けたまま低い声で言うレフレクシオに、アンブラは呆れたようにひとつ息をつく。
「見てることしかできないこっちの身にもなってくださいよ」
「わかっている」
呆れたくなる気持ちもよくわかる。レフレクシオは慎重になりすぎている面があるのも自覚していた。それでも、事を急くつもりはない。物事には順序がある。それすら言い訳にしかならない可能性があることもわかっているのだが。
* * *
ムルタの温かい風を受けながら見下ろす町は、ちらほらと灯る家々の光が幻想的な雰囲気を醸し出している。騎士の家に生まれたフェリクは、規則正しい生活を、という父の教えのもと、夜更かしをすることがほとんどなかった。ムルタに来てそれは変わった。こうして夜の町を眺めるのも、ムルタで暮らす者には悪いことではないだろう。
いまフェリクが宝玉を失えば、ムルタの豊かさは再び失われるのかもしれない。それはフェリクの生きる理由となる。再びこの瞳に星屑を宿して生まれたことに意味が与えられる。それは決して悪いことではないのだろう。
「小僧」
穏やかな声がかけられる。バルコニーに出て来るのは、夜着のローブを纏うレフレクシオだった。
「こんなところで何をしている。狙われている自覚はないのか」
フェリクには実感のないことだが、宝玉を有する自分が世界王に狙われていることはレフレクシオによくよく言い聞かされている。ひとりになったところを突かれる可能性があることも理解している。それでも、フェリクには理由なくここに立っていたわけではない。
「ここにいれば、会いに来てくださるかと思って……」
口ごもりながら言うフェリクに、レフレクシオは隣に並びながら続きを促す。
「たっ、ただ会いたかったというのは、おかしいですか……?」
夜風が撫でる頬が熱くなる。真面に目を見ることができない。レフレクシオはどこか呆れたように小さく息をついた。
「それなら部屋に来ればいい」
「そうなんですけど……」
フェリクが躊躇いなくそうすることができないのは、レフレクシオにもきっと伝わっているだろう。それについて咎めることはなく、レフレクシオはフェリクの隣に並んで町を見下ろした。
「この景色は私も気に入っている」
かつて頽廃にあったムルタ。レフレクシオが魔王の魂を覚醒させたことで聖地の恩恵から閉ざされた大地。衰退の運命にあったムルタでは、この光景を眺めることはできなかった。ムルタがかつて砂の王国であったことは、すべてなかったことになった。それはムルタの民にとって僥倖であったことだろう。
「思えば、私はこの景色のために宝玉を欲していたのかもしれんな」
「……あなたには、王としての誇りがあった」フェリクは噛み締めるように言う。「僕には何もなかった」
例え行く末が魔王だったとしても、レフレクシオはムルタの王だった。国を背負う矜持があったはずだ。フェリクは、たまたま勇者の魂を有していただけ。戦わなければ、大切な人を守ることができなかったのは確かだ。それでも、フェリクは森の中の小さな村で暮らすただの牧童であった。
「村に帰りたかった……ただそれだけだった」
それは叶うことのない願いだった。心の中で何度、唱えても、誰も叶えてくれる者はいない。宝玉すら、その願望を遂げることができないのだ。
「いまでもそう望んでいるのか」
静かに問うレフレクシオに、フェリクは俯く。何も答えることができない。すると、フェリクの視線を浚うように、レフレクシオがフェリクの顎に指を添えた。導かれるように上げた視線が、レフレクシオの真剣な瞳と交差する。
「その望みは、私は叶えてやれそうにない」
レフレクシオはすでに宝玉を持っていない。そうでなくても、フェリクが故郷の村に帰ることは叶わないのだ。
「お前は終生、私のそばで暮らしてもらう」
フェリクは目を剥いた。レフレクシオはかつて闇を湛えていた瞳でフェリクを見つめる。
「私の横がお前の居場所だ」
その声は確信をはらんでいる。それが疑いようのない事実であると説くように。それが誓いであることを信じさせるように。
レフレクシオが、ふ、と小さく笑い、大きな手でフェリクの頬を撫でる。
「お前は本当によく泣く」
触れるだけの優しいキスは、フェリクの心を穏やかにする。この手のひらの温もりがフェリクを離すことはないのだろう。
「夜風に当たっては体に障る」
レフレクシオはフェリクの体を軽々と抱き上げる。フェリクはただ、その肩にしがみついていた。




