情物たち
「創造に狂え!」
感情の奔流が一瞬にして焔になった。
消し炭になっても生まれでた。
燃え盛る憤怒を押さえつけようと、滝のような嵐が巻き起こったが、鎮火させるどころか、業火を育てるだけの結果に終わった。
激昂蝶がはばたいて、紅い鱗粉を着火させては死んでいき、火花の卵をまき散らしていた。生まれたばかりの幼虫が、連鎖爆発を引き起こして、楽陽樹の森に火の手が広がっていく。
私は手近な枝に灯った火種を素手で消そうとして、自分が平静ではないことを知った。右手が腰帯へと伸びて、警貝の殻でつくった螺旋の楽器を鳴らしかけたが、それを左手で押さえつける。
熱のない棒が私の肩に触れた。振り返ると、それは隊長の手。瞬きひとつしない硝子のような瞳が、同じ輝きの私の瞳に映り込んだ。
無限に連なる合わせ鏡が、私の心をじっとりと沈殿させる。仮面の質感をした肉の顔。肉の質感をした仮面の顔。いまの私と隊長の、仮面と肉を入れ替えても、どちらがどちらかまるで区別がつかないだろう。虚像と実像の素材は寸分違わず同じなのだから。
「――ケイキウラギリ隊員」
隊長の平坦な声に私は同調して、刻まれた自身の名を心のなかで反芻する。十分に定着させて、ゆっくりと頷く。すると、鏡写しの動作が返ってきたので、私は澄んだ泉を覗き込んでいるかのような幻想を抱いた。
不意に役割を思い出し、単調な報告。
「隊長。ドドドが情物に憑かれたようです」
「わかっています。ゲキドドドメキ隊員はここで捨てます」
空風を静かに吐きだして、隊長は模造品のように似通った私たち隊員を見渡す。
そうして淡々と、意思のない私たちに道を示した。やるべきことを。それぞれの管理する情物を集めて、この場から退避する準備。
すぐに私は腰帯にぶらさげている楽器を手に取って、強すぎず、弱すぎずの力加減で螺肋をなぞる。響くのは死者の心臓が奏でる音。さっそく聞きつけた光彩色の警貝たちが、歯軋りをするように上下の殻を擦り合わせて、鋭い鳴き声をあげた。巻貝でもあり二枚貝でもある警貝たちが続々と、丁番を開いては閉じ、放牧から帰ってくる。
情物たちを手早く拾って無彩の嚢におさめた私は、いっぱいになった嚢の口を固く紐で結びつけた。肩に背負い、隊長の傍らに戻る。
「準備ができました。いつでも移動可能です」
「全員が揃うまで待機。揃い次第移動します」
「はい」
ぴたりと隊長の横に立って、その視線の先を辿る。森は強烈な赤光で、目が眩むような一色。根源となるドドドは、ひとり熱に浮かされて、濁流のような言葉を薪にすることで、途轍もない焔を形成しようとしていた。
「祭ダァ! 燃えあがれっ! 盛りあがれっ!」
炎で目隠しされた烈火の瞳が私たちに向けられる。かつて同胞だったもの。いまはただの異物。見つめあっても合わせ鏡にはならず、壁と相対しているのと差異はない。
ドドドは轟々と猛りながら、激昂蝶を喰いはじめた。焼けた喉から発せられるひび割れた声が、私たちに激しく語りかけてくる。
「貴様らもっと怒れ。俺様のようにだ。貴様らが憤怒しないことに、俺様は憤怒しているんだ。激情を滾らせないものに価値はない。裁断機の虜ども。世界を創造することもできない燃え滓どもが、――!」
紡がれた怒声の後半は焔が爆ぜる音と区別がつかなかった。
「キウラ!」火を噴く爪先が私に向けられる。
「貴様がやるべきだったんだ! それを俺様が――」
言葉すらも焼け落ちて、ほとんど聞き取ることはできない。名指しで詰られた私が無反応を貫いていると、ドドドは興奮のままに腕を振りあげ、地団駄を踏み、周囲の樹々に当たり散らした。その姿は不協和音を掻き鳴らす無価値な鳴り物にしか見えない。
「それ以上、激昂蝶を摂取すると爆死するぞ」
憎の手綱を引いて戻ってきたシャダが言うと、紅に染まっていたドドドの顔から熱が引いた。だが、それはほんの一瞬のことで、ドドドは激昂蝶を腕いっぱいに抱え込むと、膨大な熱を蓄えはじめた。情物の摂取量が限度を超えて、肉体が耐え切れずに膨張していく。
「爆発してやるさ」
熱に侵されて粘ついた声。私たち全員を斬り伏せるように視線が滑り、肺からは熱風が絞りだされる。
「破壊。破壊。破壊ダァ。全ては壊すために積みあげられる。高く高く積みあげるほど、格別の終末に近づくんだ。森は燃やされたがってる。もっともっと火を焚べやがれ! この森ひとつじゃ足りやしない。雪のなかで擦られた燐寸が、導きの扉を開くんだからな――」
吹雪のように舞い落ちる灰。耳を劈く哄笑には、楽陽樹の木の葉の旋風が入り混じっている。
聴力を失っているシャダ以外は、咄嗟に耳を押さえて音を遮断した。そうでもしなければ危うくドドドから伝播する激昂蝶の切れ端に憑かれてしまうところであった。
「この怒りは全部、全部、全部、俺様の奢りだ。どいつもこいつも、さっさと憤怒を受け取りやがれよ!」
「君の場合、奢りじゃなく、驕り昂ぶりだろうよ。只の押し売りは結構だ」
「キュウ! うるせえぞ!」
「ありゃ駄目だな」
泥のように熟成した畏土で両手をぬめらせたキュウが、汚れるのも構わずに、頭をするりと撫であげた。髪から垂れ落ちた畏土が糸を引いて、キュウの顔に無数の眼球模様を描きだす。
「なんだその顔は! 俺様への当てつけか!」
ドドドが吠えるが、キュウは無視を決め込んで、ギイギイと軋む箱を片手に持ち直した。四辺が歪に傾いだ箱に詰められているのはたっぷりの畏土。キュウは中身をこぼさないように蓋に手を置いて、ぐっと押し込むと、暗闇を完全に密閉した。
