【21】疑念[1]
「フェリク、いつまで寝ているの。起きなさい」
穏やかな声に揺さぶられてフェリクは目を覚ます。ウェーブのかかった色素の薄い浅葱色の髪の女性が覗き込んでいた。フェリクはベッドの上に体を起こし、女性に微笑みかける。
「おはよう、母さん」
同じ色の髪を撫で、母はくすりと小さく笑う。フェリクはベッドから降り、大きく伸びをした。窓の外はすっかり明るく、少し朝寝坊してしまったようだ。
「お父さんがお弁当を忘れて行ってしまったの。悪いけど、届けて来てくれる?」
「わかった」
「他に手伝ってほしいことはないから、そのまま稽古に行ってしまっていいですからね」
「はーい」
身支度を整えて手早く朝食を済ませたフェリクは、父の弁当をかばんに入れて屋敷を出た。ラエティティア王国の豊かさの象徴である王都は、すでに喧騒に溢れていた。
王宮に繋がる西通りは民や商人が行き交い、活気に満ちている。フェリクがその中を駆けて行くと、顔馴染みたちが声をかけて来た。
「おはようさん、フェリク。今日も稽古かい。頑張りなよ」
「はい、ありがとうございます」
「フェリクにーちゃん! あとで遊んで!」
「今日はかくれんぼだぞ!」
「ああ、いいよ」
かけられた声に応えつつ通りを抜け、王宮に繋がる階段を駆け上がる。顔見知りの門兵たちと挨拶を交わし、王宮へと足を踏み入れた。
王宮の廊下には使用人や騎士が忙しなく行き交っている。フェリクは王宮の騎士道場に通うようになってほとんど毎日、王宮を訪れているが、この荘厳な城と使用人すら高貴さを感じさせる空気にはいまだに慣れることができなかった。
廊下を抜け、フェリク北側の裏庭へ出た。そこは騎士が鍛錬を積む訓練場になっている。訓練を受ける騎士の中に若い騎士を指導する父の姿を見つけるが、フェリクは訓練がひと区切り付くまで待つことにし、隅に腰を下ろした。
フェリクは小さい頃から王宮の騎士道場に通っている。騎士の家に生まれたフェリクは、そうなることが当然のように決まっていた。それについてどうこう思ったことはない。
「よう、フェリク」
かけられた声に振り向くと、同じ騎士道場に通う昔馴染みのジェクトが笑みを浮かべて軽く手を振る。日焼けした顔に、いつもの暑苦しい笑みを浮かべていた。
「おやじさんを待ってるのか?」
「うん。お弁当を忘れて行ったんだ」
「ははっ! フェリクとおやじさんって、よく似てるよなあ」
「そうかな……」
「俺は先に道場に行ってるよ。お前もあとから来るだろ?」
「うん」
「じゃ、あとでな」
フェリクの肩を叩いて、ジェクトは立ち上がった。そのまま廊下に戻って行くが、あ、と不意に何かを思い出した様子でまたフェリクを振り向く。
「フォルトゥナ姫がお前をお探しだったよ」
「え、なんだろう」
「さーな!」
にやにやと楽しげに笑い、ジェクトは去って行った。フェリクに嫌な予感をさせるような笑みだった。
ややあって、父が短く笛を吹いた。その音で騎士たちが父の前に整列する。
「休憩!」
父の号令に短く応え、騎士たちは散っていく。いつか自分もこの中に加わるのか、と考えつつ、フェリクは父に駆け寄った。
「父さん。お弁当、忘れてたよ」
「ああ、悪いな」
父は顔をタオルで拭い、ひとつ息をつく。それから、フェリクを振り向いた。
「フェリク。稽古の時間はまだだったよな」
「うん」
「ちょっと来いよ」
「え、なに?」
「いいから。付いて来い」
部下の騎士にいくつか指示を出し、父は廊下へ歩き始める。フェリクは首を傾げつつ、そのあとに続いた。
父がフェリクを伴って訪れたのは、王宮の厩だった。父が厩の管理をしている青年に声をかけると、青年はひとつ頷いて厩の奥に入って行く。ややあって戻って来た青年は、一頭の赤毛の馬を連れていた。
「フェリク、お前へのプレゼントだ」と、父。「誕生日おめでとう」
父に促され、フェリクは赤毛の馬に歩み寄った。すると馬は嬉しそうに鼻を鳴らし、フェリクの頬に鼻を摺り寄せる。フェリクが頬を撫でてやると、もっと撫でてくれと言わんばかりに頭を摺り寄せた。
