【15】影
ムルタの朝は馬の手入れから始まる。馬は自分の相棒である。手入れを施されない馬が主に心を開くことはない。心を閉ざした馬は走らない。フェリクも毎朝、丁寧にルークスにブラシをかけてやる。ミリアも愛馬ソアラを心から愛していた。
馬の手入れに慣れているふたりには、この時間は雑談に使われることが多い。そんなとき、昔話をするのもよくあることだった。
「そういえば、そんなこともあったねえ」
ミリアはしみじみと呟く。かつての戦いについて、ミリアが一番の理解者だった。
「主人をちゃんと憶えているなんて偉いよ、ルークス」
当然、と言うようにルークスは鼻を鳴らす。フェリクはそんなルークスの頬を叩いて撫で、鬣にブラシを通した。
「あのとき、あたしを連れて行って正解だっただろう?」
「本当にそう思うよ」
この生まれ変わったムルタにおいて、勇者だったフェリクを憶えているミリアがいたことは、フェリクにとって最大の僥倖であった。それだけでフェリクの心は少し軽くなっていた。
「フェリク、ミリア」
愛馬の手入れが終わろうという頃、馬小屋の外からイゼベルが顔を出した。
「鶏に餌をやってもらえるかい?」
「あいよー」
その瞬間、フェリクはハッと足を止める。左目に触れた微かな感覚に、踵を返した。
「ごめん、用事を思い出した!」
「フェリク⁉」
驚くミリアの声を振り切り、フェリクは馬小屋を飛び出す。背後で、あら、とイゼベルの声が聞こえた。
「陛下、ごきげんよう」
逃げなければならない。そう思ってしまったのだ。
(僕が接近に気付けるんだから、逃げても無駄なのに!)
やり直す前の運命で交わした命の契り。レフレクシオはそれによりフェリクがどこで何をしていようとわかると言っていた。現に、フェリクはその接近に気付くことができている。逃げても無駄なのだ。
牧場を飛び出し、町をも飛び出す。昨夜のことを思い返すと、顔が熱くてしょうがない。ミリアが曖昧な物言いをするからだ、と心の中で責めてみても意味はない。一度でも意識してしまったことは取り消しようがないのだ。
息を切らせながら、昨夜のことが頭を離れないまま丘を登る。故郷を眺めれば少しでも落ち着くかもしれない。そう考えながら歩いていたとき、何かにぶつかった。
「おっと」
衝撃で倒れそうになったフェリクを支えるのは、灰色の髪の背の高い青年だった。その青年の外見に、フェリクは少しだけ違和感を覚える。
「すみません……」
「そんなに急いでどうしたんだい」
「いえ、別に……」
また丘の頂上に向かうフェリクを、青年が襟首を掴んで止めた。青年は目を丸くするフェリクをつくづくと見つめる。
「もともとちんちくりんだったのがさらにちんちくりんになったな」
「えっと、あなたは……?」
首を傾げるフェリクに、青年は不敵に微笑んで見せた。
「いまはアンブラと呼ばれている。お前に剣で負けた影さ」
「あっ、あのときの……! そうか、昨夜の声……」
そこでフェリクはようやく違和感の正体に気が付いた。青年――アンブラの顔は自分に似ているのだ。フェリクをいくつか大人にしたような顔付きだ。アンブラはやり直す前の運命でフェリクの影として敵対した。その名残りなのだろう。
「で? 何をそんなに急いでいるんだ?」
「いや、別に……」
何か嫌な予感がして、フェリクはアンブラの脇を擦り抜けようとした。しかし、アンブラは小脇に抱える形でフェリクを拘束する。
「そんなに逃げ回ったって無駄さ。陛下にはお前がどこに居たってわかるんだから」
やっぱり、とフェリクは心の中で呟く。アンブラはフェリクがなぜここまで来たかを知っているのだ。
「別に逃げているわけでは……ちょっ、放し……力つよ……」
アンブラの腕力は、フェリクの細腕では敵わないことは明らかだった。十四歳のフェリクと大人の背格好であるアンブラでは、圧倒的な力の差があるらしい。
「逃げるってことは、何か後ろめたいことでもあるのかい」
「そうじゃないけど……」
アンブラが楽しむような口調であることが無性に腹立たしい。ともすれば、フェリクが逃げ回っている理由を知っているのかもしれない。
「アンブラ」
辿って来た道のほうから聞こえた声に、フェリクは思わず肩を跳ねさせる。
「どうも、陛下。捕まえておきましたよ」
フェリクの背後で、レフレクシオが呆れたように溜め息を落とした。このままではアンブラの腕から抜け出せそうにない。
(もう、こうするしかない……!)
