【0】砂の王国[2]
なんとなくよく眠れない夜を過ごした翌日。フェリクは町の厩に愛馬ルークスを迎えに行った。たったひと晩、離れていただけだというのに、ルークスはまるで長い別れを強いられていたようにフェリクの訪れを喜んだ。フェリクに鼻を摺り寄せ、フェリクが鬣を撫でてやれば、満足そうに鼻を鳴らす。
「信頼し合っているんだねえ」
その光景を眺めていたイゼベルがしみじみと呟いた。イゼベルが頬を撫でる黒毛の馬が彼女の愛馬らしかったが、ルークスに比べるととても落ち着いている。
「まるで兄弟みたいだよ。いつから一緒にいるんだい?」
「えっと……二ヶ月、かな」
「二ヶ月⁉」イゼベルは目を丸くした。「まさか、嘘だろう?」
「いえ……十四の誕生日に父からもらったんです」
イゼベルが驚くのも無理はない。ルークスはもとの飼育主にすら懐かなかった気難しい馬だ。ルークスの前には餌があったが、少しも口を付けた跡がない。ルークスもフェリク同様、長い夜を過ごしたことだろう。
「信じられないよ……。始祖が遊牧民だったムルタの民だって、馬を手懐けるのに最低でも一年はかかるよ」
イゼベルが自分の愛馬を見て、こいつもじゃじゃ馬だったよ、と片眉を上げるので、フェリクは小さく笑った。
ムルタの民にとって、馬は財産となる。ひとりに一頭が与えられ、生涯をともにする。フェリクも、もう二度とルークスから離れるつもりはなかった。
イゼベルの案内で、フェリクは町の北に向かった。ラエティティア王国の紋章が描かれた鞍を着けるルークスは、やはりムルタの民の視線を引き寄せる。ラエティティア王国の若者がこの国に入ったことがどれくらい広まっているかは判然としないが、やはりその視線は警戒と好奇だった。
農地を抜けた先に、広い流鏑馬場がある。ムルタはかねてより、弓の腕と馬の乗りこなしで初めてひとりの人間として認められると言っても過言ではない風習があった。かつて滅びゆく国であった砂漠のムルタ王国でも、流鏑馬場だけは立派に保持されていた。それがムルタの民の矜持だった。
流鏑馬場には、多くの民に囲まれるレフレクシオの姿がある。民はラエティティアの人間が流鏑馬をやるという噂を聞きつけて来たのだろう。いまのフェリクは、その突き刺さるような視線に怯むほど狭量ではなかった。
「来たか」
フェリクを認め、レフレクシオは少しだけ口端をつり上げた。
ルークスはレフレクシオの姿を見ても体を硬くすることはない。いまはフェリクがそばにいれば落ち着いていられるようだ。
「ここへ来た理由はわかるな」
レフレクシオの言葉に合わせ、そばにいた女がフェリクに弓と矢筒を差し出す。それはルークスの荷物に入れたままになっていたフェリクの愛用の弓で、大事に保管されていたらしい。弦を弾くと、悪戯にいじられた様子もない。狩りを主流とするムルタの民は、弓の重要性をよくわかっている。余所者の物だからと乱雑に扱うことはなかったようだ。
フェリクが小さく息をついて顔を上げると、レフレクシオはまた軽く口端を上げた。
民の視線が集まる中、フェリクはルークスに跨った。あっちがスタートだ、とイゼベルが指差した先に向かいながら、フェリクは何度か深呼吸を繰り返す。民の表情にはまだ不審の色が湛えられている。ここで集中力を欠けば、ムルタの民の信用を得る機会はそう多くないだろう。
腰に矢筒を巻き、足を鐙にしっかりと固定する。ルークスをぽんぽんと叩いて撫で、またひとつ息をつく。弓を持つ左手に意識を集中。そして、駆け出した。
これもひとつの選択だった。
駆け出すこと。弓を構えること。矢を射ること。
宿命ではない選択がいくつもあった。そのたびに、自分の意思で選択して来た。それが正しいことだと信じて来た。
後悔しないための選択だった。ひとつも後悔しなかったと言えば嘘になる。それでも、ひとつひとつを後悔しては時間が足りなくなる。そのたび、自分を麻痺させていたのかもしれない。そうすることで、自分を守っていたのかもしれない。
