【19】もういいんだ
ふと目を開くと、身動きが取れない違和感に体を見下ろした。脚が椅子の足に、腕は後ろ手に拘束されている。辺りは暗く、視界には何も映らなかった。胸中に広がる不安が、心臓を落ち着かなくさせた。
「目が覚めた?」
可愛らしい声に顔を上げる。フェリクを覗き込んで微笑んでいるのはフォルトゥナ姫だった。しかし、その笑顔はフォルトゥナ姫のものではない。そんな確信に、背筋を汗が伝った。
「ちょうどよかったわ。宝玉を返してもらえる?」
深まる笑みに血の気が引く。フォルトゥナは真っ直ぐにフェリクの瞳を見据えたまま、手のひらを宙に向けた。その手に、研ぎ澄まされたナイフが現れる。
「もう、あなたには不要よね?」
鋭い切っ先がフェリクの左目に突き付けられた。心臓が破裂しそうなほど心拍が高まり、荒く短い呼吸を繰り返す。この場から逃げ出す術はなかった。
* * *
止まりかけていた息をようやく飲み込みながら目を覚ます。喘ぐように呼吸を繰り返しながら左目に触れる。生きた心地がしなかった。
(……ここは……どこなの……)
跳ねる心拍を抑えきれず、暗い部屋に不安が広がる。チェストに手を伸ばすと、明かりの灯ったカンテラが指先に当たり床に落下した。虚しく響く音が耳の奥を震わせる。
(お願い……誰もいないところに……誰にも見つからないように……)
そっと左目に触れる。瞬きのあいだに、フェリクはラエティティアの首都が遠くに見える丘に出た。吹き抜ける風は冷たく頬に触れ、汗が冷えて体温が奪われるようだった。
無意識に、左手に護身用の短剣を握り締めていた。鞘を乱暴に放り、切っ先を左目に突き付ける。その鋭さに背筋が凍り、柄を握り締める手が震えた。
これだけ恨んでいるのに、憎らしいのに、この星屑を捨てられない。
駄目だ、と自分に言い聞かせる。恨んではいけない。憎んではいけない。誰のせいでもない。
違う、と心が叫んだ。だから許せないのだ。望んで生まれ持ったわけではないのに。
(……何が贈り物だよ……)
手から滑り落ちた短剣が地面に突き刺さる。ただの鈍らが恨めしかった。
何度も心に嘘をついた。それでも、捨てられなかった。それを選んだのは自分。恨んでも、憎んでも、すでにその感情は意味を成さないのだ。
『……フェリク……』
ざらついた声にハッと息を呑む。草むらから、影が滲み出している。それは形を成さず、白い丸がふたつあるだけ。それはいくつも現れ、フェリクににじり寄った。
『……やっと見つけた』
『さあ……いこう。みんなが……待ってる……』
フェリクは背後に退いた。手を伸ばすように迫る影から逃れようと後退した瞬間、足が地面から滑り落ちる。そのまま、フェリクの体はモルス川に向かって一直線に落下した。
フェリクは左目に触れる。それと同時に、ざぶん、と背中から水面に落ちた。憎んでいようと、恨んでいようと、フェリクはこの左目に触れざるを得ない。
もういい、このまま沈んでしまおう。肺の中の空気をすべて吐き出し、水底を目指す。このまま深く沈んでしまえば、沫となって消えることができるかもしれない。
(望んだことなんてないのに……。僕は、そんなにわがままなのかな……)
最後の空気が水面で弾けたとき、不意に強い力で腕を引かれた。体が水面に引き上げられ、肺が酸素を求めて喘ぐ。誰かの肩に担ぎ上げられ、フェリクは激しく咽た。
「こんの馬鹿が」
呆れるその声はアンブラのものだった。アンブラは荒々しく水を掻き分け、フェリクを池から引き離した。
「陛下と魔力回路を繋いでおいて正解だった」
肺に溜まった水を吐き出し、フェリクは止めようとしていた呼吸を浅く繰り返す。
「戻ったら陛下が烈火の如く怒るだろうぜ」
「……もう、いいんだ……」
譫言のように呟き、フェリクは目を閉じる。
「は? おい――」
怪訝なアンブラの声を最後に、フェリクの意識は深い暗闇へと吸い込まれていった。
* * *
フェリクの寝室のドアを閉じ、レフレクシオは深く息を吐く。壁に寄りかかるアンブラとともに、ミリアが案ずる表情で待っていた。
「王様、フェリクは?」
「眠っている。……いや、自ら意識を閉ざしている状態だ」
