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【0】砂の王国[1]

 踏み入れたその大地は、かつての頽廃たいはいの色を消していた。

 美しい光景に言葉は失われる。まるで海のように青々と広がる草花が、肌を撫でる温かい風に揺れていた。

「小僧、馬を降りろ」

 かけられた声で我に返り、フェリクは愛馬ルークスから降りた。先を歩き出す男の大きな背を追い、陽を受けて輝く平原に足を踏み出す。頬に触れるのは安寧だった。

 以前にこの地を訪れたときは、ルークスから一歩、降りただけで砂埃が鼻をツンとさせた。だがいまは、ブーツをちくちくと刺すような草、瑞々しい花が誇らしげに咲き乱れている。壮大な木々は、豊かに溢れる泉の水を飲んで高々と枝を伸ばした。

「砂漠じゃなくなったんだ……」

 ふと呟いたフェリクの言葉に、前を行く男は鼻で笑った。

「この地が砂漠であったことなど、一族の記憶からは消えている。ムルタはかねてより、王国に勝るとも劣らぬ豊かな大地だ」

「…………」

 かつて王国の繁栄の裏で枯れ果てる運命にあった大地は、豊かな実りと潤いに喜ぶ風の祝福を受けている。その美しい景色に魅了され、思わず溜め息が漏れた。

 飢餓と貧困、病に苦しみ、涸れた砂漠に囲まれたムルタ王国は、まるで御伽噺(おとぎばなし)のように姿を変えていた。



 城門を潜るかつての砂漠の王レフレクシオの帰還を、揃いの民族衣装を身に着けた女たちが喜んで出迎える。警戒した門兵の男たちに睨まれながら、フェリクはただ、ルークスの手綱を握り締めながらその様子を眺めていた。

 これが、本来あるべき姿だった。ムルタ王国が正しい運命を辿っていることを証明する光景に、胸の奥が重く痛む。ルークスがフェリクの頬に鼻を摺り寄せて鳴らすので、フェリクは少し励まされたような気分になりながらルークスの頬を撫でた。

「陛下、あの者は」

 フェリクに気付いた女たちが、鋭い視線を彼に投げる。突き刺さる警戒の視線に、フェリクはただ俯いた。褐色の肌が特徴的なムルタの民とは対照的に、王国の人間であるフェリクは肌が白い。余所者である証明を、フェリクは深く俯くことで色素の薄い浅葱色の髪で隠した。

 レフレクシオはフェリクに一瞥を遣ると、表情を変えることなく周囲の女たちの中に呼び掛けた。

「イゼベル」

「はい、陛下」

 女たちの輪を抜け、気の強そうな赤い瞳の女がレフレクシオの前に進み出る。他の女たちより背が高く、しかしレフレクシオは彼女よりさらに頭ひとつ分、抜き出ている。

「しばらく城に滞在する。面倒を見てやれ」

 イゼベルと呼んだ女にそう言って、レフレクシオは城の中へ姿を消してしまう。フェリクは取り残されてしまい、女たちの視線から逃げるようにルークスに身を寄せた。

 フェリクに歩み寄ったイゼベルが軽く指を振ると、別の女がフェリクからルークスの手綱を受け取る。連れて行かれるルークスも、どこか不安げな表情でフェリクを見つめていた。

「あたしはイゼベル。あんたは?」

「……フェリク」

「フェリク。付いて来な」

 そう言って、イゼベルはフェリクに背を向ける。フェリクは、イゼベルの手が腰に添えられているのではなく腰に携えられた剣のそばに置かれているのだと気付いていたが、その背中を追うことにした。ここで棒立ちしていてもしょうがない。イゼベルに続いて城への階段を上がって行くフェリクを、女たちはいつまでも不審の目で眺めていた。

