しえる亭 ししまる
ぼくの名前はししまる。
皆からはしーちゃん、ししと呼ばれている。
ぼくの自己紹介に欠かせないのは、相棒である主人だ。
「散歩にいこう」と言ってぼくを喜ばせては、そのまま「ちょっと待て」とパソコンをして、何十分も待たされる。しまいにぼくがソワソワし始めると、「なんだ?」と言って約束を完全に忘れているような主人だ。そこに悪気は一切ない。
ぼくは散歩前にいつも伸びをする。前足、肩、全身のストレッチだ。主人はその時はわざと「何してるんやお前?」とニヤニヤしながら訊いてくる。
散歩に決まってるだろ、さっさと行くぞ!
散歩アピールに気づかないふりをして構う主人に、ぼくは玄関からリードを咥えてもってくる毎日だ。
やっと重い腰をあげた主人は、車にぼくをのせる。
もちろん、人間と同じシートに座る。荷台なんてとんでもない! ぼくだって家族だ。ものじゃない。
今日の散歩は、市営の自然公園だ。
ここはだだっ広い公園で、長さ三キロ以上もある。車を停めて、端から端まで歩いて帰ってくるのも大変だ。どこかの遊園地かというほど、ぼくの極楽だ。
失われる自然に危機感をもった市が、植樹計画を企画し、皆でたくさん植樹した結果、この森ができた。素晴らしい試みだと思う。おかげでこの森は今ではキツネやタヌキも住んでいる。
自然豊かすぎて、この森にはヌートリアとよばれる外来生物もいる。本当はみつけたら駆除しないといけない。いけないことだけど、ヌートリアだって動物で、自然だ。ぼくら家族は公園の管理人というわけでもないし、みつけても知らないふりをする。あとで「べろがえるがいた!」と、家族だけしか知らない秘密の言葉で話すのだ。
べろがえるの理由?
それは一番小さな我が家族の自然探検家にきいてくれ。名付け親だから。
公園につくと、子どもたちが寄ってきて、ぼくの毛を引っ張って揉みくちゃにする。
「ふぁ〜ふぁ〜」
ぼくを触ってそう子ども達はいうが、本当にふわふわなのは今日の空に浮かぶ綿雲だ。
今日の天気は快晴。
今日のぼくの心も快晴。
ぼくはスキップしながら、公園の真ん中を歩いていく。
頭の中には音楽が流れて、それに合わせてステップを踏む。
今日の曲はいぬのお巡りさん。
ぼくもいつだって、迷子の子猫ちゃんを助ける心の準備はできている。
木の下に積もった落ち葉を、しゃくしゃくしゃく、とリズムよく踏み鳴らす。
公園に吹き渡る木枯らしは落ち葉を舞いたてて、ぼくのふわふわの毛を靡かせる。冷たい強風にぼくのシルエットが細くかわる。
「美しい……凛としている」
後ろで主人がぼくをみて、ひとりで悦に浸りながら、なんだかよくわからないことを言って感嘆している。
そんな主人を放っておいて、意気揚々とぼくが歩いているその時に、事件は起こった。
「ぎゃいん!」
悲鳴をあげたぼくは、足をけんけんするように持ち上げた。
「どうした!?」
主人が慌てて駆け寄る。ぼくは主人にもたれかかる。
助けてくれ。ぼくはもう歩けない。今までお散歩楽しかったよ。ありがとう……。
うるうるとぼくが涙をためていると、主人は「今すぐ病院いくか!?」ととても動転した。それはなんだかちょびっと嫌だ。行ったらご褒美はもらえるけどさ。ぼくは涙をひっこめた。
ぼくが持ち上げた足を主人が入念にチェックする。
しばらくみていたかと思うと、すっくと立って、ぼくのリードを引っ張った。
「行くぞ」
どこに? 病院に??
入院かな。手術かな。
主人は寂しくない?
ぼくは寂しい。怖い……。
動かないぼくに、振り返った主人は、ひとつ、ため息をついた。
「歩けるだろ。情けない。だってこれはセンダングサ。ただのひっつき虫じゃないか」
肉球についたトゲトゲを、主人はぽいと投げ捨てた。
あまりに主人が引っ張るので、渋々、ぼくは歩き始めた。痛いのにさ。疼くのにさ。
そのうちすっかり痛みを忘れたぼくは、散歩が楽しくなってきて、主人を抜かすと、主人を前へ前へ引っ張っていく。遅いぞ。もっと行くぞ。
「先行くな、しし」
苦笑する主人はそう言って叱るが、ぼくが主人に叱りたいくらいだ。主人がもっと速く歩けばいいんだ。いつも走らせてもくれないくせに。
叱られて渋々下がり、恨みがましく見上げる。そうすると、いつも主人は叱るだけでなく、困ったような顔にもなる。
「ごめんな」
そう言われる意味が、ぼくにはよくわからない。
ゆっくり歩くと、足のことを思い出し、少し痛みが走った。
満足するまで歩くと、主人はヘトヘトで帰路についた。
家の前まで車で戻ってきた時、車庫前に人が数人いた。大きな黄色い犬もいる。
その人たちはこちらの車に気づくと、場所をあけてくれた。主人は車庫の手前でぼくをおろし、その人たちに預ける。狭い車庫に上手に駐車すると、主人はその人に声をかけた。
「親父、来るなら散歩にボスも連れて行ったのに」
ぼくより大きくて、毛が短くて、筋骨隆々なボスは、カワウソのような尻尾を一振りして、そうだぞと不満そうだ。
何ならぼくはもう一度行くよ? 歩けるよ?