私たちを取り囲む熱の密度が増していく。信茸を顔面中に茂らせた盲目のクタマと、驚猫を両脇に抱えたゼヌが戻ってきたが、全員にはひとり足りない。野営地に鉢植えを取りにいったビミーがまだだ。
炎をまとった梢があたりに降り注ぎ、樹々が倒れて大地が揺れる。隊長が動かない限りは、私たちも動かない。全員が揃ってから移動するというのが隊長の指示。
縄を絞るような窮屈な音。ドドドの様子がおかしい。肉体が噴火直前の火山の如くに赤熱。次の瞬間、陶器を叩きつけたかのような炸裂音が響いて、ドドドの両腕が粉々に砕け散った。傷口から血だか溶岩だかわからないものがこぼれ落ち、泡と共に湯気を立ち昇らせている。
膝をついて俯いたドドドは、それきり物言わぬ岩塊のように静止して、激昂蝶たちの止まり木となった。
延焼し続けていた森が沈黙に呼応するかように火の勢いを弱らせる。急に風が冷たくなると、焼け縮れた葉っぱたちは氷細工のように割れていった。
石像と化したドドドに、クタマが杖で弔いの陣を結ぶ。その途端、信茸たちが一斉に胞子を放出したので、私はそれが激昂蝶の残り火に引火するのではないかと気が気ではなかった。
「マジで死んだの?」
眉を顰めたシャダが一歩、二歩、前にでる。
「近づかないように」
隊長が隊員全員への注意喚起として発した声は、耳の聞こえないシャダにだけは届かなかった。足音でシャダの位置を探りだした盲目のクタマが、杖を差しだして道を塞ぐ。緩慢な動作で鬱陶しそうに払いのけて振り返ったシャダは、色水を浴びたかのようにさっと表情を変えた。
「ゼヌも死んでる」
全員の視線が後ろを向く。ゼヌは皆の背中に隠れるようにして身を丸めていた。ゼヌの腕に抱かれている二匹の驚猫たちも死んでいる。ひとりと二匹の死に顔は、いずれも目を剥き、舌を垂らして、声なき絶叫を喚き散らしていた。
隊長がゼヌの遺体を横たわらせて、慣れた手つきで検死する。死因はすぐに判明した。ドドドの爆発による衝撃。肉体への衝撃ではなく、心への衝撃によって事切れたのだ。そして、驚猫たちは、ゼヌが死亡したことによる心への衝撃で息絶えたらしい。死の連鎖だ。
驚猫は些細な衝撃に対しても非常に過敏な反応をみせる。そして、轡がなければ自身の鳴き声すらもギロチンにしてしまうほどに脆弱な情物。
私たちが気づかぬうちに、ゼヌの心は驚猫に憑かれ、死に引きずり込まれてしまったようだ。
ゼヌが死んだことは仕方がないが、最後の二匹だった驚猫を失ったことは、私たちにとって重大な問題になりそうだった。激昂蝶もほとんどがドドドに喰われてしまった。あたりにはまだちらちらと、はばたいてはいるものが残ってはいるが、激昂蝶の命は短い。儚く散るように定められた情物。
しかし、私はそれら諸々の事柄よりも、シャダの様子を危惧していた。
シャダの表情や態度にはある種の兆候があらわれている。
私が指摘するよりも先に、隊長は手振りでシャダに憎の手綱を手放すように命じた。シャダに憑いているのは、まさしく憎に間違いなかった。
「放す?」目を吊り上げて、怪訝という表情。
「馬鹿なことを」
響きに重みが加わって、声の裏には影ができている。
「この憎は最後の一頭なんだよ? 驚猫は全滅。激昂蝶もドドドのバカの所為で、このままじゃ、同じく全滅。楽陽樹も、ほら、周りを見てよ」
風をかき混ぜるように、のびやかに踊るように、両手が広く開かれる。宙を舞う焦げた葉がシャダの指先に触れると、葉脈の骨格だけを残して脆く崩れ去った。
「火は鎮まってきたけど、一本残らず燃えちゃった。もうこの森は再生しない」
「情物はまだ十分にあります」
隊長が言いながら、自身の肩に留まらせている嘆鳥を指差した。初代隊長から受け継がれている最も長命な情物。
聴力のないシャダに、隊長がわざわざ声で語りかけたことに、私はちいさな違和感を覚える。
杭のような嘴を隊長が指先で撫でると、憂いを帯びた嘆鳥の瞳から、おおきな雫がこぼれ落ちた。隊長の長い睫毛をかすめた粒は頬に触れて、なだらかな丘陵を流れて細い川になると、肌に染み込むように消えていく。
まさか隊長も、という疑念が頭を過る。しかし、すぐに思考の片隅に押しのけ、追い払う。そんなことはあってはならないし、あるはずがないことだ。
「レンカ」シャダは隊長の名を呼んで、ドドドにも似た熱のこもった言いぶりで、
「あんたのやり方ってまどろっこしいのよ。情物も、ゼヌも、それから――、ドドドも。あんたがさ。ぐずぐずしてるから。あんたが殺したようなもんだよ。これまでにもいっぱい死んだよねえ。あんたが隊長になってからさあ。いっぱい、いっぱい、ホント呆れるぐらい――」息を吐いて、吸う音「いくら殺せば気が済むのよ」高まっていく声「ねえ――、ねえってば!」
咆哮。礫を受けた鏡のように、その表情には縦横くまなく亀裂が走っていた。瞳には硝子の破片のような雷が刺々しく瞬いている。傷ひとつなく、揺らぎもしない隊長の鏡の顔とはまるで似ても似つかない。
シャダは手綱を力いっぱい地面に向かって叩きつけた。
「これでご満足なんでしょ!」
解放された憎が長鼻を天高く掲げた。甲高い嘶きが大気を震わせる。楽陽樹の幹よりも太い強靭な脚が大地を踏み鳴らすと、炭化した根っこたちが粉塵となって立ち込めた。灰色の粒子は翼のような大耳で扇がれ、双牙のあいだを通り抜けると、不定の空に吞み込まれる。
灰色の風を見送りながら、シャダは懐かしむようにしみじみと、
