【17】呪縛
ムルタの牧童たちも馬による山羊追いにすっかり慣れ、フェリクが手解きする必要もなくなっていた。フェリクはミリアとともに鶏の世話をするようになり、牧場にはただ平和で穏やかな空気が流れている。フェリクもムルタの風に慣れてきていた。
「フェリク。客が来てるよ」
小屋に顔を出したイゼベルに、フェリクはミリアと顔を見合わせる。鶏の餌やりを他の牧童に任せ、ふたりは牧場の入り口に向かった。柵越しに牧場を眺めるのは、栗色の毛の馬を伴ったエリオだった。
「エリオ!」
驚いて声を上げるフェリクに、エリオはにこりともせず応える。
「久しぶりだな」
「どうしてここに?」
「暇様が様子を見て来いと仰ったんでな」
エリオは相変わらず愛想が悪い。しかし、そんな表情も懐かしかった。
「顔色が悪い。ここでの暮らしが合っていないんじゃないか?」
「そんなことないよ。お茶を淹れてもらおう」
笑みを浮かべて言うフェリクに対し、ミリアは警戒するような表情をしている。
「あたしも同席させてもらうよ」
「好きにしてくれ」
本来なら、エリオにミリアを知る由はなかった。本来の運命であれば、フェリクがムルタに来ることもなかった。エリオもまた、本来の運命から逸脱しているのだ。
リビングにお茶が用意され、フェリクとエリオは向かいの椅子に腰を下ろす。ミリアはエリオを睨み付けたまま、フェリクの右隣の席に座った。
「フォルトゥナ姫は元気?」
「元気だとも。お前がいなくなったことをいまでも寂しがっていらっしゃる」
本来の運命を辿るフォルトゥナ姫。あの笑顔を見るたび、胸が締め付けられる思いだった。
「まだ戻って来るつもりはないのだろう?」
「どうかな……」
「戻る必要なんてない」
曖昧な笑みを浮かべるフェリクに対し、ミリアは厳しい表情で言う。
「フェリクはムルタで暮らしていくんだ」
「それはフェリクの自由だろう」
「自由だからこそ、小僧はラエティティアを離れたのだろう」
落ち着いた声に振り向くと、レフレクシオがリビングに入って来る。ラエティティアの者が来たとの報せを受けて来たのだろう。かつて敵対した者に対し、エリオは険しい表情になる。
「ああ、そうだ」
フェリクにはふたつの選択肢があった。ラエティティアで生きること、ムルタで生きること。ムルタで生きることが、フェリクの選択であった。
「それで、いまさら小僧になんの用だ」
レフレクシオの問いに、エリオはポーチから一葉の封筒を取り出す。それをフェリクに差し出した。
「姫様から手紙を預かっている。返事をもらって来いとのことだ」
しかし、それがフェリクの手に渡るより早く、ミリアによって奪い取られた。
「すべてをフェリクに押し付けて何もかも忘れた姫から手紙だって? これ以上、フェリクを苦しめる者は許さないよ!」
眉をつり上げるミリアに対し、エリオは冷静な表情のまま肩をすくめる。
「随分と入れ込んでいるようだ。だが、フェリクの自由を奪い取るべきではないのでは?」
「そっちこそ、いい加減、フェリクを縛り付けるのをやめるべきじゃないかい?」
火花が散りそうな睨み合いを続けるミリアとエリオに、フェリクは慌てて言った。
「落ち着いて。そろそろ両親にも手紙を出さないといけないと思ってたし、ついでに預かってもらえると助かるよ」
フェリクが曖昧な笑みを浮かべてそういうと、エリオは小さく頷いた。ふん、と鼻を鳴らし、ミリアはようやくフェリクに手紙を渡す。
レフレクシオの使用人が持って来た便箋を前に、フェリクは嫌な汗が流れていた。エリオはのんびり紅茶を飲んで待っているが、ミリアとレフレクシオは警戒するように、はたまた監視するようにフェリクを眺めている。下手なことは書けない。そう思わせるには充分な気迫だった。
フォルトゥナからの手紙には、可愛らしい文字で丁寧な文章がしたためられていた。
『お元気ですか? そちらでの暮らしはいかがですか? あなたが不自由なく暮らせていることを祈っています』
頭の中に微笑むフォルトゥナの姿が浮かぶ。
フォルトゥナの記憶の中には、微かにフェリクのことが残っている。だが、いまのフォルトゥナはフェリクの知るフォルトゥナではない。それを虚しく思うのも確かだ。自分たちの戦いが意味のないことだと言われているように感じる。
