【1】アロイ村[1]
気が付くと、しんと静まり返る暗闇の中に立ち尽くしていた。
右も左も、上も下もわからない、自分が見えるだけの空間。耳鳴りが酷く響くのを感じながら、辺りを見回す。何もない。
何か見えないかと目を凝らしたとき、背後から何かが迫って来た。靄がかかった黒い影。人の形を成すそれの左手に、異様に光る刀身が見える。後退する彼に追いすがる影は、容赦なくその切っ先を振り下ろした。
……――
「フェリク! 起きてるー?」
窓の外から聞こえて来たそんな声でフェリクは目を覚ました。
見上げるのは、もう十六年も見続けてきた木製の天井。ベッドのすぐそばにある窓の外から、カーテンの隙間を縫う太陽の光とともにまた少女の声が飛び込んで来る。
「寝坊助さーん! もう朝よ!」
のそりとベッドから起き上がって窓の外に顔を出すと、短い茶髪の少女がフェリクに向かって手を振る。
「やっぱり寝てた!」
「おはよう、ディナ……」
目覚めたばかりの瞼を眩しく染める陽の光に目を細め、幼馴染みの少女ディナに挨拶をする。ディナは、もう、と愛らしく唇を尖らせ、腰に手を当てた。
「パパが牧場の手伝いをしてほしいって! 来てくれる?」
「ああ。いま行くよ」
ディナに返事をして、フェリクは大きく伸びをする。寝間着から普段着に着替え、鏡台を覗き込んで肩ほどまでの浅葱色の髪を適当に手櫛で梳かす。一階からは鉄を打つ音が聞こえる。父はすでに仕事を始めているようだ。
寝間着を洗濯物の山に放り、ダイニングに置かれていたパンを手に取る。ひと口目を牛乳で流し込み、適当にかじりながら表に出た。刀鍛冶の工房で、父ジェドが剣を打っている。
「おはよう、父さん」
「おう、フェリク。ディナは今日も元気だな」
「はは……」
ラエティティア王国の最南端に位置する奥まった森の中にあるアロイ村は、豊かな自然に囲まれた小さな集落だ。農業と酪農を生業とする村で、家々のあいだを奥に向かった先には広大な畑と牧草地が広がっている。ラエティティア王国の食糧の最後の砦とも呼ばれアロイ村は、決して裕福とは言えないが、平和を体現したような村である。
父の工房を抜けて家を出ると、ディナはフェリクの愛馬ルークスをブラッシングしてやっていた。普段はあまり人に懐かないルークスも安心しきった様子で、ディナに身を任せている。
「おはよう、フェリク。今日も寝坊ね」
「ディナが早いんだって……」
「なに言ってるの。子どもたちだってもう起きてるわ」
呆れたように言ってディナがルークスの手綱を引いて歩き出すので、フェリクはまた欠伸をしながらそのあとに続いた。
アロイ村は決して広くない。しかし、繁栄を続けるラエティティア王国の恩恵を受け、人々が生活に困窮するようなことはなかった。都市から離れているため技術面では劣っていると言わざるを得ないが、特に民が不足を感じることもなかった。
「フェリク! きょうもぼくじょうのおしごと?」
目敏くフェリクを見つけた子どもたちが、一斉に彼のもとへ集まって来た。揃いの民族衣装に身を包んだ子どもたちは、いつもフェリクに遊び相手をせがんで来るのだ。
「おしごとおわったら、またあそべよな!」
「ああ、いいよ。しっかり勉強したらね」
「やくそくだよ!」
きゃあきゃあと元気な笑い声を立て、子どもたちはまた風のように去って行った。
村には小さな修道院があり、子どもたちに勉強を教えている。辺境の地で暮らすフェリクとディナも、字の読み書きは完璧だ。
「相変わらず人気者ね」
茶化すように言ってディナが新緑色の瞳を細めて微笑むので、フェリクは苦笑いを返した。
村で最も広い領地を有する牧場は、広大な牧草地で山羊が草を食み、調教師が馬をしつけている。アロイ村の雇用はほとんどこの牧場によって生み出されていた。
「おおい、フェリク」
山羊小屋のほうから、背の高い男性が手を振っていた。牧場主であるディナの父ロウルズだ。
「今日もよろしくなー」
「はーい」