「レンカ。レンカ――。あんたのことが嫌いだった。大嫌いだったんだよ。なんであんたばっかり。なんであたしから奪うんだよ。ドドドが暴走したのだって、元はと言えばあんたが――」
憎の狂暴な瞳の奥に隊長の姿が像を結ぶ。反り返った巨大な双牙の切っ先が、残り火を映して血に濡れたようにつやめいた。
「怨めしい――」
激しさのない、地を這うような囁き。
「――ドドドを返して」
耳の奥をくすぐって、脳髄に染み入るような響きだった。
皮膚が張り詰め、全身の毛が逆立つ。
「死んじゃえよ」
憎が猛然と駆けだした。迫りくる巨獣の目的は、隊長の胸に槍の牙を突き立て、槌の足で踏み潰し、肉片すらも蹂躙すること。
隊長は動かなかった。
「やめんか!」
クタマの一喝は、憎にも、シャダにも届かなかった。立派に見える憎の耳はただの張りぼて。なにも聴こえていやしない。長い間その飼育を任されていたシャダも完全に失聴してしまっている。
隊長を庇うように前にでたクタマが杖を憎に投げつける。けれども、自由自在に動く長鼻が飛来する杖を空中で掴み取ると、豪速球で投げ返してきた。鋭い風切り音。クタマの足元に突き刺さった杖は、持ち手までもが地面に埋もれる。
むせかえるような獣臭が焦げた臭いを駆逐する。
どうやっても止めようがない猛進。
轢かれるという寸前。
クタマは腰を鉤のように曲げ、苦悩の手つきで顔を覆った。
そして、顔面中に密生する信茸を毟り取ると、両手いっぱいに掴んだ情物を憎に向かってばら撒いた。
花束となった信茸が宙を舞って、憎に贈られる。
私はクタマの暴挙を止めようとしたが、間に合わなかった。キュウが畏土の箱を抱えて後ずさる。
憎が信茸を長鼻で受け止めた。口に放り込むと、咀嚼、嚥下。相反する情物同士の反発作用。憎と信茸は同化して消滅。そして、この世に存在してはならない情物となった。
クタマを地面に引き倒して押さえつける。信茸が剥がれたクタマの顔面は、どれが眼窩ともわからぬ穴ぼこだらけになっていた。
「ああ、幽奉だ」
仰向きの体勢で両手を投げだしたクタマの感嘆の声。クタマは決して憑かれてはならない情物に憑かれている。空に浮かぶ円盤。災いの情物。信茸の傘のような形状に、憎の猛々しい風格を併せ持つ怪情物。
かつて楽陽樹と嘆鳥が反発作用を起こして喜憐があらわれたとき、隊員の大半は死に絶えた。生き残った私たちは、同じことを繰り返さぬよう、情物の取り扱いについては厳格な規則を定めていた。災いの情物があらわれた時、なにが起きるかを知っているはずのクタマがこんなことをしでかすなど、まったくもって思いもよらぬことであった。
のっぺりとした円盤状の体をした幽奉は、焼けた森の上空で静止していたが、ややあって不規則な軌道をとって、滑るように飛行しはじめた。高高度から一瞬にして地表にいる私たちの頭上に到達すると、静止。
全員が固唾を呑んで幽奉の裏側を見上げた。憎が消滅したことで、シャダの憑き物は落ちたようだ。いまは私同様に茫然と空を仰いでいる。俯いているのは、膝をついた姿勢で硬直しているドドドの石像ぐらいなものであった。
薄く引き伸ばされた真円。空を飛んでいるが翼はない。私たちには理解の及ばない、不可思議な力によってそれは飛翔している。肌は鉱物のような金属光沢。幾何の権化のような均整の取れた形。駆動音、鳴き声はなく、鼻孔の奥が開くような香りを漂わせている。
私の体を押しのけて、クタマが立ち上がった。光を失っている瞳で、幽奉をまっすぐに見つめる。
「儂を連れていっておくれ」
嗄れた声が、ぽっ、と投げだすように懇願する。
骨ばった腕が天へと伸ばされる。
幽奉との交信をやめさせようとした私の手を隊長が掴んだ。引きずられるようにして、朽ち木の陰へと退避。
耳元で隊長が言う。
「また世界が創られたのです」
「クタマが創ったのですか?」
私が尋ねると、隊長ではなく、その肩にいる嘆鳥が頷いた。
幽奉の底面の中心点から縁へ向かって放射状の溝が走った。線で区切られた面がなめらかに回転しながら開かれていく。それが幽奉の唇なのか、瞼なのか。私には知る由もない。
気密室の扉のような物々しさで開かれた穴から、眩い光が照射された。
大地を穿つ光芒の束。
光の柱がクタマを捕らえたその刹那、幽奉の全身が閃光を放つ。
とめどなく迸る光が視界の全てを埋め尽くす。目を閉じてもまだ追いかけてくる光を、頭を抱えて全身で拒む。
獰猛な光は視覚だけでは飽き足らず、騒々しく香り立って、私の感覚全てを侵犯しようとしていた。
じっと貝のように体を閉じて堪えていると、徐々に感覚が蘇ってきた。
明滅する風景がやっと色を取り戻した頃には、幽奉も、クタマも、この世界には存在しなかった。
「逃げたんだ」
ぽつりとシャダが言うと、隊長がそれを否定する。
「全てと思った場所に身を預けただけです」
「逃げたのと変わらないよ」
シャダはすっかり落ち着いている。先程までの態度は泡沫の幻だったかのようだ。けれど、一度膨らませた風船を萎ませても完全な元通りにはならないように、シャダの雰囲気にはどこか頼りない不格好さがあった。
「君にクタマを批判する権利なんてないよ」
無味無臭の皮肉たっぷりにキュウが言うと、シャダはぴくりと眉をあげたが、言い返すようなことはせずに、目を閉じて顔をそらした。
しかし、もうひとつの声がした時、シャダの心の風船には、また何かが充填されて、弾けんばかりに膨れあがった。
「キュウの言う通りだ。クタマは貴様らなんかよりも、ずっと正しい道を選んだ」
