【13】利己[1]
「フェリク、手紙が来てるよ」
ルークスの手入れをするフェリクに、ミリアが声をかけて来た。礼を言って受け取った封筒には、ラエティティア王国の封蝋が押されている。差出人は見なくてもわかった。
「ありがとう、ミリア」
フェリクは手紙をポーチに入れ、ルークスの手入れを再開した。ミリアも隣に並ぶ自分の愛馬ソアラの手入れを始めならが、窺うように言う。
「返事、出してないだろ」
「……ちゃんと読んではいるんだ。ぜんぶ取ってあるし」
「なんで返事してやらないんだい?」
「……手紙だと、言ってはいけないことも書いてしまいそうなんだ」
望まぬ運命を歩まされたこと。
戦いたくもないのに戦わされたこと。
本当は、心のどこかで恨んでいるのかもしれないこと。
すべて自分で選択して来たはずなのに、心の中の暗い部分が「それは違う」と叫んでいるのも確かだ。それすら押し殺して生きてきた。
「……本当は、フォルトゥナ姫に忘れられたくなかったんだろう?」
ソアラの毛を梳く手を止めず、ミリアは静かに言う。フェリクは答えることができなかった。
「どうして宝玉に望まなかったんだい? あんたには、自分の思い通りの運命を手に入れる権利があったはずなのに」
宝玉は触れた者の望みを叶える。宝玉を有するフェリクは、その気になれば望みを叶えることができるのだろう。だが、フェリクはいままでそれを選択しなかった。
「……これでよかったんだ」フェリクは呟くように言う。「フォルトゥナ姫は、すべて忘れなくちゃならなかった。そうでないと、あの人の笑顔は二度と見られなかった」
「……それって、本当にあんたが見たかったものなのかい?」
心に被った仮面の裏側を見透かすように、ミリアは真っ直ぐにフェリクを見つめる。ミリアの澄んだ瞳を見つめ返すことができず、フェリクはまたルークスの毛に櫛を通した。
「そのために、僕は戦ったんだよ」
「…………」
そうして笑っていなければ、すべての意味がなくなってしまう。
失った時間も、なかったことになった時間も。
守らなければ意味がない。
「……じゃあ、どうしてあんたはフォルトゥナ姫のそばにいられなかったんだい」
それがすべてだった。それでもフェリクは、薄く微笑んで見せる。
「それは僕のエゴだよ」
ミリアは悲しげに眉をひそめる。それでも、フェリクの答えは変わらない。変えてはならない。そうしなければ、仮面は剥がれてしまう。
この仮面を剥がしてはならない。心の叫びを押し殺すために。
自分を保つために。
* * *
その夜、フェリクはけたたましく鳴り響いた警鐘で目を覚ました。飛び起きて窓の外を覗き込むと、牧場のほうから喧騒が聞こえて来る。激しい金属音と怒号が辺りに響いていた。
フェリクは手早く着替えを済ませ、愛用の剣を手に、弓を腰に装着して窓から飛び出す。一階のバルコニーに着地し、さらに下へと降りた。
眠りに就いていた町はその騒ぎを聞きつけ、家々の窓から民が顔を出しているのが見える。フェリクは裏道を抜け、牧場を目指した。徐々に近付く騒音が、牧場で戦闘が起きていることを理解させる。
牧場へ駆け込むと、鎧を身に着けた粗暴な男たちがそれぞれの武器を手にする民に襲い掛かっていた。山羊小屋の扉が開いている。山羊を盗もうとしていた男たちに気付いた者が駆け付けたのだ。しかし、野盗たちの力が勝り民は傷付いて倒れている。
フェリクは牧童の少年を狙っていた男の切っ先を愛剣で受け止めた。その勢いを受けたまま、体を翻して男を蹴り飛ばす。別の女を狙っていた男に剣を振り下ろすと、それは簡単に受け止められた。フェリクは地を蹴り、振り下ろされた切っ先を跳躍で躱す。