「驚いた」管理人が言う。「こんなにすぐに懐くなんて……。この馬、誰にも懐かないんで困っていたんですよ」
「なぜかフェリクは特別、動物に懐かれるんだ」父は笑った。「フェリク、名前は何にするんだ?」
「……ルークス」フェリクは応えた。「ルークスにする」
「ルークスか……良い名前だ。ルークスも嬉しそうじゃないか」
そう言って父がルークスと名付けられた馬に触れようとすると、ルークスの態度は一変し、まるで威嚇するように嘶いた。
* * *
父は騎士たちの訓練に戻り、フェリクは騎士道場に向かう。騎士団長の子どもとして生まれたフェリクは、周囲から期待されていた。フェリクとしては勝手に期待されても困るのだが、期待してしまう気持ちは理解できる。それでも、それを重圧に感じるのは確かだった。
「あっ、フェリク!」
廊下の向こうからかけられた声に、フェリクは振り向いた。手を振りながら歩み寄って来るのは、上質なドレスに身を包んだラエティティア王国の美姫フォルトゥナだった。周囲には数名の従者がおり、威圧を感じる光景だ。
「フォルトゥナ姫、ごきげんよう」
「あなたまでそんな堅苦しい挨拶をしなくてもいいのです!」
辞儀をしたフェリクに少し肩を怒らせたあと、フォルトゥナは愛らしい笑みを浮かべて小さな箱をフェリクに差し出した。
「プレゼントです。お誕生日、おめでとうございます」
「ありがとうございます、姫様」
「気に入っていただけるといいのですが……」
フォルトゥナの視線に促され、フェリクは丁寧にリボンを解く。丁寧な包装が施された箱には、青い雫型の結晶のペンダントが納められていた。
「これは……」
「すべての大地を守るとされている世界樹の種を象ったお守りです。あなたの星屑の瞳の象徴です」
そう言って、フォルトゥナはフェリクの瞳を覗き込む。生まれた頃から星屑を宿した左目を。
「気に入っていただけましたか?」
「はい、ありがとうございます」
フェリクが微笑んで頷くと、フォルトゥナは嬉しそうな、それでいて安堵したような笑みを浮かべる。年齢相応の無邪気な笑顔だった。
「姫様。そろそろお勉強の時間です」
フェリクに威圧をかけるような視線を送る従者たちの向こうから、そんな声が聞こえて来た。フォルトゥナの護衛騎士のエリオだ。
「はい。では、フェリク。また」
微笑みかけるフォルトゥナに、フェリクもまた笑みを返しながら頷いた。
従者たちを伴って去って行くフォルトゥナを見送ると、エリオが気遣わしげな視線をフェリクに送る。フェリクは曖昧に微笑んで見せた。
その後ろ姿が見えなくなると、フェリクは窓ガラスに映る自分の瞳を覗いた。再び生まれ持った星屑を。
フェリクは王都の騎士の家に生まれた。戦いの記憶を保持したまま。一度は死んだはずの自分が時を巻き戻すことで蘇ったということもすぐにわかった。運命の勇者として生まれたこと、戦ったこと、傷付いたこと。この星屑の瞳とともに残る記憶が、フェリクを支配していた。
フォルトゥナ姫が記憶を持ち合わせていないことは、初めて出会ったときにすぐにわかった。宮廷騎士を務める父に連れられ王宮に来たとき、声をかけて来たのはフォルトゥナのほうだった。心の奥底のどこかで、微かにフェリクのことを憶えていたのだ。
自分の他にも記憶を持ち合わせている者もいる。それがエリオだ。エリオは運命の勇者としてのフェリクを憶えており、フェリクの瞳に星屑が宿っていることを驚いていた。どうやら、ムルタで別れたままだったルークスもフェリクを憶えているようだ。
エリオは、宝玉とフォルトゥナの力を使ってフェリクの運命を巻き戻したと話した。フェリクだけではない。ラエティティア王国のすべてが本来の運命に戻ったのだ。ミコは、フェリクたちの記憶は綺麗さっぱり消える、と言っていたらしい。自分とエリオが記憶を持ち合わせたままである理由がフェリクにはわからなかった。




