【22】欺瞞
翌日、フェリクはエリオの雑務の手伝いを申し出た。片付けなければならない書類が大量にあるとぼやいているのを見兼ねたのだ。エリオの執務室に案内されたフェリクに、フォルトゥナもついて来る。エリオとフェリクが仕事をしているのを眺めながら、一緒に勉強をするらしい。
フェリクはエリオが目を通してサインした書類を、種類ごとにまとめていく。まとめた書類は紐で束ね、机の上に重ねて置いた。
ふたりが黙々と作業を続けていると、勉強に飽きたらしいフォルトゥナが、ぼんやりとふたりの手元を眺めている。そんな様子を目の端で捉えながら、以前と随分と変わってしまったようだ、とフェリクは考えていた。
「フェリク」エリオが言った。「これをお前の父上に渡して来てくれ」
「わかった」
エリオが差し出した紙束を受け取り、フェリクは立ち上がりつつ時計を見遣る。この時間なら、父は訓練場で騎士たちに指導しているところだろう。
しかし、訓練場に父の姿はなかった。騎士たちは自主練習に勤しんでいる。その中のひとりが、きょろきょろしているフェリクに気付いて歩み寄って来た。顔馴染みの父の部下だ。
「フェリクくん、どうしたの」
「父は……」
「団長なら、レフレクシオ卿のところじゃないかな。たぶん、二階の応接間だよ」
「そう……ありがとう」
青年は微笑み、訓練に戻って行く。その後ろ姿を見送りながら、フェリクは少しのあいだ、動けなくなる。心の中に葛藤が生まれ、手にした書類を見た。必ず届けなければならないものだが、父のもとへ行くことに躊躇ってしまう。ひとつ息をついて思考を止め、フェリクは二階へと向かった。
応接間に向かう途中、廊下の角の向こうから父の話し声が聞こえた。父と話しているのは、ムルタの王レフレクシオだった。ふたりとも和やかに話しているが、フェリクは胸の奥がざわめいた。
(……記憶なんか、失ってるよな……)
フェリクはひとつ息をつき、角から出て父に駆け寄った。
「父さん」
呼びかけたフェリクに父が振り向くと同時に、レフレクシオもフェリクに視線を遣る。落ち着かない心拍を抑えつつ、なんでもないような顔を努めた。
「フェリク。どうした」
「これ、書類を預かって来たよ」
「ああ、ありがとう」
ふと父の背後に視線を遣ったとき、レフレクシオと目が合った。ぎくりとして心臓が高鳴るが、気にしていないという顔で軽く会釈をする。それじゃ、と短く挨拶してその場から駆け出した。あの鋭い瞳から、早く逃れたかった。
廊下を小走りに抜け、軽く息を切らせながらエリオの執務室に戻る。早く自分を知る者のところへ行きたかった。
ようやくエリオの執務室に辿り着くと、フェリクは扉の前で立ち止まる。何度か深呼吸をしてドアをノックし、返事を待ってから執務室に入った。
「書類、届けて来たよ」
「ああ、ありがとう」
フェリクが先ほどと同じ場所に腰を下ろしたとき、ドアがまたノックされる。エリオの返事で顔を覗かせたのは、フォルトゥナの父であるラエティティア国王だった。立ち上がろうとしたフェリクとエリオに、王は軽く手を挙げる。
「そのままでよい。姫を迎えに来たのだ。フォルトゥナ、来なさい」
「はい」
頷いたフォルトゥナは勉強道具を片付け、先に出て行った国王に続いて部屋をあとにした。ドアが閉められると、フェリクは安堵の息をつく。フォルトゥナには慣れたが、国王にはやはり萎縮してしまった。
書類整理に戻ると、ややあってエリオが口を開く。
「お前、レフレクシオに会っただろう」
フェリクは小さく頷いた。それから、作業を続ける手元に視線を落としたまま言う。
「以前のような禍々しさはなかった。ミコが言った通り……彼はもう、魔物の王ではなかった」
「そうか」
「でも、どうしてレフレクシオはまたラエティティアに?」
「やつをラエティティアに呼び寄せたのは国王陛下だ。陛下は、小国であるムルタを気に掛けていらっしゃるんだ」
「……じゃあ……」
ある考えた浮かんで呟いたフェリクに、エリオは首を傾げる。フェリクは、なんでもない、と首を横に振った。
* * *