そのとき、不意にルークスがいななくのでフェリクとディナは振り向いた。茶髪の青年が、ルークスの後ろ脚に蹴り飛ばされている。ルークスの逆鱗に触れたのだ。
「だああああ!」
「ウォルズさああああん!」
ルークスに蹴られた勢いで背中から倒れ込む茶髪の青年ウォルズに、か細い少年ルーイが駆け寄る。今日も騒がしいのが来た、とフェリクは溜め息を落とした。
「ウォルズ! まだルークスにちょっかいを掛けたわね!」
腰に手を当ててディナが厳しい声で言うと、ウォルズは乱れた茶髪を慌てて直しながらディナを見上げる。
「ちょっと撫でてやっただけじゃねえかよお」
「ちょっと撫でたくらいでルークスが蹴るわけないじゃない!」
馬の脚力は相当なものだが、賢いルークスは驚いて人を蹴ったとしても大した力は入れていない。その証拠に、倒れたままではあるがウォルズは大きな怪我もないようだ。
「お前のしつけが悪いんだろ! 馬にどんな教育してんだ!」
「そうだ、そうだあ!」
屈強な体躯を起こしてウォルズがフェリクに詰め寄り、その後ろでルーイが拳を振り上げるので、もう、とディナは眉をつり上げた。フェリクにとって、これがいつもの光景だった。
四人は同年代の友人同士で、幼い頃からよく行動をともにしているが、ウォルズは何かとフェリクに突っかかり、競い合って来る。ディナがそんなウォルズを叱るのもいつものことだ。
「馬に蹴られてよく平気だね。僕だったら大きな怪我をして、二日は起き上がれないと思うけどね」
とぼけた口調でフェリクが言うと、頭に血を昇らせたウォルズがフェリクの肩を掴んで激しく揺さぶる。目を回したフェリクが倒れるので、ふん、と鼻を鳴らしてウォルズは牧場へ入って行った。そのあとにルーイが小走りで続く。
「フェリク、大丈夫?」
「うん……なんとか」
「もう。ウォルズの乱暴者!」
「ディナのお転婆娘!」
ウォルズが牧場から声を張ってそう返すと、今度はディナが頭に血を昇らせる番だった。
「なんですってええええ!」
「うひゃああああ!」
ディナがウォルズとルーイを追いかけて行ってしまったので、フェリクは牧場の仕事に取り掛かることにした。
フェリクが任されている手伝いは、大抵、山羊の世話だ。ブラッシングをしてやったり、ルークスで追い立てて運動をさせたり、ときには搾乳も手伝っている。絞りたての山羊ミルクは樽に詰め、街へ出荷するため馬車に積み込まれる。それは主に力持ちのウォルズの仕事で、彼はこの仕事に誇りを持っているようだった。フェリクの細腕では樽は持ち上がらないからだ。
戻って来たウォルズとルーイは小屋の掃除を始める。フェリクは山羊たちと一緒に牧草を食んでいたルークスに跨り、運動のために山羊たちを追い立てた。ルークスと山羊はすこぶる仲が良いが、やはり追い立てると逃げて行く。
「おおい。そろそろ休憩にしよう」
小屋のほうから呼んだロウルズに返事をし、フェリクはルークスを降りた。小屋ではディナがお茶を用意している。
「いやあ、みんなが手伝ってくれると、仕事が早く済むなあ」
日焼けした顔で朗らかに言うロウルズに、なんだよ、とウォルズが不満げな表情で言った。
「フェリクなんかより俺のほうが役に立ってるだろ」
「そうだ、そうだあ!」
「はいはい」
フェリクと張り合うウォルズとルーイをディナが適当に流すのは、幼い頃から続くいつもの光景だった。
フェリクは、穏やかな時間の流れるアロイ村が好きだった。何もせずに流れていく時間も好きだが、こうして動物たちの相手をする時間も、心を穏やかにしてくれる。
「ねえ、フェリク。知ってる?」ディナが言った。「ラエティティアの王都には、この村とは比べ物にならないくらいたくさんのお店があって、とても賑やかなんですって」
「ふうん……」
ディナは昔から、村の外に強い関心を懐いていた。特に王都への憧れが強く、こうしてフェリクに語り掛けることが多かった。そのたび、フェリクは曖昧な返事をする。
「興味ないの?」