そのとき、左目が激しく疼いた。
剣を握る左手に、体中の血液が集中していくような感覚が伝わる。左目の視界がぼやけ、野盗の輪郭が滲んだ。心臓が激しく脈打ち、体が熱くなる。
「およし、フェリク!」
イゼベルの声が聞こえるより一瞬だけ早く、フェリクは駆け出した。その動きについて来ることのできない野盗に剣を振り下ろす。それは男の肩口を斬り裂いた。
別の男に視線を遣ると同時に再び地を蹴る。フェリクの激しい一撃を受け止めた粗末な剣は、その衝撃に耐えられず呆気なく折れた。男は悲鳴を上げ、フェリクに背を向ける。野盗たちはフェリクの気迫に怯んでいた。
「おやめったら! それ以上やったら……!」
イゼベルの声にも応えず、フェリクは再び剣を振り上げた。
そのとき――
「フェリク!」
悲痛なミリアの叫びとともに、左腕を掴まれる。それにより、フェリクはようやく我に返った。
「それはただの人間だ。お前の剣では、いとも簡単に事切れよう」
レフレクシオの静かな声に、フェリクの身体から力が抜ける。フェリクの手から剣を抜き取ったレフレクシオはゆっくりとフェリクの腕を放す。支えを失ったフェリクはその場に崩れ落ちた。
「去れ」
レフレクシオは怒りを湛えた低い声で野盗に言う。野盗たちはすでに戦意喪失していた。
「二度とムルタの土を踏むでないぞ」
野盗は怯えた表情のまま、言葉を発することもできずに走り去って行く。フェリクはその背を見届けることができなかった。
「フェリク!」
浅い呼吸を繰り返すフェリクに、ミリアが駆け寄った。フェリクは胸元を押さえた。まるで気管に何かが詰まったように、上手く息ができなくなる。酸素を求める肺に押し出されるように涙が溢れた。そのまま地面に突っ伏すと、ミリアは戸惑ったように、しかし優しくフェリクの背を撫でる。
「フェリク、しっかりしな……」
「イゼベル、傷付いた者の手当てをしろ」
レフレクシオの言葉に短く応え、イゼベルは怪我を負った者たちを集めに向かった。
地面に顔を伏せたまま嗚咽を零すフェリクに歩み寄り、レフレクシオはその腕を掴んだ。フェリクを引き摺るように立ち上がらせ、フェリクを案ずるミリアを振り向く。
「王様……」
「お前もみなの手伝いをしろ」
静かに言ったレフレクシオに、ミリアは小さく頷く。レフレクシオはフェリクの腕を引いたまま牧場を離れた。
* * *
「少しは落ち着いたか」
そう声をかけてみても、フェリクは顔を手で覆ったまま応えない。ベッドに横たわったまま、静かに泣き続けている。
フェリクの宝玉が暴走していることは明らかだった。主であるフェリク自身さえも制御することができないほどに。
「……平和と繁栄を望んでも、貧困や格差はなくならん」
レフレクシオは静かに語り掛ける。色素の薄い浅葱色の髪を撫でても、フェリクは反応しない。
「平等など、この世界にありはしないのだ」
「……それなら……」震える声でフェリクは言う。「僕たちは……なんのために、戦ったんですか……」
精一杯に振り絞った声は、また嗚咽に変わる。かつて剣を握っていたこの震える手は、まだ戦いの感触を憶えている。星屑を宿した瞳は、敵の姿を記憶している。忘れることの許されない重圧が、この小さな体を押し潰そうとしていた。
「……僕の命は……なんのために……」
顔を覆う手を掴み、縫い付ける。驚きに見開かれた瞳がレフレクシオを捉えた。言葉が発せられるより早く、その口を塞ぐように唇を重ねる。服の隙間に手を滑り込ませると、抵抗するように身を捩った。
こうしていれば、涙の理由が変わる。たった一時、気を逸らせるだけだとしても。例え恨まれようと、それでいい。こうするほか、手はないのだ。