【13】利己[2]
レフレクシオがフェリクの寝室を出ると、暗い顔をしたミリアが壁に寄りかかっていた。レフレクシオに気付いたミリアは、心配そうな表情で歩み寄って来る。
「王様、フェリクは?」
「眠っている」
レフレクシオに触れられ、フェリクは気を失うようにして眠りに就いた。それについてミリアに話す必要はないだろう。
「ねえ、王様。フェリクは魔物に自分の村を襲われたんだよね」
「ああ。重なったのだろうな」
過去がなかったことになっても、フェリクは消えなかった記憶に苛まれている。その一端が自分であるということに、レフレクシオは自分自身に対する憤りを持ち続けていた。
「あたし……どうしてもフォルトゥナ姫を許せないよ」
「許す必要などない。フォルトゥナは間違いなく罪を犯した」
それはまるで自分に向けて言った言葉のようだった。その罪から逃れることができないのは、フォルトゥナだけではないのだ。それをただ誤魔化しているだけに過ぎない。自分が卑劣であることは自覚していた。
「でも、フェリクは……」
ミリアは悲しげに眉根を寄せる。ミリアはいつもフェリクを案じている。記憶を保持している者同士、ミリアはフェリクの気持ちがよくわかるのだ。フェリクが苦しんだ分だけ、ミリアも憂いを帯びている。
「また夜中に目を覚ますかもしれん。ミルクでも用意しておけ」
ミリアは小さく頷く。もしフェリクが夜中に目を覚ませば、ミリアのいる屋上に行くだろう。ミリアはフェリクの心の支えになっている。それはフェリクに安らぎを与える。それは自分にできないことである事実が苛立ちを与える。あの行動も、きっと自分のエゴなのだろう。すべてフォルトゥナの罪だと責め立てることはできないのだ。
* * *
足を引っ張られ水底に沈むような夢から目を覚ますと、窓の外はまだ真っ暗だった。重い体を起き上がらせ、フェリクは大きく息を吐く。その途端、眠りに就く直前のことが頭の中に思い浮かんだ。
(また触れられただけで気を失ってしまった……)
顔が熱くなるのと同時に、自分の考えたことに愕然とした。
(だけって……気を失わなければ、って……?)
耳まで熱くなるのを感じながら、頭を振ってその考えを払おうとする。
(そんな馬鹿なことを考えるのはやめよう……)
レフレクシオは仕方なくそうしただけ。そう思えば、少し冷静さを取り戻せたような気がする。自分があまりに泣くから、そうしただけ。
(こんなの、ただの甘えだ)
自分に溜め息を落とし、ベッドから立ち上がる。上着を羽織って部屋を出ると、ちょうど巡回の兵が歩いているところだった。もうすっかり慣れたもので、軽く会釈をして階段へ向かう。屋上には、淡い光が灯っていた。
「おや。また目が覚めちまったのかい」
振り向いたミリアが微笑むと、フェリクの胸中に安堵が広がる。
向かいの椅子に腰を下ろしたフェリクに、ミリアはティーコゼーの下からポットを取り出し、カップに注いで差し出した。温くなったそれはホットミルクだった。
「怪我をした人たちは大丈夫だった?」
「ムルタの民がこのくらいでやられるわけがないよ。あたしだって、あれだけの怪我をしても平気だっただろう?」
ミリアは軽く笑う。ムルタの牧童たちは戦闘訓練を受けていない。野盗により傷付いた者は少なくないはずだ。それでも、ミリアがそう言うならきっとその通りなのだろう。
安堵の息をつきつつ、フェリクは月を見上げる。月はどこから見ても同じように明るく輝いている。それがフェリクに虚しさを与えることもある。自分を照らすあの光が、見えないようにしたものを透かすように感じられる。
「……ミリアは、記憶を持ったままだったこと、どう思う?」
静かに問いかけたフェリクに、そうだね、とミリアはドライフルーツを口に放りながら言った。
「最初は戸惑ったよ。王様にもただの夢だと言われたし」