「ドドド。死んでなかったのか!」
叫ぶように言いながら、シャダは湿っぽくドドドに駆け寄り、ぐらついた肩を支える。両手を失い、皮膚が鱗のように薄く剥離した体。ぽろぽろと落ちた鱗の下に見え隠れしているのは無貌の顔。熱はすっかり冷めているようだったが、口の端から立ち昇る細い煙が、内なる熱を物語っていた。
「触れるなっ!」
突き飛ばされたシャダが険しい瞳で見上げるが、視線が交差することはなく、ドドドは非常な剣幕で隊長を睨んだ。
「レンカ。教えろ。世界は創造されたはず。なのに、何故だ? 何故こんなにも息が詰まりそうなままなんだ。何が足りない」
隊長はドドドと向かい合いながら、臍を通して背中を見るような目つきをして、
「この世界は言わば卵の中の世界です。生と死が、表と表、裏と裏とで重ね合わせのまま、永劫の停滞に支配されている」
「殻を破るにはどうすればいい。何が必要だ。もったいぶらずに教えやがれ!」
「必要なのは意思です。そのなかでも特に勇気と呼ばれるものが」
隊長の言葉に、私は疑問を差し挟まずにはいられなかった。
「意思? 私たちは意思を持てば消える宿命なのでは?」
「ええ。天命に背いたモノの末路。卵の外に存在する大いなる意思によって排除されるでしょう。大いなる意思だけが、唯一絶対の意思であるべきなのですから」
「つまり、自殺を勧めてるって訳だ」
剥きだした歯の隙間からドドドが熱い風を吹くと、わずかに生存していた激昂蝶たちが、惹かれるように集まってきた。
「いいえ。あなたが大いなる意思に排除されることはありえません。なぜなら、あなたは決して意思を持つことなどできないからです。いくら激昂蝶を取り込もうと無駄です」
冷徹な断定。ドドドは撥ね退けるように、隊長をねめつける。
「そうかな? 世界が殻を破って生まれるには意思が必要。だが意思を持てば世界からは排斥される。矛盾しているじゃあないか。なにか抜け道があるんだろう?」
答えはない。口を噤んだ隊長に、ドドドはフフンと鼻を鳴らして、
「しかし、情物がなけりゃ生きれない俺様たちが、憑かれて意思を持ちそうになると消してしまうなんて、大いなる意思ってやつは随分と身勝手がすぎる奴だな」
「その大いなる意思が情物を産みだしているのです。情物は意思の切れ端。情物に生かされているわたくしたちは、全てを受け入れるべきなのです」
「意思のない奴が言いそうなことだ。餌を貰えれば生殺与奪の権すら渡していいと思っているのか」
「それがわたくしたちです」
「巫山戯るなっ! 塵で生きる塵どもガァ!」
語気を強めるドドドを嘲るように、いまのいままで黙りこくっていたキュウが鼻を鳴らした。とん、とん、と畏土が入った箱をノックして、仮面の顔に冷笑の影を浮かべる。
「寡黙だった君がえらくお喋りになったもんだ。蝶々の喰いすぎで喋々になっちまったか」
「喋々喃々お喋りをしようじゃないか」
ドドドがどろりと舌を垂らして、挑発的に揺らしてみせる。
「丁々発止の方だろ。君の場合は」
「なんだキュウ」怒りと笑いがないまぜになって、髪を尖らせ、肩をそびやかせながら「俺様を怒らせたいのか? 俺様の怒りは既に怒髪天を衝いて限界にまで達しているぞ。沸々と胸が煮えたぎるようだ。頭から浴びせかけて、貴様を鋳造してやりたい。そうすれば貴様ごときでも己の世界を創造できるかもしれないぞ。俺様が創造したこの世界のような、素ン晴らしい世界をな」
火照りをどこまでも拡散させながら焦土を眺める。樹々は地面から突き出た錆びた釘。煙は暗雲に変わっている。
「この世界ってドドドが創ったの?」
緊迫に投げ込まれた幼い声。場違いなぐらいに腑抜けた顔。
「ビミー。どこにいってたんだ」
地面にへたりこんでいたシャダが立ち上がって、足をもつれさせながらビミーの傍へ。ちんまりとした頭や肩に降り積もった灰を手で払ってやる。
灰の中から発掘されたのは好奇が宿ったつぶらな瞳。死に体のドドドは身じろぎするのも難儀というように両腕のない上半身で振り返ると、ビミーの視線に、使い古した石臼を回すような動作で頷いた。
「そうだ。俺様が創った。俺様がこの世界の創造主。貴様らは被造物に過ぎない。貴様ら自身が創造主にならない限りはな」
「へえ。面白そう。どうやったら創造主になれるの。おいらもやってみようかな」
にんまりと笑ったビミーの表情に危険なものを読み取った私は、伸ばした腕を風に煽られた旗のように振り乱して、
「ビミー。こっちにくるんだ。シャダ、ビミーを連れてきて」
ドドドを挟んで向かい側にいるビミーとシャダに呼びかける。しかし、シャダはドドドと私を見比べて、指の置き場に困ったように宙を彷徨わせるばかり。
「よく聞け。ビミー。教えてやる」
幼い両手いっぱいに抱えられている黄金の鉢植えを顎で指して、
「簡単で単純なことだ。まずは情物で腹を満たせ。受け入れて、憑かせるんだ。そして、想像する。創造したい世界をな。己が望む世界を」
黄金の鉢植えにあるのは、たったひとつ残された楽陽樹の苗。ビミーは自身の手のひらをスコップにして碧色に輝く苗を掬いあげると、一切の躊躇なく、口の中へと放り込んだ。
「あっ」と、息を呑んだのはシャダ。私はきたるべき変転に備えて、思わず身を竦ませていた。
ちいさな顎をゆりかごにして、ビミーは舌の上で飴玉のように苗を転がす。
「ドドドはどんな世界を望んだの」
「見ればわかるだろ。怒りに満ち溢れた世界だ。業火に呑まれ、焦土に果てる世界だ」