「あんたは騎士かい?」イゼベルが言う。「馬にラエティティアの紋章があったけど」

「あ、いや……」

 フェリクは上手く言葉が出て来ずに俯く。イゼベルは横目でフェリクを見遣ったが、気に留めるつもりはないと言うように軽く肩をすくめた。

「まあ、陛下がそこら辺のただの男を連れて来るはずがないね」

「…………」

 イゼベルに連れられて足を踏み入れた王城は、以前のような埃っぽさはない。真っ赤な絨毯は上質な物で、壁には風を象る絵が描かれている。天井には質素なシャンデリアが揺れる。行き交う男たちは、重厚な金属の鎧を身に纏っていた。

「あんた、随分と若く見えるけど、歳はいくつなんだい?」

「十四です」

「十四⁉ 十四でこんな辺境で独り立ちしようってのかい?」

 目を丸くするイゼベルから少しだけ警戒の色が薄くなったように感じ、フェリクはようやく顔を上げる。

「誰かに面倒を見てもらえるなら、厳密には独り立ちとは言えないんじゃないですか?」

「面倒を見るったって、付きっ切りで世話するわけじゃないよ」

「大抵のことはひとりでできるので大丈夫です」

「そうかい。けど、困ったことがあったらなんでも言うんだよ」

「ありがとうございます」

 イゼベルの表情から、労わるような色が感じられる。十四で故郷を離れることになったフェリクに、僅かな情が湧いているのだろう。警戒していたイゼベルも、十四の若者に辛く当たるほど冷淡ではないようだった。

 イゼベルはさらに階段を上がり、端の部屋のドアを開ける。ベッドと何も置かれていない棚、質素な木の机と椅子だけの簡素な部屋だった。掃除は行き届いているようで、清潔に見えた。

「ここがあんたの部屋だよ」

 陽の射し込む窓の外を覗いてみると、緑に包まれたムルタ王国を一望することができた。町からは賑やかさが聞こえて来る。

「他に使うやつもいないし、自由に使っていいからね。必要な物があれば、言ってくれれば用意するよ」

「ありがとうございます」

「いいかい? 困ったことがあれば、あたしたちを頼るように」

「はい」

 腰に当てられた手は、すでに剣のそばにはなかった。

 ついでに、とイゼベルは机に置かれていたカンテラを手に取る。それは故郷でも使ったことがある、火を使わない魔道具のカンテラだった。使い方を知っていることを伝えると、イゼベルはひとつ頷き、さて、と意識を切り替える。

「良い馬を連れていたね。流鏑馬(やぶさめ)をやったことはあるかい?」

「いえ……。ルークス……僕の馬はどこに?」

「町の厩にいるよ」

 そう言って、イゼベルは窓の外を指差す。あそこさ、と伸ばされた指の先には、四棟の厩が並んでいた。その奥は牧場になっているようで、広大な牧草地が見える。

「町の者が自分の馬と間違えることはないから安心しな」

「はい」

 ルークスの鞍には王国の紋章が描かれている。きっと厩でも浮いていることだろう。心安く過ごせているといいのだが、とフェリクは思わざるを得なかった。

「町の者はしばらくあんたを警戒するだろうけど、陛下がお認めになった者を邪険に扱うことはないはずだ。まずはここでの生活に慣れることだね」

「はい。ありがとうございます」

 仕事に戻るというイゼベルを見送り、フェリクは深く息をつく。一気に緊張の糸が切れたような気分だった。窓の外を眺めていると、故郷とはまったく異なる景色が心をざわつかせる。この先、どれくらいの期間をここで過ごすかはわからない。いまは落ち着かなくとも、いずれ慣れるのだろう。

 しかし、手持無沙汰になってしまった。せめてイゼベルの仕事の手伝いを申し出るべきだったか、と考えつつ部屋を出る。

(そうだ……)

 町へ入る前の光景を思い出しながら、城のエントランスに向かう。その奥に裏門があるはずだ。記憶を頼りに裏門に向かうと、やはり門兵の姿があった。背が高い兵は鋭い視線をフェリクに投げたが、反対側に立っていた茶髪の兵は何も言わずに門を開く。礼を言いながら裏門を出て辺りを見回した。裏の庭園の先、訓練場の向こうに、丘へ上がる階段がある。ムルタの騎士たちは訝しげにフェリクを見たが、訓練の手を止めることはない。おそらく、レフレクシオ王が王国の人間を招き入れたことは、すでに城中に伝わっていることだろう。