もし本当に夢であったなら、それは長い夢だったことだろう。夢で片付けられるのならば、フェリクも少しは救われたのかもしれない。
自分の選択の結果であることは嫌と言うほど自覚しているが、そう思うたびに胸が痛んだ。こんな苦しみを手放すことができるなら、それより良いことはきっとないだろう。しかし、それは許されないことなのだ。
「でも、いまは記憶を持っていてよかったと思ってるよ」
ミリアが明るく笑うので、フェリクは顔を上げた。
「あんたの苦しみを少しでもわかってやれるんじゃないかって思えるんだ」
「……本当に、ミリアがいてくれてよかったよ」
「そいつは光栄だね」
ミリアがいなければ自分はとっくに潰れていたかもしれない。フェリクのその考えは間違っていないだろう。自分と同じく記憶を保有している者がいる。それだけで、なかったことになった過去にも少しは意味があったのではないかと思えるような気がした。
「……僕は、どうしてもフォルトゥナ姫のそばにいられなかった」
それは認めることのできない事実であった。ムルタに来る前のフェリクにとって。
「あの人が笑ってくれることを願っていたはずなのに」
その選択が間違いであったのではないかと、何度も考えた。そうであってはならないはずなのに、何度も自分の過去を呪った。そうせずにはいられなかった。だが、それも自分の選択の結果であった。
「あんたは間違ってないよ」ミリアは力強く言う。「あたしが同じ立場だったらって考えると、腹が立ってしょうがないよ」
フェリクの視線は、カップを持つ手に落ちたまま。それでも、ミリアはまた力の込められた声で言った。
「ラエティティアに戻る必要なんてない。さっさと王様にもらわれちまえばいい」
ミリアの口から出た信じられない言葉に、フェリクは思わず目を剥いてミリアを振り向く。ミリアはあくまで真剣な表情だ。
「ど、どういうこと……?」
「おや、何も聞いていないのかい? 王様は――」
「おっと、そこまで」
不意にそんな声が聞こえ、ミリアは口元に手を当てる。フェリクが辺りを見回しても、どこにも誰の姿もない。
「あんたがバラすのは興覚めだぜ、ミリア姫」
それは男性の声だった。どこか楽しげな色を湛えている。
「それもそうだね。王様から直接に聞くといい」
「いやっ……え、いや……って言うか誰⁉」
「気にしなくていいよ。あんたの敵ではないから」
「いまはな」
その声もミリアも説明する気はないらしい。混乱したままのフェリクに、ミリアはさらに言った。
「とにかく、フォルトゥナ姫のことなんてさっさと忘れちまえってことさ」
「……それは、難しいかもしれないね」
フェリクはまた手元に視線を落とす。そう試みたこともあった。それでも、どうしてもできなかった。きっと、忘れることは許されないのだろう。
ミルクを飲み干し、フェリクは立ち上がった。
「そろそろ寝るよ」
「あいよ。また明日」
「うん。おやすみ」
最後にもう一度、辺りを見回すが、先ほどの声の主と思われる者はいなかった。
屋上から部屋に戻りながら、フェリクは先ほどのミリアの言葉を思い出す。
――さっさと王様にもらわれちまえばいい。
その途端、また顔が熱くなった。その意味がわからないほどフェリクも子どもではない。
(いや、違う。勘違いするな。卿はただ、仕方なく……)
そう思ってみても、心拍は落ち着かない。フェリクは自分に経験がないことを呪った。そうしても意味がないこともわかっていた。
(勘違いしちゃいけない……。卿はただ、僕を哀れに思ってムルタに連れて来ただけ……)
それ以上の意味があると思ってはいけない。例えミリアの言うことが本当だとしても、それを受け入れてはならない。自分はムルタのためにここにいるのではない。ただ自分を傷から遠ざけるためだけの利己的な行為。それ以上のことを期待してはならない。ここにいるのは、自分のためだけのことなのだ。