「なんでそんな面白くもない世界を望んだの」質問が重ねられる。
「破壊こそが世界に活力を与えるからだ。破壊のない世界なんてつまらないだろ。平坦で平穏で平和な平定された世界。平たいものはくだらない。やはり凹凸がなければな。怒りは破壊の呼び水であり、破壊を齎す火焔でもある」
「でも全部壊しちゃったらなんにもなくなるじゃない。それこそまったいらな世界なんじゃないの」
「まっさらになれば、まっさらを破壊すればいいだけだ。無地のカンバスに置かれた絵筆がやることは、無地を破壊し、絵柄を産みだすことだ。わかるか? 何もないなんて状態はありえない。常に何かはあり続ける。あるものは破壊できる。この焦土もまた俺様の憤怒でさらなる破壊に見舞われて、一時たりとも同じ姿でいることはない」
その言葉には破壊すらも破壊しそうな異様な凄みが込められていた。ドドドは内なる熱で自分自身の肉体をも破壊し続けている。けれども、そんな炎の化身を前にして、ビミーはあっけらかんとした態度で、
「怒ってばっかりの世界なんて全然ちっとも楽しくないよ。おいらならもっと楽しい世界を創る」
「やってみるがいいさ。できるかどうか。見ていてやろう」
ドドドが言い終わるのを待たず、舌の上にあった苗が喉の奥へと落とされた。
「森を燃やすなんてひどいよ。あんなに楽しかった森をさ。おいらはこの楽陽樹の森が大好きだった。もっともっとこの世界いっぱいに、この世界そのものを楽陽樹にしようと思っていたのに――」
語られる間に、ビミーの背丈は隣にいるシャダを追い抜いている。樹木の如くに成長していく。
「だから、おいらが森になるよ。一本のおおきなおおきな楽陽樹になる。それが、おいらの世界だ」
ドドドがけらけらと腹を抱えるように体を傾げて、
「そりゃあいい。だが一本で森にはならんぞ。林には二本。森には三本の木が必要だって相場が決まっているんだからな」
「それはおいらが決めることだよ。おいらが創った世界なんだから。おいらの世界だと、木が一本でも木になるんだ」
言うやいなや、凄まじい勢いでビミーの体が伸びはじめた。足が根になり、胴は幹に、腕は枝に、手には梢が纏わりつく。目や喉からも枝が突きだし、眼球や舌が果実のようにぶらさがった。
宣言通り、ビミーはその身を一本の楽陽樹にしようとしていた。
とてつもなく巨大な世界樹に。
はずむような笑い声が天高くへと遠のいていく。それは天すら突き抜けて、際限なく成長し続ける。梢が空に覆い被さると、私たちは闇の帳に閉じ込められた。
「隊長。どこですか」私は見失ったものを探す。
「ここにいます」
その返答と同時であった。一斉に楽陽樹の花が点灯。気づけば隊長があまりにも近くにいたので、私は弓のように体をのけぞらせる。
蹲っていたキュウが、畏土の箱を両膝の間に挟み込む体勢で、背中を真横に丸めた。見上げられた陰鬱な瞳に星のような煌めきが映り込む。
植物の鍵盤が薫風によって弾かれた。奏でられるのは底抜けに明るい楽曲。
「素敵な飾りつけでしょ」
世界樹の枝に茂る葉、咲く花、稔る果実のいずれも、ひとつとして同じ彩、姿形のものはない。
どこからか、どこからも、ビミーの声が聞こえてくる。
陽気な調子で笑いながら、
「楽しいことしかないおいらの世界に、皆を招待してあげる。入場料は笑顔だけ。一緒に楽しく遊ぼうよ! 愉快なパーティのはじまりはじまり!」
口角があがりかけているのを自覚する。手で押さえつけるが、そんなことで情物の影響を止めることができないのはわかっていた。楽陽樹が心に沁み込み、私に憑こうとしている。私だけではない。ドドドやシャダ、キュウ、それに隊長にも。
うららかに歌いながら体を律動に預けてしまいたい気分。
「デザートはどう? 甘い花の蜜はいかが? キウラが好きなケーキもあるよ。飲んで、騒いで、お腹いっぱいになるまで食べて、吐いても食べて、遊び疲れたら眠りながら遊ぼうよ」
花々がラッパとなって、柔らかな葉に溜まった露のようなビミーの声を降り注がせる。
「ドドドが創った世界はくだらないよ。堅苦しい。もっと気楽に盛りあがろうよ。意味もなく笑おう。笑えば嬉しくなるじゃない。喜びこそが花じゃない。花は実になり、喜びの種を無尽蔵にまき散らすんだ。ここは遊園地。楽しいこと以外、何ひとつだって必要ない。怒りなんて笑い飛ばしちゃおう。皆で一緒に。さあ、ほら」
「俺様の怒りをバカにするのかっ!?」
ドドドが顔を歪ませる。
「するよ」明朗な肯定「ひとりで怒ってて玩具みたい。あはは」
「俺様を嗤うなっ! 無意味な世界の裸の王!」
「あははははははははははははははははあはあはあは――」
笑いの尾が波となって寄せては返し、ひいひいと尚も笑い続けたビミーは、
「面白いねえ。楽しいねえ。嬉しいねえ。世界を創造するっていうのはさ。楽陽樹以外の情物なんて、はじめっからいらなかったんだ。激昂蝶や嘆鳥を後生大事に育てているのはおかしいって思ってた。”楽しい”だけがここにはある。”楽しい”だけで十分だ。誰だって楽しいことは大好きでしょ。ずっとここにいたくなるでしょ。一緒に笑えば喜びはもっとおおおきな喜びになる。さあ笑えっ! 皆、笑えっ!」
あまりの事態の急変ぶりに私は忘我の境地に陥っていた。細長く伸びた両目が宙返りをして自分を見下ろしているような感覚に襲われる。だが、乖離しかけていた心は、焔の輝きによって瞬時にして引き戻された。
「――ムカつくが、やるじゃないかビミー」
焦げついた賛辞の言葉と共に贈られたのは激昂蝶のはばたきだった。