エリオの手伝いを終えたあと、フェリクはルークスに乗って平原へと出た。繁栄を続ける平和なラエティティアの草原は、柔らかな風が流れ、どこまでも駆けて行けそうだと思えるほど穏やかだ。
フェリクは平原に降りると、ルークスの手綱を外した。尻を叩いてルークスを平原に放つ。ルークスは意気揚々と駆け出し、広い平原を自由に走り回る。
ふと息をついたフェリクは、草の上にうつ伏せに寝転がった。どこか心配そうにしながらルークスが戻って来て、フェリクの頬に鼻を摺り寄せる。フェリクが頬を優しく叩いて撫でると、また平原へと駆けて行った。
(……ムルタは繁栄しなかったのかな……だとしたら……)
ゆっくりと目を閉じたとき、近付いて来る馬の足音が聞こえる。ルークスがまた戻って来たのかと考え始めたとき、違う足音であることに気が付いてフェリクは体を起こした。ゆったりとした足取りで歩み寄って来るのは、黒毛の馬に跨ったムルタの王レフレクシオだった。フェリクが様子を窺いつつが立ち上がると、レフレクシオはフェリクのそばで馬を降りた。
「小僧。貴様にも、やり直す前の記憶があるのだろう」
やはり、と心の中で独り言つ。強さを湛えた瞳を見たとき、確信はなかったがそうではないかと思っていた。レフレクシオの中からも戦いの記憶は消えずに、フェリクのことを鮮明に憶えているのだ。
小さく頷いたフェリクに、レフレクシオは嘲笑するような薄い笑みを浮かべた。
「だが、フォルトゥナは何も憶えていないようだ。都合の良い話だ」
「……これでよかったんです」
駆け寄って来たルークスが、フェリクの肩口や背中に鼻を摺り寄せる。レフレクシオに怯える様子は見えず、フェリクを案じているのだ。
「……誠に、そうか」
低い声で言ったレフレクシオが、乱暴にフェリクの頬を掴んだ。
「ならば、なぜ貴様の星屑は消えていないのだ」
フェリクは応えることができず、ただレフレクシオの目を見つめる。その右目から星屑は消失していた。
「あの女はまたも貴様にすべてを押し付け、自分は何もかも忘れているではないか。結局、フォルトゥナは逃げたのだ」
「違う……!」
声を張り上げたフェリクが手を振り払うと、レフレクシオはまた嘲るように笑う。
「貴様は苦しみから逃れられていない。戦いの記憶からも、星屑の瞳からも、フォルトゥナに忘れられた現実からも」
「違う! 僕は、フォルトゥナ姫のために……!」
「ならば、なぜフォルトゥナは貴様を祝福せんのだ」
フェリクは息を呑んだ。それがすべてであることは、フェリクにもわかっていた。
戦いの記憶が消えていなかったことは、大して気に留めることではなかった。フォルトゥナが自分のことを綺麗さっぱり忘れてしまっていると知るまでは。
そのために戦ったのだと、それは自分自身に言い聞かせる呪いの言葉だった。そうしていなければ、このラエティティアでは立っていることすらままならなかった。
息をすることさえ、肺が灼けるようだった。
「……そんなこと、わかってる……。でも、こうするしかなかったんだ……!」
ついに溢れ出して頬を伝うものを拭いもせず、振り絞るような声でフェリクは言った。レフレクシオは呆れたように、ふん、と鼻を鳴らす。
「ラエティティアで生きることに耐えられんのなら、小僧、ムルタへ来い」
「……ムルタへ……」
呆然として呟き、フェリクはレフレクシオを見上げた。
「三日後、私はムルタへ戻る。平和ボケしたラエティティアになど、興味はない」
「……なら、どうして……」
ラエティティアへの興味を失っているのなら、レフレクシオがこの国を訪れる理由はない。レフレクシオがラエティティアに赴いたのは、他に目的があるのだ。
「……そうだな。貴様を探していたのかもしれん」
「僕を……?」
「魔王と対の魂を持つ勇者の行く末を、この目で見たかったのかもしれん」
静かな声でそう言い、レフレクシオは馬に跨った。そうしてフェリクに背を向け、王都へと戻って行く。フェリクはその背中を見送り、心配そうにフェリクの頬に鼻を摺り寄せるルークスの頬を叩いて撫でた。
三日後、フェリクは王都を発つことを決めた。
レフレクシオとともに、ムルタ王国へ向かうことを。




