【21】疑念[2]
騎士道場の稽古が終わったあと、フェリクはルークスを走らせて平原へ出た。ルークスは久々にフェリクを乗せて走ることが嬉しいようで、少し腹を蹴っただけでフェリクを振り落とさんばかりに速度を上げる。ルークスがフェリクを憶えていることも不思議だった。
フェリクはふと思い立ち、平原の南へ向かった。ラエティティアの南端に位置する森へ入ると、懐かしい匂いが感じられた。その奥へ進めば、帰りたいと何度も願った光景が広がっている。
本来、辿るべきではなかった運命で、フェリクの故郷だったアロイ村だ。
木々のあいだから村を覗き込むと、かつてと変わらない穏やかな風が流れている。人々は農作業に勤しみ、山羊の姿もあった。子どもたちの笑い声が響く。ルークスも、どこか懐かしそうに鼻を鳴らす。
「あら、騎士さん! 村に何かご用?」
背後からそう声をかけられ、どきりと心拍が跳ね上がった。振り向いた先には、山羊の手綱を引く懐かしい少女の姿がある。かつて幼馴染みであったディナだ。きょとんと目を丸くし、不思議そうに小首を傾げている。
「お城へ戻る途中なの? 休憩なら、どうぞ入って!」
「いえ、なんでも――」
「おう、ディナ!」
村の中から聞こえてきた大きな声に、フェリクはまた驚いて振り返る。村から出て来るのは、相変わらずルーイを引き連れたウォルズだった。ウォルズはフェリクに気付くと、怪訝に顔をしかめる。
「ああん? なんだ、お前……」
「怪しいやつ! ウォルズさん、やっちまってくださいよ!」
「騎士さんに喧嘩を売ってどうするのよ。あなたたちが勝てるわけないでしょ」
眉をつり上げるディナに、ウォルズとルーイは言い返せずに口を噤む。
(変わってないなあ……)
その姿に安堵すると同時に、胸の奥が重く痛む。幼馴染みたちは何も変わっていない。そこに、自分がいないだけ。
「あら?」
ディナの声に視線を下げると、ディナが手綱を引いていた山羊がフェリクの足に角を摺り寄せて来る。それから、ルークスと鼻を擦り合わせた。
「山羊が外の人に懐くなんて珍しいわ。この子たち、人見知りが激しいの」
フェリクはルークスを降り、山羊の頭を撫でてやる。山羊はひとつ鳴き、どこか嬉しそうにフェリクに鼻を摺り寄せた。
「ウォルズだって、十五年も牧童をやってるのに、いまだに懐かれないのよ」
「ディナ!」ウォルズが声を上げる。「初対面のやつにそんなこと話さなくたっていいじゃねえか!」
「あら、ごめんなさい。なんだか、騎士さんとは初対面じゃないような気がしちゃって」
申し訳なさそうに言ったディナの言葉に、またフェリクの胸の奥に鈍い痛みが走った。名残惜しそうな山羊から離れ、再びルークスに跨る。
「帰るの?」ディナが言う。「今度はぜひ村に寄って行ってね」
「ありがとう」
どうにか笑みを浮かべてそう応え、フェリクはルークスの腹を蹴った。
かつての幼馴染みたちに見送られてあとにした村は、フェリクのことを知らない風が吹いている。この場所はもう、誰もフェリクのことを知らない。憶えているのは、動物たちだけなのだろう。
フェリクはかつて気に入りだった丘に出た。ラエティティアの王宮を眺めることができる丘の光景は、何も変わっていなかった。
ルークスを降りたフェリクは、草原に寝転がった。頬に触れる草の感触や、土の匂いが懐かしい。
太陽は地平線の向こうに消えようとしている。景色はあの頃と何も変わらないのに、胸の奥は泣き出してしまいそうになるほど痛い。フェリクを励ますように、また慰めるように、ルークスがフェリクの頬に鼻先を摺り寄せた。
「フェリク」
不意に聞こえた声に、フェリクは体を起こす。振り向いた先にいたのは、森の長老リミアスだった。
「長老……」
驚いて呟くフェリクに優しく頷きかけ、長老は杖をついて歩み寄って来る。
「哀れな子よ……。お前だけ、記憶が残ってしまったのじゃな……」
「…………」
「その理由が、我々にもわからん……。これも、神々の思し召しなのじゃろうかのう……」