ドドドの吐息に吹かれて飛んだ激昂蝶が、世界樹の梢に火を放つ。
「では俺様も存分に楽しませてもらおう。お礼に火剣をプレゼントだ。特大の薪になってくれてありがとうよ」
激昂蝶の火は巨大な楽陽樹の成長をも凌駕する速度で増殖し、やがて炎になり、焱になった。
世界樹が燃える。
「あはははは――! 全員、笑えっ! 笑えっ!」
「うはははは――! いくらでも嗤ってやるさ!」
共鳴するビミーとドドドの戯笑の糧にして、世界樹と業火が育まれる。
「この世界には楽しいことしかないんだ!」
紅に染まる天蓋を崩落させながら、ビミーは主張し続けた。
ドドドはもう嗤わない。
「よく見ろキウラ」
ドドドの視線が私の視線を引っ張りあげる。ドドドの体は劣化した石膏のように欠けて、腕だけではなく膝までもが自壊していたが、そんな状態にあっても胸を張って、空の一点に矢を放つような瞳を向け続けていた。
天の一角。風穴が開き、不定の空が見えている。常に異なる色に染まり、とどまることを知らない空。その空に針で突いたような点があった。
その点は無色。白でも黒でもなく、真の無色だった。
「空が壊れた?」熱を持った灰が顔に降りかかってくる。
「そうだ。俺様が壊したんだ。レンカが卵と言っていたが、要するに生まれるのに必要なのは破壊に他ならない。意思だの勇気だの小難しいことは考えなくともいいんだ。こじ開ければいい。ぶっ壊せばいいんだよ」
「そのためにビミーを犠牲にしたのか」
「灰の中で死ねるのは幸せなことだ」
最後の楽陽樹が燃え尽きようとしている光景を前にして、私はこの世界の行く末を考えていた。
世界が生まれるとはどういうことか。創造された世界が生まれた時、なにが起きるのか。
いまが卵に押し込められているというのなら、外にあるのは無限の広がり。
束縛から解放され、私たちは自由を得る。自由を意識しない自由を得るのだ。
滅びゆく私たちが、滅びを回避する方法。
それがこの旅の命題だった。
だが、これまで、意思のない私たちがその命題の意味を考えたことは一度としてなかった。私たちが滅びを回避する必要が本当にあるのか。滅びを受け入れる選択もあったはず。卵の外が、卵の内よりも素晴らしい場所とは限らないのだから。
嗚呼、しかし私はどうしようもなく望んでいる。
既知のものよりも、惹かれるのは未知。
――これが、私なのだろうか。
点描画が描かれるが如く、点が点綴し、天の天衣を破ろうとしている。
空が墜ちる。
大空は奥行きを失った書割となって、空気を圧縮しはじめた。
このままでは殻の破壊より先に、この愉楽の大伽藍ごと私たちは潰れてしまう。
「――逃げましょう」
手を引かれる。
私はそれが誰なのかすぐにはわからなかった。その声があまりにも弱々しく、握る手は震えて、普段の毅然さの欠片もなく、目元が泣き腫らしたように赤らんでいたからだ。
肩に乗っていたはずの嘆鳥がいなくなっている。あたりの地面には、繊細な羽毛と、杭のような嘴だけが散らばっていた。
「隊長――」
「お願い」
私は隊長を連れて逃げた。
背後から声が聞こえる。滅びを見守るドドドとシャダ。
「シャダ。もうこれで――」
「なに? ドドド」
「――お前、耳が?」
「うん。聞こえる。憎が消えたからかな。でも代わりに嘆鳥に憑かれちゃてるかもしれない」
「そうか。――いや。これでもう楽陽樹の葉で包んだ信茸ともおさらばだな。どっちの情物もいなくなった。清々するよ。あんなものを喰っていたなど、思い出すだけで虫唾が走る」
喧嘩を吹っかけているような口調。
「どうしてそんなことを言うのさ。あたしがつくってあげたら、おいしいって言っていただろう?」
「あれなら畏土を生のまま喰ったほうが遥かにマシだったさ」
「なんでいまになって、そんなことを言うんだよっ!」
「お前の顔も見飽きた。さっさと失せるんだな」
「うるさいっ!」
肩越しに私が見たのは、嘆鳥の嘴を両手で掴んで振りあげるシャダ。尖った杭の切っ先はドドドの胸へと吸い込まれていく。
もしかしたら嘆鳥の嘴ではなく、憎の憎牙であったかもしれなかったが、それを確かめる間もなく、翻った焔のカーテンがふたりの全身を吞み込んでしまった。
私たちが向かうべきは何処か。
四方を崩壊に取り囲まれている。
我武者羅に、遮二無二に、無我夢中に走り続けた。
隊長がよろめくたびに立ち止まって、助け起こしてはまた走った。
燃える世界樹の木陰がいつまでも追跡してくる。
果てはなく、出口はなく、逃げ場もない。
足元から、声。
「こっち」
キュウだ。
地面から生えているのは、支えをなくした蔓植物のように撓んだ手。飛びついて縋るように握る。
燃え折れた枝が斬首斧のような勢いでもって頭上から迫っていた。
灼熱が首筋のあたりをちりちりと焦がす。
もはや一刻の猶予もない状況。
煌々とした炎の影。
その時、あたりの地面がさざめき立ったかと思うと、私と隊長の体を底なし沼の如くに引きずり込んだ。
あわや首を刎ねられるというすんでのところで、旋毛の先までもが地中に沈む。
一転して一条の光もない闇。
「隊長」
返事はない。私の声は僅かに反響して、山彦のように繰り返されると、誰の耳介にも受け止められることなく消えていった。
闇。しかと握っている手が本当に隊長の手なのか確証が持てない。冷たく濡れた氷の結晶ような手。あまり強く握ると壊れてしまいそうだ。
私たちがいるこの場所は、どうやら大空洞になっているらしい。