書いてはならないことばかりが頭に浮かぶ。そんなことを書いても意味はない。フォルトゥナはすべて忘れてしまったのだ。
(……そうさせたのは、僕だ)
その選択は間違いではなかった。そう信じていたかった。
なんとか言葉を振り絞って返事を書き切ると、それだけで大きな疲労がフェリクを襲っていた。両親の手紙には近況を記し、不自由なく暮らしていることを伝える。そうしてできた二葉の封筒を、エリオは丁寧にポーチにしまった。
「ここで不当な扱いを受けているなら、すぐに報せるように」
「心配しすぎ。よくしてもらってるよ」
ミリアとレフレクシオに睨まれながら、ほんの少しも怯むことなくエリオは去って行く。あの死闘を戦い抜いた彼も、圧に怯むほど狭量ではないのだ。
「もうフォルトゥナ姫の手紙は見ないほうがいいんじゃないかい」
城に戻りながらミリアが言った。曖昧な笑みを浮かべるフェリクに、ミリアは眉をつり上げる。
「あんた、ずっと辛そうな顔してたよ。本当は苦しいんだろ?」
フェリクは何も言えなかった。ミリアの言うことを認めてしまえば、すべてが崩れてしまうような気がした。
「あんたもフォルトゥナ姫のことを忘れるべきだよ」
「……そんなわけにはいかないよ」
フェリクは無意識に左の目元に触れていた。この星屑がある限り、すべてを忘れることなどできない。いくら忘れようともがいても、この瞳がフェリクを現実へと引き戻す。きっと、これからも。
俯くフェリクの顎に、レフレクシオがそっと指を添える。視線を掬うように顎を引き、その星屑を覗き込む。
「私が忘れさせてやる」
かつて星屑を宿していた瞳がまっすぐにフェリクを見据える。
「フォルトゥナのことを考える隙もないくらい、私が愛してやる」
その途端、フェリクは耳まで熱くなるのを感じた。
「みっ、ミリアがいる前で、そんな……!」
「ミリアがいなければいいのか」
「……!」
慌てふためくフェリクの背後で、おやおや、とミリアが笑う。
「とんだ邪魔をしちまったようだね」
否定の言葉が上手く出て来ないうちに、フェリクはレフレクシオの肩に担ぎ上げられていた。
「お前の望み通りにしてやろう」
「いや、違っ……! 助けて、ミリア!」
「王の寵愛を賜れるなんて羨ましい限りだよ」
「ミリアの薄情者!」
へらへらと笑うミリアを恨みつつ、こうなっては逃げ出せない、とフェリクは諦めるしかなかった。レフレクシオの腕の中から逃げ出すことは、フェリクには到底できないことなのである。
抵抗が無駄であることを悟ったフェリクを、レフレクシオは自分の私室に連れ込んだ。どぎまぎするフェリクをベッドに下ろし、呆れたように息をつく。
「お前はいつになったら私のものだという自覚ができるのだ」
「それは……いや、でも、どうして僕を……」
「まだそんなことを言っているのか」
レフレクシオは目を細め、とんとフェリクの肩を押す。フェリクが反応できずにいるあいだに、小さな体に覆い被さった。
「わからせてやる必要があるな」
ようやく状況を飲み込んで顔が熱くなるフェリクに、レフレクシオは不敵な笑みを浮かべる。抵抗が許されたとしても、フェリクにはすでに為す術がない。それを受け入れるしかなかった。
* * *
「まったく、やきもきしちまうよ」
リビングで紅茶を飲みながら、ミリアは溜め息とともに零した。向かいのソファに腰を下ろすアンブラは、諦めたような表情で肩をすくめる。
「外野がどうこうできることじゃない」
「わかってるよ。だからこそ見ていてイライラするんじゃないか」
フェリクは決してとぼけているわけではない。ただ信じきれていないだけなのだ。
「あいつは本当の愛ってものを知らない」アンブラが言う。「それを享受することを阻害されていたんだ」
「本当に腹が立つね。神だかなんだか知らないけど、一発お見舞いしてやりたいよ」
「まあ、終わり良ければ総て良しって言うだろ。いまは黙っておくしかないさ」
ミリアは気が長いほうではない。いつか乱暴に背中を押してしまうのではないかと自分を疑っている。それがするべきではないことはわかっているのだが。
「余計なことはするなよ」
「言われなくてもわかってるさ」
フェリクはいまだ、いつも憂鬱そうな顔をしている。ミリアには、早くすべての呪縛からフェリクが解き放たれることを祈っていることしかできなかった。




