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【8】勇者の心[1]

 息が苦しい。上手く吸い込むことができない。

 手にした剣は重い。だが、投げ出すことは許されない。

『ああ、可哀想な子。まるで呪いだ』

 頭の中に響く声。耳を塞いでも意味はないのだろう。

『そんなものがなければ、傷付かずに済んだのに』

 違う、と叫んだ声は声にならない。喉に張り付いたように、呼吸をするのがやっとだった。

 大きく剣を振りかざす。何に向けているのかわからない。それでも、鋭く研ぎ澄まされた切っ先を振り下ろした。





 ……――





 詰まっていた呼吸を取り戻すように目を覚ます。喘ぐような荒々しい息がやけに響く。耳鳴りが止まないまま体を起こした。辺りには暗闇が広がっていた。

(……ここ、どこ……?)

 手探りでカンテラの明かりをけ、ベッドから抜け出す。心拍が跳ね上がり、落ち着くまで時間がかかりそうだ。

(僕の家じゃない……)

 護身用の短剣を右手に握り締める。ここがどこかを確かめるため、廊下に出た。明かりのない廊下は、息苦しさを助長するようだった。

 何も見えない。早く家に帰らなければならない。しかし、どこに向かえばいいのかわからない。ここがどこかもわからぬまま、ただ暗い中を歩いた。

 嫌な汗が頬を伝う。月を覆う雲が呼吸を荒くさせる。

「小僧」

 不意にかけられた声に息を呑む。振り向いた勢いでカンテラを手放してしまった。床に転がったカンテラが、誰かの足元を照らす。カンテラを拾うと、その顔が見えるようになった。

「……レフレクシオ卿……」

 肩で息を整えるフェリクに、レフレクシオは険しい表情をしている。

「こんな時間に何をしている」

 レフレクシオが一歩、近付くのに合わせ、フェリクも一歩、退く。心臓の痛みに服の胸元を握った。

「あなたは……どうして僕を戦わせたんですか……」

 震える声を振り絞って出た言葉がそれだった。いまさら、そんなことを言っても意味がないことは知っているのに。

「僕は、戦いたくなんてなかった……」

 堰を切ったように涙が零れ落ちる。こんなことを言うつもりはなかったのに。

「勇者になんてなりたくなかった……!」

 一度でも溢れ出たものは止まらない。止めることができない。

「僕はただ……村に帰りたかっただけ……」

 短剣の鞘を放る。その切っ先を左目に突き付けた。

「こんなものさえなければ……」

 手に力を入れた瞬間、腕を掴まれる。有無を言わせぬ強い力が短剣を奪い取る。

「嫌だ! 放して!」

 抵抗は意味を為さず、そのまま抱え上げられた。肩に顔を埋めて唸るように泣くことしかできないフェリクを左腕に抱え、レフレクシオは空いた右手で短剣とカンテラを拾う。そうして暗い廊下を歩き出した。

 寝室に戻されると、レフレクシオはフェリクをベッドに優しく下ろした。短剣とカンテラをベッド脇の棚に置き、大きな手を肩に添える。

「聞け。お前の宝玉は――」

「嫌だ、聞きたくない!」

 耳を塞ぐ。何も知らないために。何も見ないために。

「僕を村に帰して……」

 力ない声が漏れる。願いはたったそれだけなのだ。

 不意に腕を掴み上げられた。抵抗の言葉を発そうとした口が、乱暴な口付けによって塞がれる。そのままの勢いで背後に倒れ込む。大きな手が服のあいだに滑り込むのを、フェリクは止めることができなかった。

 それからはあっという間だった。抵抗も叶わず、涙の理由が変わるまで、そう時間はかからなかった。



   *  *  *



 気を失うようにして眠りに就いたフェリクの寝顔を眺め、レフレクシオは涙の跡を指で撫でる。そうか、と心の中で呟くと、自責にも似た感情が胸中に広がった。

(私が勇者(こやつ)の心を壊したのか)