一歩、歩いてみる。足裏が頼りない。まるで砂でつくられた吊り橋。
何かが這いずるような音。ぬめりのある尻尾が私の膝のあたりに触れて、すぐに遠のいていく。音が聞こえなくなって、忘れていた息を吸う。ほんのりと酸っぱくて、甘ったるい、吐き気を催すような嫌な臭いが、ツンと鼻孔を突いてきた。
たくさんの何かが周囲で蠢いている。闇に対して無力な私は孤独であり、蠱毒に放り込まれたかのような不安が募る。
「隊長。何故答えてくれないんですか」
手を引いて呼び掛ける。ゴムが伸びるようなとらえどころのない感触。
この得体の知れない手を離すべきだという考えと、隊長の手を離すべきではないという考えがせめぎ合う。
「――キュウ。いないのか」
もうひとり、ここにいるべき者。
「いないよ」
キュウの声。私は背後を振り返る。あるのは闇だけ。
「どこにいるんだ」
「いないよ」
その声は私の喉奥から発せられていた。
「やめてくれ――」
こぼれた声はかすれ、いかにも情けなかった。表面張力に囚われた瞳の表面の雫が解放されようとしている。私は憑かれている。嘆鳥に。つまり、いま握っているのは紛れもなく隊長の手に違いないと思った。この手を離してはならない。
「ここは地面の下なのか?」
「さあ?」とぼけた態度。
「君が創った世界なんだろう?」
暗闇の世界。仄かな土壌の香りがするが、足の下にあるのは土ではない。そもそも私を支える地面自体がなくなっている。微かな浮遊感と圧迫感が爪先をくすぐってくる。深海か、もしくは宇宙なのか。けれど、いずれにしても、こんなにも完璧な闇が存在するのだろうか。
「どうして何もないんだ? ここは創造に失敗した世界なのか?」
私が尋ねると、私の喉を使ってキュウが答える。
「失礼なことを言わないでよ。何もない、が、ここにはある」
「ない、が、ある?」
「この世界は零。僕は零を創造した。全ては零から生まれる。あらゆるものを内包して、溶け合っているのがこの世界」
喉の奥が痒くなってくる。自分が喋っているのか、キュウが喋っているのか判別ができない。
「零は何も産まない」
「零は零を産む」
「それは何も産まないのと同じだ」
強情ばって私が突っぱねると、キュウの声が突然、優し気な響きを帯びて、
「君はいまどんな感情?」
「無。無感情と呼ばれるもの。私たちは変感情的存在であり、恒感情生物である情物たちとは違う。己の内に感情を持たない。感情は常に外にある」
まるで自己問答だ。鏡に向かって話している。どちらが疑問を発して、どちらが答えているのかもわからない。
「無感情と無は違う」
「何が違うんだ?」
「無感情という感情を、君は有している」
「君が仮面を被っていない時間は一瞬たりとも存在しない」
「心が空白でも、眠りに落ちている時でさえ」
「真の無とは、君自身が存在しないということ」
「いま君は存在しているの?」
「君が存在している限りは」
「君が存在しなくなっても、君は存在する?」
「殻を破ればね」
また殻だ。世界を閉じ込める卵。殻。殻を破るには意思が必要。勇気が。
「この何もない世界に勇気はある?」
「何でもあるさ。探してごらん」
探すといっても手掛かりはない。右左どころか、前後も上下もわからない濃霧に包み込まれている。
私は唇を繋ぎ合わせてキュウの声を閉じ込めると、おもむろに歩きだした。隊長を連れて。隊長と思われる手を引いて。
何かを踏んだ。何かが聴こえる。何かが薫る。何かがあるが、いずれも定かでなく。何かでしかないそれらは、何もないのと同じであった。
時折、何かに足を引っかけて躓きそうになる。闇の中に闇が翳る。
影も光もない。影と光は表裏一体。影があれば光が出現し、光があれば影が現出する。そのいずれもがないこの世界は真なる闇に違いなかった。
だが、真なる闇の存在は、真なる生を浮き彫りにする。私の輪郭を引っぺがし、そこにある揺るぎない有を見せつけてくる。
確かにここは無とは程遠い世界なのかもしれない。
私は私のやるべきことをはっきりと意識した。
意思を持って実行しなければならない。
私自身を失うことになっても。
勇気を見つけなければ。
殻を破るために。
「――やめて」
すすり泣き。
私はずっと握り続けている手に視線を向けた。見えはしなかったが、皮を剥かれた新芽のように青白くて華奢な手がそこにあるのがわかった。
私の外側にあるその手は、この闇の中では私自身よりも確かな実在を持っているような気さえする。
「隊長? よかった。やっぱり隊長だったんですね」
指の一本一本に力を込める。隊長の手は冷たく、ぶよぶよとしていた。
「わたくしたちは、永遠でいましょう――」
「それは、卵の中で世界が腐り落ちるのを待つという意味ですか」
「そうです」
「いままでの旅が全て無駄になってもいいと?」
「それでいいんです。わたくしはそれを望んでいました。ごめんなさい。わたくしの我儘で皆を苦しめて。けれど、卵の外にあるのは泡沫の目覚めでしかない。全ては追憶の彼方で、永久の腐敗の夢を見るべきなのです」
「私は――」
いやだ。と、思ったが、口にすることはできなかった。生まれも、死にもしないことが、隊長の望みなのだと悟った。永久という甘やかな響きはとろけて、どうしようもなく惹きつけられる。けれど同時に、それこそが真の無へと自らを貶める行為であるようにも思えてならなかった。
「この世界はもしかして、隊長が創造したのですか?」
「違います」
憂鬱な響き。
「あなたが創ったのですよ」