フェリクは左の目元に触れた。その瞬間、ふ、と体が軽くなる。それと同時に、背中から水面に落下する。ようやく解放された体で水上に出ると、ざわつく声が聞こえた。
「フェリク⁉」
振り向くと、驚いた表情のイゼベルとミリアが駆け寄って来る。フェリクは牧場の池に落下したのだ。
「どうして池の中に?」
イゼベルは怪訝な表情で問いかける。フェリクは適当に笑いながら池から上がった。
「少し頭を冷やしたくて……」
「どこから入って来たんだい?」
不思議そうなミリアに、いや、と応えつつブーツの中に溜まった水を捨てる。
「転移して来ただけ……」
「それにしたって」と、イゼベル。「わざわざ水の中に転移しなくたっていいんじゃないかい」
「いえ、転移できる場所が決まっていて……飛べるのは水の中だけなんです」
服を絞るフェリクに、ミリアが溜め息を落とした。
「フェリク。ちょっと来な」
ミリアはフェリクを小屋の中に引っ張る。休憩所に入ると、タオルで乱暴にフェリクの頭を拭いた。
「そんなあからさまに王様を避けなくたっていいじゃないか」
「……だって……僕はどうしたら……」
冷たい池の水で冷えたと思っていた顔がまた熱くなる。そんなフェリクに、ミリアは溜め息とともに目を細めた。
「運命の勇者サマが聞いて呆れるよ」
「ミリアだって経験のないことは戸惑うでしょ!」
「それはそうかもしれないけど、あんたの場合、正面からぶつかるしかないんじゃないかい」
「……正面から……」
そう呟くと、顔はさらに熱を帯びる。タオルを頭にかぶったまま、フェリクは立ち上がった。
「もう一度、頭を冷やして来る!」
「おやめ! 風邪ひくよ!」
休憩所から飛び出そうとしたフェリクは、何かにぶつかってバランスを崩す。腕を掴まれ顔を上げると、レフレクシオが呆れたように目を細めていた。
「宝玉の力を使ってまで私から逃げたいのか」
「あ、いや……その……」
レフレクシオの目を見ることができず、フェリクの視線は宙に彷徨う。そうしているうちに、フェリクは肩に担ぎ上げられていた。
「そのまま持って行っておくれよ、王様」ミリアが呆れた声で言う。「これじゃ仕事になんないよ」
「ああ、わかった」
「ミリア! 僕を裏切るのか!」
「人聞きの悪いことを言わないどくれ。これもあんたのためさ」
ミリアの薄笑いは、どこか面白がっているような色も湛えられている。フェリクにレフレクシオに敵う力がないことは明らかで、こうなればもう逃げることはできないだろう。
レフレクシオはフェリクを抱えたまま城に戻る。その腕は力強くフェリクを捕まえており、身動きを取ることすら叶わない。どうしよう、と頭の中をいくつもの言葉がぐるぐると回る。
(もう一度、転移して……)
この腕から逃れる方法はそれしかない。しかし――
「小僧」
レフレクシオの低い声に、左目に伸ばしかけていた手が止まる。
「また宝玉の力を無駄遣いしたら、問答無用で抱くぞ」
あまりに恐ろしい声でレフレクシオが言うので、ひえ、とフェリクは短い声を漏らした。
レフレクシオがそれを実行しないことはフェリクにもわかっている。自分に合わせてくれているということも重々承知している。だからこそ逃げたくなってしまうのだ。
フェリクが運ばれたのは、レフレクシオの私室だった。レフレクシオはドアノブに手をかけつつ、近くを通りかかった侍女に声をかける。
「フェリクの着替えを持って来い」
「かしこまりました」
私室に入ると、レフレクシオはどぎまぎするフェリクをベッドに優しく下ろす。棚からタオルを取り出し、乱暴にフェリクを包んだ。ずぶ濡れのフェリクを抱えていたため、レフレクシオの肩も濡れていた。
「くだらないことに宝玉の力を使うな」
「はい……」
「あれだけ逃げ出さなかった勇者が情けない」
返す言葉がないフェリクに、レフレクシオは呆れつつ触れるだけの口付けを落とす。フェリクがまた頭を冷やしたくなっていると、レフレクシオは真剣な表情になった。
「世界王がお前を狙っている」
「……えっ……」
フェリクはまた言葉を失う。あまりに予想外な話だった。
この世界のどこかに存在するとされている、世界樹を有する大地テラ。そこに築き上げられた国を、人々は「世界王国」と呼んでいる。その王国には「世界王」が存在し、すべての世界を統治しているとされている。フェリクにとって、はるかに遠い世界のものであった。
「世界樹の種を有する者だ。世界王国の連中が放っておくはずがない」
フェリクが左目に宿す宝玉。それは最初の勇者アナスタシアへの最高神アーテルからの贈り物だった。最高神アーテルはすでに消滅したとされており、世界樹は世界王国が管理している。世界王国は、世界樹の種を有するフェリクには決して遠くない世界なのだ。
「そうなる前に、お前を私のものにする」
真っ直ぐにフェリクの瞳を見つめるレフレクシオに、フェリクはまた顔の熱がぶり返して思わず俯いた。ミリアはこのことを言っていたのだ。おそらく、アンブラも知っているのだろう。
「……それにしても、水の中に転移するとはな」
フェリクの首にかかる髪を撫で、レフレクシオが意味深に微笑む。
「私に脱がせてほしくてわざと濡れたのか?」
「……はえっ……⁉」
情けない声を出すフェリクに対し、レフレクシオは余裕の表情で笑っている。それが無性に悔しくなり、フェリクはタオルで自分の顔を覆った。そうしているあいだに、侍女がフェリクの服を届けに来ていた。
* * *
ムルタの夜は静かだ。静かでなければならない。いまのムルタは、頽廃の王国ではない。争いとは無縁の、豊かで穏やかな大地だ。
だから、粗末な影の踏み入れることが許される場所ではない。
剣に付いた塵を払い、風に乗って消えていく影を見送る。
「なんだ。世界王の手下だって陛下が言うから、期待しちまったじゃねえか」
誰にでもなく呟く。もうその声を聞き届ける者はない。
「この顔はまた役に立ってくれそうだな」
誰かに似た顔を撫でる。この顔を持って生まれたことは、宿命なのだろう。
ただひとつの宿命。そのために。