城から姿を消し、アンブラに担がれて戻って来たフェリクは、すでに意識を閉ざしていた。こちらの呼び掛けには一切も反応せず、身動ぎひとつしなかった。
「どういう状況なんだい?」
ミリアの問いに、アンブラは軽く肩をすくめる。
「どういう状況も何も、探していたら池に落ちて来たんだ。そのまま浮かび上がって来なかったから引き上げただけだ」
「どこからか転移したのだろう。部屋からいなくなったことは感知できたが、居場所を探ることができなかった。宝玉の力を使って魔力回路を閉ざしたのだろう」
命の契りを結ぶレフレクシオには、フェリクの魔力回路を辿ることができる。どこに居ても感知できるはずだが、フェリクの気配は一瞬にして消えた。そのまま所在不明となり、アンブラが探しに出ていたのだ。フェリクの魔力が検知されたのは牧場だった。フェリクは池の底に沈もうとしていたらしい。
「でも……もういいんだ、って……どういう意味なんだい」
意識を閉ざす寸前、フェリクはそう呟いたとアンブラは話した。その言葉の真意を知るのはフェリクのみだ。
「疲れちまったんだよ」
アンブラが冷静な声で言う。ミリアは怪訝に彼を振り向いた。
「自分の左目にな」
「……星屑の瞳……」
「陛下を責めるつもりはないが、坊ちゃんは戦いたくて戦ったんじゃない。フォルトゥナ姫の尻拭いをさせられて、今度は綺麗さっぱり忘れられて」
フェリクは森の中の小さな村で暮らすただの牧童であった。星屑が左目に宿らなければ、戦いに巻き込まれることはなかった。そうであれば、いまでも辺境の村で幼馴染みたちとともに平和に暮らしていたはずだ。
「なのに宝玉を捨てることはできない。なんなら、より強固に縛り付けられている」
ミリアは、悲しげに伏せていた視線を上げ、眉をつり上げた。
「ラエティティアに行くよ! フォルトゥナ姫に一発お見舞いして――」
「無駄だ」
短く遮ったレフレクシオに、ミリアはまた泣きそうに顔をしかめる。
「フォルトゥナはすでに光の巫女ではない。あの小娘は、なんの力も持たないただの姫だ」
「じゃあ、世界王国に……!」
「人間の入れる場所じゃない。フォルトゥナ姫が聖域の扉を開いたから宝玉が散ったんだろ」
ミリアの青色の瞳に涙が溜まるので、アンブラは怯んだように言葉を切った。
「じゃあどうしろってんだい!」
「俺に当たるなよ。もう、坊ちゃん自身が宝玉の消失を望むしかないんじゃないか?」
「……そんなの……」
ミリアの声が震える。ついに堪えきれず、その瞳から大粒の涙がこぼれた。
「そんなこと、ずっと望んでいたはすじゃないか。フェリクはもう勇者じゃない……。宝玉は必要ないんだよ……」
世界樹の種がフェリクを勇者たらしめた。しかしそれは、魔王が存在する場合のみの話である。魔王の魂が封印されたいま、フェリクに宝玉は必要ない。もう戦う理由はない。特別な力は必要ないのだ。
「フェリク自身が宝玉の消失を望めば、フェリクはラエティティアに居られた……。そうしないのは、フォルトゥナ姫のためなんだろう……?」
ミリアの瞳から次々と涙が溢れる。戦いをともにしたミリアは、フェリクの苦しみを知っている。ミリアの涙は、いつもフェリクのためのものだった。
「……お前たちは小僧を見ていろ」
レフレクシオはふたりに背を向ける。唸るように泣くミリアを残し、暗い廊下に踏み出した。
この怒りは身勝手なものだ。フェリクを戦いに引き込んだ原因が自分にもあることは嫌というほど思い知らされている。いまさら後悔しても遅いことは身に沁みている。自分にフォルトゥナ姫を責める権利がないことも。
重く溜め息を落としたとき、ローブの袖が花台に引っ掛かった。激しい音を立てて割れた花瓶から、使用人が庭園から摘んで来た花が零れる。その力なく手折れた姿に、無性に腹が立った。それすらも、許されることではないのだろう。この身に降りかかるものは、すべて罪なのだ。
* * *
『フェリク!』
――誰……?
『フェリク……目を覚まして……!』
――もうやめて。もう僕を呼ばないで。
『フェリク、お願いだから……』
――もういい。もういいんだ。
――もう誰も、僕の名を呼ばないで。