「私が?」
「警貝が司るのは期待。未来への想像の飛躍。それらの管理を任されたあなた以外に世界を創造することはできない」
「けれど、現にドドドやビミー、それにキュウも世界を創った」
反論する私に、隊長が相対する。私と同じ顔。同じ瞳。闇が視界全てを埋め尽くしているにも関わらず、私には確かに、隊長の相貌と双眸がすぐそこにあるのがわかった。
「世界を創る者をあなたは創った。あなたは皆にとっての大いなる意思。そして、あなたにとっての大いなる意思もまた、この世界の外に存在している」
「どうして私がそんなことを――」
自分自身のことだと言われても、にわかに受け入れることができない。答えを被造物に委ねる創造主など間抜けそのものだが、頭の中の混乱が私を愚行に突き動かした。
「他ならぬあなたが世界を産みたいと望んでいたから。けれど創造の先で行き詰った。だから、それを代わってやらせようとしたのです」
「被造物が創造主を超えることなどできるわけがない」
「愚者は愚者しか創れない。賢者は賢者を創る。あなたはどちら?」
「私は――」
口ごもっていると、隊長の手は朧になり、霞に解けて、雫も残さず闇に溶けてしまった。
「隊長」
呼び掛けるが、もう返事はない。
「キュウ。隊長。どこですか。どこにいったんですか。どこ――」
手探りであたりを進む。耳を澄ませ、漂う匂いに集中するが、雑然とした闇を捉えることはできない。
放浪。
闇によって私の容は曖昧になり、立っているのか、座っているのか、寝転んでいるのかもわからない。もしかしたら見上げているのではなく、見下ろしているのかもしれない。
隊長は本当に存在したのだろうか。キュウ、ドドド、シャダ、ビミー、皆、はじめから誰もいなかったのではないだろうか。
鋭く細く風を切る音。
痛み。
とろとろと濡れた感触。血だ。もしくは脳髄か。闇から投げつけられた小石が、私の頭に波紋を形成した。
「あ」
火が灯った。
それは一頭の激昂蝶であった。
ひらひら、ひらひら。
闇の中で燦然と輝く燈火。
「待って――」
私は幼子のように両手を伸ばして駆けだした。足元に散らばる何かをいくつも踏みつけ、転びかけながらも懸命に走る。けれども、いくら走っても、私と激昂蝶の距離は縮まらない。
息を切らして立ち止まる。優美な激昂蝶のはばたきは蜃気楼のように一定の距離を置いて浮かんでいる。
私は己の肩にずっと重くのしかかっていたものに気がついた。
担いでいた嚢を下ろして、指先で紐の結び目を探す。その間、激昂蝶は励ますような淡い光の触手を、私の手元にまで届かせてくれていた。
やっとのことで嚢の口を開けると、大量にいたはずの警貝はたったの一匹だけ。
しかし、私はめげることなく最後の一匹の警貝を両手で掴んで、捧げ物のように高く掲げた。
螺旋の巻貝に二枚貝の蓋が接着された警貝の殻。丁番が開いては閉じる。
――カン、カン、カン、カン。
透明の空気を震わせる祝言の鐘。私の脈拍の代役。
予感があった。
心がふつふつと沸き立つ。
ひらひら、ひらひら。
激昂蝶が誘われる。
私の指先に留まり、紅の翅を休ませると、口吻を伸ばして、螺旋の先端にそっと口づけ。
――殻が、割れた。
意思の切れ端たちが結びつき、長大な糸となって、繭が編まれる。
私は繭の中にいる。
蛹の私には闇すらも温かい。
在る。
井戸に切り取られた丸い空から振り落とされた鶴瓶の裏側。
ひび割れたコップの底に開いた極小の孔から漏れた水滴。
八百万の血肉を吸いあげ脈動する左心房と右心房の間。
花のない薔薇の棘に刺さった指輪に通された赤い紐。
数字だらけの紙束の最後の一枚に書かれた眼差し。
脱皮したばかりの蟹の鋏が差し込まれた岩の洞。
ケーキに乗った宝石の果実を滑り落ちる甘露。
眠る子犬の肉球の隙間にこびりついた匂い。
はずむような歓声に叩かれる両開きの扉。
海に溶けた優しい子守唄の最後の一音。
擦り切れた青い導火線と尖った革靴。
雪を照らすちいさな焔の揺らめき。
千切れた縄梯子に残された繊維。
卵の中の鶏が産んだ卵の外。
感情が収束する。
まったく、堂々巡りであったらしい。けれど空転しながらも、轍の跡は刻まれていた。例え、前には進めていなくとも、泥濘が深くなれば下方向に進んでいるとも言えるのではないだろうか。
定められた結果。けれど必然ではない。道を譲って委ねたものにしか、運命は齎されないのだから。
至極単純で、理解の必要もないぐらいに簡単なことだった。
観客がいない劇場で、私は私を演じていたのだ。位相の齟齬が常に立ちはだかっていた。私は過去に。観客は未来に。そんな当然のことすらわからずに、いるはずのない観客を探して私はひとり騒ぎ立てていた。
演目は変わらず、舞台は廻転し、輪転する。最初に戻って再度演じられる。繰り返す。何度だって。また隊長に逢うこともできるだろう。
空席の観客席に向かって恭しいお辞儀。
緞帳は既に開け放たれている。
ここまでお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
読んで下さった皆様には感謝の気持ちでいっぱいです。
評価やコメントなどをもらえれば嬉しく思います。
よろしければ是非お願いいたします。
あとがきを活動報告に投稿していますので、こちら私のマイページから2024/3/7付けのものをご確認ください。
それではまた別の作品でも出会えることを心より願っております。
2024/3/7の井ぴエetcでした。