長老の手が優しく頭を撫でると、フェリクは堪えていた熱いものが溢れてきた。
この十四年、ずっと胸の奥に抱え続けて来た、なぜ、という言葉。本来なら、こんな苦しい想いを懐かずに済み、傷付かずにいられたはず。そのための選択だったはず。だが、彼はいまでも苦しかった。
「お前を知る者が、このラエティティアにもまだおる……。しかし、ラエティティアに居ることが辛いなら、再び世界を見て回るのもいいじゃろうて……」
フェリクは袖で目元を拭い、立ち上がった。
「ありがとうございます、長老。少し、安心しました」
長老は満足げにゆっくり頷いて、ひげの奥でふがふがと笑った。すると、ルークスが長老に鼻を摺り寄せる。
「お前たちは、再び出会うことができたんじゃな……」
ルークスの頬を撫でた長老は、ローブのポケットから何かを取り出し、フェリクに差し出した。それは、牧場での仕事で使っていた鷹笛だった。
「これ……」
「お前にくれてやろう……。何か役に立つこともあるかもしれん……。さて、お前の母が心配する……そろそろ街に戻りなさい」
「はい。ありがとうございます、長老」
ルークスに跨って平原へ駆け出したフェリクを、長老はいつまでも見送った。胸の奥がほんの少しだけ温かくなったようで、フェリクはまた、涙が溢れた。
* * *
翌日、騎士道場での稽古を終えたあと、フェリクはなんとなく王宮のバルコニーから王都を眺めた。
城の騎士道場に通う若者たちはみな、ラエティティアの騎士になることを目指している。もちろんフェリクの父もその道場の出で、いまでは騎士団長を務めている。フェリクがラエティティアの騎士になることを父が望んでいることは、父が口にしなくてもわかっていた。
フェリクは、そっと左の目元に触れる。十四年前、ラエティティアの家に生まれたフェリクは、もう勇者ではなかった。だが、この瞳には星屑が宿っていた。その疑問に答えられる者はもういない。ミコには会えないし、サザンナにはどうすれば会えるのかもわからない。光の巫女であり聖域の管理人であったフォルトゥナ姫は、もうその任にはないのだ。
(……これも、神々の思し召し……)
そうだとすれば、神々はなんて残酷なのだろう。かつて大魔王が言っていたように、高みの見物を楽しんでいるのだろうか。
「フェリク」
背後から声をかけられる。バルコニーに出て来るのはエリオだった。
「姫様が探しておられたぞ」
「……帰ったと伝えて」
「ここにいれば、いずれ見つかるさ」
エリオもフェリクの隣に並んで、バルコニーの柵に寄りかかった。エリオが戦いの記憶を有していることも神々の思し召しなのだとしたら、とフェリクは考える。それはフェリクに与えられた数少ない僥倖なのだろうか。
そのとき、王宮の門に繋がる階段を上がって来る一団にフェリクは気が付いた。その瞬間、ぞくりと背筋が凍る。
「……レフレクシオ……」
先頭に立つ男は、かつてフェリクと対峙したムルタの王レフレクシオだった。ムルタの民族衣装に身を包む数人の女を引き連れている。
「どうしてここに……」
「本来の運命に大魔王は現れない」エリオが静かに言う。「ミコはそう言っていた」
「じゃあ、あの人は魔王じゃなく、ただのムルタの王ってこと?」
「それがレフレクシオの辿る本来の運命だったのだろうな」
王宮から出て来た騎士団がレフレクシオを出迎えた。騎士団の先頭に立つのは父だ。レフレクシオは父と握手を交わしたあと、ふと視線を上げる。その鋭い瞳が、フェリクを捉えた。対峙したときと変わらぬ、強さを湛えた深淵の瞳。
「…………」
「フェリク、どこにいるのです?」
廊下から聞こえて来た声に、フェリクは踵を返す。一刻も早く、あの瞳から逃れたかった。廊下に戻ったフェリクを見つけ、フォルトゥナが明るい笑みを浮かべる。
「そこにいらしたのですね」
「はい。どうしましたか?」
「見せたいものがあるのです。一緒に来てください」
「はい」
フェリクに続いて廊下に出たエリオは、気遣わしげな視線を遣る。フェリクは曖昧に微笑んで見せた。いまは何も考えたくなかった。