 フェリクの願いを叶えられるなら、それ以上に良いことはきっとない。ただ、その力を持っていないことだけが虚しかった。






 ……――






 私が失敗すると、彼はいつも悲しそうな顔をする。

 もう何度目かわからない。彼ももう慣れた頃だろう。

 だから、そんな顔をする必要はないのに。

 何も知らなかった頃に戻ることは許されず、永遠の死は叶わない。

 私は闘い続けなければならない。それが、私に課せられた使命なのだから。

 彼が悲しむ理由はない。私の力が及ばなかっただけだ。

 失敗は私には許されざる行為であり、彼は私の死を見届けるのが役目。

 ただ、それだけのこと。

 だと言うのに、彼は悲しそうな顔をする。

 そんな顔はもう見たくないのに。そんな顔をさせたくないのに。

 その力が私にはない。

 いつか私がこの生を終えることがあるなら、彼もまた解放されるのだろうか。

 そんな日は永久に来ないのかもしれないし、私には祈ることしかできない。

 その祈りが届いてほしいと願わずにはいられない。

 そうすれば、彼はもう、悲しまなくて済むのに――






 ……――






 遠くから鶏が鳴く声で目が覚める。起こした体は重く、引き摺るようにしてベッドから抜け出すと、眠気を覚ますためにカーテンを開いた。窓の外は快晴。昇る陽は眩く目を突き刺した。

 何か悲しい夢を見たような気がする。どんな夢だったか、とフェリクは首を傾げつつ着替えを始めた。ムルタの民族衣装にもなんとなく慣れてきた。

 鏡台で髪を整えたとき、部屋のドアがノックされる。

「フェリク、起きてるかい?」

 それはミリアの声だった。なかなか起きないから様子を見に来たのかもしれない、と考えながらドアを開く。

「おはよう。これ、あんたのだろ?」

 そう言ってミリアが差し出したのは、短剣の鞘だった。

「廊下に落ちてたんだ」

 その途端、フェリクは顔が熱くなるのを感じた。

(そうだ、昨夜(きのう)……!)

 レフレクシオに触れられ気を失うように眠った記憶が蘇る。それも鮮明に。あのときの自分が正常でなかったことは自分でもわかるが、あんなことになるとは思ってもみなかった。

 そんなフェリクに、ミリアは怪訝に眉をひそめる。

「どうかしたかい?」

「い、いや、なんでもない。朝食に行こう」

 誤魔化すように先に部屋を出た。ミリアは首を傾げつつそれに続く。いまは真面(まとも)にミリアの顔を見ることができなかった。

 ミリアは特に気にした様子もなく、フェリクの隣に並ぶ。フェリクは自然と俯いていた。

「ここの暮らしはどうだい?」ミリアが言う。「何か不自由していないかい?」

「特には。快適に過ごさせてもらってるよ」

 フェリクはようやくミリアを見遣る。よかった、とミリアは明るく笑った。

 ここへ来た当初は警戒していた民も、いまではフェリクを受け入れてくれていることがよくわかる。牧場でのフェリクの働きを認めてくれたのだ。いまでは巡回の兵に怯むこともなくなった。この先もムルタで暮らしていくことに実感が湧いたような気がしている。

 ダイニングに行くと、いつも先に座って待っているはずのレフレクシオの姿がなかった。

「レフレクシオ卿は?」

 いつもの席に着きながら、フェリクは問いかける。ミリアも腰を下ろしつつ言った。

「ラエティティアに向かっているよ。向こうさんはムルタとの交友に積極的みたいだね」

「そう……」

 フェリクは安堵していた。どんな顔で会えばいいのかわからない。ラエティティアから戻って来れば顔を合わせることになるのだが、その頃には自分も落ち着いていると思いたかった。

「あんた、王様と何かあったんだろ」

 探るように言うミリアに、フェリクは顔が引いたはずの熱を取り戻すのを感じる。

「何もない! なんでもないよ……!」

 自分でもそれで誤魔化せるはずはないとわかっているが、ミリアはやはり呆れたように目を細めた。

「あんたは相変わらず嘘がつけないね」

 フェリクは乾いた笑みを浮かべる。いまは何を言っても墓穴を掘るような気がした。

(あんなの、気の迷いだ……僕が、あんなことを言ったから……)

 自分の言動を思い出すと、ようやく顔の熱が下がる。

(レフレクシオ卿を傷付けてしまった……自分の傷を押し付けるために……)

 誰も責めるつもりはなかった。すべて自分の選択だったからだ。だというのに、心はそう簡単に納得してくれないらしい。あれは本心ではないとは言えない。自分の心を黙らせて、押し殺していたもの。それが顔を出すのは簡単なことのようだった。だが、それを他人に押し付けるべきでないことは理解している。それでも、止められなかった。かつて勇者と持て囃された自分がただの人間でしかないことは、フェリク自身もよくわかっている。自分は勇者の器ではなかった。それだけがフェリクの中で確かなことだった。




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