「んー……あんまり」
「お前みたいな小さい男にはな、この村がお似合いだっつーの」
「そうだ、そうだ」
ウォルズの言葉にルーイが相槌を打つので、ディナはまた眉をつり上げた。ウォルズは肩をすくめ、それ以上は何も言わなかった。ウォルズが何も言わなければ、ルーイも黙っている。
王都のことは、父やロウルズから聞いたことがある。アロイ村とは比べ物にならないほど発展し、騒がしいほどに賑わっているのだとか。だが、アロイ村が好きなフェリクには、王都はちっとも魅力的ではなかった。ラエティティアが繁栄した国であることは知っているが、このゆったりした村でのんびり暮らしていくほうがフェリクには合っている。
「さて」ロウルズが立ち上がった。「もうひと仕事いくかあ」
ウォルズとルーイもそれに続いて、休憩前に取り掛かっていた仕事の続きを始める。ディナはカップを片付けてから山羊の世話に向かい、フェリクはルークスのもとに歩み寄った。
(王都か……)
父とロウルズは度々、山羊ミルクや武具を街に卸しに行く。その土産話にフェリクが興味を持ったことはない。フェリクは、自分は生涯、この村で生きていくのだと思っているからだ。
しばらく手伝いを続け、そろそろ陽が傾こうという頃、ルークスで山羊を小屋に追い立てるフェリクをディナが呼んだ。
「フェリク! そろそろ稽古の時間よ。行きましょ」
「うん」
ルークスから降り歩み寄ると、ディナは鞘に納められたフェリクの剣を差し出す。ディナも小ぶりの剣を持っており、短い茶髪はピンで綺麗にまとめられている。これから、牧場の仕事とは違う体の動かし方をするからだ。
「今日も組手に付き合ってね、フェリク」
「ああ、い――」
「ディナ!」
「うっ!」
フェリクの言葉を遮ったウォルズが、突進するようにフェリクを突き飛ばす。唸り声を上げたフェリクは倒れ込み、地面にしたたか尻を打った。それを気に留めるのはディナだけだった。
「組手なら俺が相手してやるよ。こんなひょろひょろ、相手にしたって、強くなれねえぜ?」
「そうだ、そうだ!」
「でも、フェリクはウォルズより強いわよ。剣は」
あっけらかんとして言ったディナの言葉に、ウォルズは一瞬だけ固まった。それから、ようやく立ち上がったフェリクの服の胸倉を掴み、凄みながら詰め寄る。
「剣道場の長男である俺が、こ~んなひ弱な牧童より弱いだってえ? あり得ねえぜ!」
「ウォルズ、私はこっちよ」
「俺のほうが強いって証明してやるぜ!」
「うっ……」
拳を握り締めたウォルズがフェリクを放り出すので、フェリクはまた唸りながら地面に倒れ込む。
「フェリク! 勝負だ!」
「えー……」
「逃げるんじゃねえぜ!」
眉をひそめるフェリクは気に留めず、ウォルズは雄叫びを上げながら牧場から走り去って行く。そのあとにルーイも続き、牧場はようやく静けさを取り戻していた。
「フェリク、大丈夫?」
「まあ……」フェリクは立ち上がった。「組手くらい、ウォルズに相手してもらえばいいんじゃないの?」
「私は強い人と戦いたいの」ディナは眉をつり上げる。「そうでなくちゃ、立派な騎士になれないもの!」
「ディナ、フェリク。早く行かないと遅れるぞ」
山羊小屋からロウルズが呼び掛けると、いけない、とディナは気合い充分の表情で拳を握り締めた。
「じゃあ行きましょ、フェリク!」
待ちきれない様子でディナは駆け出す。この時間になると、ディナは闘争本能が湧くようで、のんびり屋のフェリクを待っていることができなくなるのだ。
「牧場の娘なんだから、牧場を継いでくれればいいのになあ」
ロウルズがしみじみと呟くので、フェリクは苦笑いを浮かべる。ディナの目標は、ラエティティア王国の騎士になること。それは子どもの頃からの憧れで、ディナはそのための鍛錬を日々続けている。フェリクも剣を習ってはいるが、ほとんど護身のためだけと言っても過言ではない。この剣が役に立つ日が来ることはないと、そう確信しているからだ。