フェリクの放った矢は、次々と的の真ん中を射抜く。すべての音が消え、ルークスの息遣いだけが聞こえる。まるでこの空間だけ切り取られたような感覚に意識を集中させた。
最後の一本も的の中心に突き立てられ、ルークスはゆっくりと足を止める。その瞬間、すべての音と色が戻って来たように歓声が溢れた。ムルタの民たちが手を叩いたり指笛を吹いたりする音が、フェリクを歓迎するものだとよくわかった。
「すごいよ、フェリク!」イゼベルが駆け寄って来る。「さすが陛下が見込んだだけのことはあるね!」
フェリクは肩で息を整えながら、ムルタの民を振り向いた。フェリクを湛える声や感嘆が聞こえた。その中で、レフレクシオは当然といったように不敵に微笑んでいる。
ルークスから降りたフェリクに、レフレクシオはどこかに視線を遣ってから言った。
「貴様を待っている女がいる。ついて来い」
「え?」
またもレフレクシオがフェリクの返答を待たずにさっさと踵を返すので、フェリクはイゼベルにルークスを預け、急いでそのあとを追った。背の高いレフレクシオが大股で歩くと、フェリクは自然と小走りになった。
レフレクシオはある一軒の家に入って行く。流鏑馬場がよく見える建物で、一階は弓を作るための木材や動物の角が乱雑に置かれていた。住居ではないらしい建物の階段を上がり、レフレクシオは黙ったまま屋上に出る。その足音で、流鏑馬場を見下ろしていた少女がふたりを振り向く。ムルタの民には珍しい黒髪で、褐色の肌に映えるのはフェリクと同じ空色の瞳。その表情は、どこか窺うような色が浮かべられていた。
「……フェリク」
少女はそう呟き一歩を踏み出すが、躊躇うように足を止める。
「……フェリクだろ? あたしのこと……憶えてる?」
不安そうに言う少女に、フェリクは呆然としたまま呟いた。
「……ミリア……」
その途端、少女は満面の笑みを浮かべて駆け出した。そのままの勢いで飛び付いて来たので、フェリクは勢いを受け止めきれず背後に倒れ、床にしたたか尻を打つ。
「い、たた……」
「あ……ごめん!」
少女――ミリアは謝り、慌てて立ち上がるが、その表情にはまだ喜びの色が湛えられていた。尻を押さえつつ体勢を持ち直したフェリクの手を握り締め、この再会を心から喜んでいる。フェリクもその温かい手のひらを握り返した。
「信じられないよ。まさか、フェリクも憶えてるなんて……」
「僕も信じられないよ」
「神々はミリアを見逃していたようだ」レフレクシオが静かに言う。「私も、ミリアの夢の話を聞いたときには驚いたがな」
「嘘つけ!」ミリアが不満げに拳を振り上げる。「驚いてなんてなかったじゃないか。ただの夢だって言ってたよ!」
「愚か者め」レフレクシオは鼻を鳴らす。「私はムルタの王なるぞ。だが、確信がなかったのでな」
ローブを翻し、レフレクシオはふたりに背を向ける。レフレクシオはミリアとの再会のためにフェリクをここへ連れて来たらしい。その気遣いに、フェリクは心の中で感謝を呟いた。
「すごかったよ、流鏑馬。さすがだね」
「ありがとう」
「でも、どうしてあんたがムルタにいるんだい?」
その問いにフェリクの表情が曇るので、ミリアの顔からも笑みが消える。そんなミリアに、フェリクは苦笑いを浮かべた。
心から喜べる再会と、そうでない再会があった。
それも、選択の結果だった。
だから憎んではいない。
それでも、時々、虚しくなることがある。
選択を間違えたか、それとも、宿命を恨むべきか。フェリクには、それがわからなかった。
「……話してよ、フェリク」
ミリアは真っ直ぐにフェリクの瞳を見据える。フェリクはひとつ息をつき、小さく頷いた。
「長くなるけど、いいかな」
隣り合わせだった宿命と選択。
いつも自分の選んだ道を進んで来たようで、それもまた、宿命だったのかもしれない。