 息を切らせつつ、階段を駆け上がる。記憶の通り立派な大樹を有する丘が広がっていた。ひたいの汗を拭い、丘の裏側を覗く。そこは断崖絶壁だった。

(ここを降りると、モルス川に出るんだよな)

 いま思えばよくこんな崖を降りたものだ、と小さく笑う。もともと人が通るようには設計されていないため、足場はほとんどない。文句を言いながら降りたものだ。

 丘から見下ろす大地は、傾きつつある陽に眩く照らされている。小国であるムルタ王国はかつて、ラエティティア王国の繁栄の裏で頽廃の運命を辿っていた。見渡す限りの砂漠で、枯渇と絶望に満ちた地であった。町を囲んでいた砂の海は見る影もなく、緑の溢れる豊かな大地が広がっている。それは民の衣装によく表れていた。ムルタの兵は、ぼろぼろの革の鎧を身に纏っていたのだ。いまでは金属の立派な鎧になっている。

 人々は、幸福に満ちた笑みを浮かべていた。それこそフェリクが求めていたもの。不服はない。だが、心の奥底に眠る何かが時々、少しだけ疼く。

 その光景を願っていたのに、叶った途端、それが虚しい。

「……なんで……」

 この十四年、心がそう叫ばなかった日はない。

 太陽が昇って沈むように、息をして、眠って、目覚めて、毎日を生きた。それが、いまでは無性に虚しい。

 俯いていると、熱くなった目頭から雫が落ちそうになる。

 後悔はない。むしろ、望んでいた結果。そのはずだった。

「小僧」

 不意にかけられた声に、思わず肩が跳ねる。振り返ると、ムルタ独特の模様が描かれた装束に身を包んだレフレクシオが歩み寄って来るところだった。

「……レフレクシオ卿」

「なんだ」男は鼻を鳴らす。「白々しい」

「……あなたはもう、魔物の王じゃない」

 太陽を切り取ったような激しい赤の瞳が、物憂いげに細められる。地面に視線を落としていたフェリクは、その僅かな表情の変化に気付いていなかった。

 レフレクシオが隣に並び町を見下ろすので、フェリクも同じように視線を戻した。地平線の向こうへ消えようとする太陽が映し出す大地は、ラエティティアに引けを取らないほど美しい。

「後悔しているのか」

 胸の内を読み取られたような言葉に、少しだけ心臓が跳ねる。それでも、フェリクは平静を装って応えた。

「後悔はしません。僕には……あなたにも、宿命だったから」

 それは、何度も心に言い聞かせた言葉だった。

 自分を納得させるために。納得するために。

「貴様には選択ができたはずだ」

「……これが僕の選択です」

「…………」

「何が一番いいかわからなかったから、せめて後悔しない選択をしたかった。……それが宿命でも」

 宿命と洗濯は、いつも隣り合わせだった。常に問われ、迫られ、それでも足を止めることはできなかった。立ち止まった瞬間にすべてが終わる。それだけは許されなかった。

 いま思えば、何が宿命で何が選択だったか、それすらもわからない。それでも、すでにすべての結果が表れている。

「それが、僕の選択です」

「……ふん。貴様は十四年が経っても、相変わらずだな」

 レフレクシオは呆れたように吐き捨て、フェリクに背を向ける。何も言えないまま立ち尽くすフェリクに、レフレクシオは背中で言った。

「明日、流鏑馬場に来い。今日はもう休め」

 フェリクの答えを聞かずに、レフレクシオは丘を下りて行く。

 いまは月が昇ることすら虚しいのだと、誰にでもいいからわかってほしかった。しかし、口にすることは許されなかった。口にしてしまえば、あの十六年がすべて嘘になってしまう。すべての選択が、間違いだったことになってしまうのだ。

「……僕に、どうしろって……」

 誰にでも呟いたその言葉は、赤から闇へ変わろうとしている空に消えた。



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