ぼくからもアピールしてみるが、ぼくの主人は気づかないふりをした。気づいてるくせに。
「いい、ボスとししを遊ばせるだけでもええやろ」
そう言ってボスの主人もこれから散歩に行く気はなさそうだ。何だかくたびれているように見える。もしかしたら、ボスもひと歩きはしたのかもしれない。
そこに、「こんにちは」と声がかけられた。
小さな黒柴犬を連れたおばさんが、ぼくの主人と、ボスの主人に声をかけていた。ご近所さんかな。
まだここにきて日が浅いぼくには、誰だかよくわからない。ただ、この黒柴は女の子だとはわかった。名前がわからないので、敬意を表してレディと呼ぶことにしよう。
そのレディはボスに挨拶しに行った。ボスも堂々と挨拶に応えた。
よし、次はぼくの番だ!
可愛い女の子だな。仲良くなろう!
尻尾をふりながらぼくは、自分から挨拶に行った。
ところが、レディは、つんとぼくから顔を逸らした。挨拶が返ってこない。
どうしたんだろう。ぼく、何かしたかな。
レディはぼくのことはお構いなしに、ボスにまとわりついて、遊ぼう遊ぼうと言っている。そんなこと言わずに、ぼくも混ぜてよ!
ぼくは負けじとレディとボスの間に入っていった。
その間、主人たちは楽しく人間同士で話していた。
「うちの子、大人しいって言われるんですけど、そちらのわんちゃん達も賢そうですね。犬種は?」
話を振られて、ぼくの主人が答える。
「ラブラドール・レトリーバーと、シェットランドシープドッグです。ラブラドールは実家の犬で、シェルティはうちの子なんですけど」
「ラブくんは逞しいから男の子と……シェルティちゃんは可愛いねぇ、女の子かなー?」
そう言って、おばさんはいきなりぼくの背後にまわりこみ、お尻から覗き込んだ。
「あれっ! 男の子!」
それ、人間に同じことやってみてよ。
それまでぶんぶん振られていたぼくの尻尾が、思わず垂れた。
翌日も午後から日が暮れないうちに散歩に出る。今日は出遅れたから、日没までの散歩の時間確保のために、車は出さず近所を散歩するだけだ。
気の向くままに曲がったり、まっすぐ行ったり進んでいくと、反対側から歩いてくるレディに会った。どうやら毎日この時間帯に散歩しているらしい。
ぼくをみると、突然レディがうなり出した。
昨日は冷たかったレディが、今日はぼくに飛びかかろうとせんばかりに、敵意を剥き出しだ。綺麗に手入れされたレディの牙がよくみえる。
「どうしたの!?」
飼い主さんも戸惑っている。どうしよう。
やられているばかりでも何なので、一応、ぼくも小さく唸ってみる。
すると、レディは三倍にもなって吠えてきた。
どこが大人しいんだ。
ぼくもまた吠えてみる。今度はさっきより大きめに。
「すみません、他の犬には、こんなことないんですが……」
「いえいえ、うちもですよ」
飼い主たちは普段と違う飼い犬に困惑している。
いきりたったレディは、ぼくの主人にまで吠えた。
「おっと。待ってくれよ。俺は犬同士の諍いには関係ないぞ」
両手をあげて、やる気はない、と宣言する主人。レディもそれに気づいたのか、やはりぼくのほうに向かって吠えてきた。ぼくも応戦する。
ぼくとレディはお互いの主人に引き摺られるようにして、引き離された。
「喧嘩売られて、とんだ災難やなぁ、しし」
相手と離れると、主人がこそっとぼくに言った。さすがぼくの主人、ぼくのことをわかってくれている。
わん、と返事して主人を見上げしっぽを一振りしてみると、主人は、でも、と調子に乗って呟く。
「男なら、なにメスに負けてんだ」
前言撤回。
優しいぼくの紳士さがわかっていない。
女性には優しくしないといけないんだぞ。
とは思うが、かくいう主人も、なんだかんだ言いつつ女性には優しいことを知っているから、優しいぼくは黙ってきいておく。
それでも、自分の情けなさもよくわかるから、ちょっぴり落ち込んでしまうぼくもいた。
「しかし、なんで吠えてきたんだ? ししはこんな温厚なやつなのに」
それはぼくには匂いで何となくわかっていた。けれど、主人に言うと面白がって構ってくるから言わない。
レディはボスの前では恋する乙女のにおいをしていた。甘いいい香りで、危うくぼくも惚れそうになったほどだ。
そこにぼくがいた。レディはぼくをみると冷たい怒りのにおいに変わった。でも、レディはそれでもボスの前だから我慢した。
そんなレディに一言いいたい。
ぼくは可愛いとは言われるけど、メスじゃない。嫉妬しないで。頼むよ。
「たまには違う道から帰らないか」
主人がそう提案したのは、喧嘩して気分が悪いぼくを気遣って気分転換させようとしているのだと、ぼくにはわかっていた。こういうところが、主人の優しいところだ。ぼくほど、不器用な主人を理解している生き物はいないのではないかと思う。だって相棒なのだから。
ぼくはしっぽをいつも以上にリズミカルに振ることで、喜びと感謝を伝える。それだけで満足して幸せになってくれる主人だった。
そろそろ暗くなってきている。
コンビニの窓に少し近づいて、外に漏れ出た明かりを借りて、反射板をつけられる。犬に服は着せない派の主人だが、これは暗い時はきちんとつける。懐中電灯のスイッチもオンだ。
そこから住宅地を通り抜けて家に向かうルートにした。主人が道路側で、ぼくが家側を歩く。
最初は軽い足取りだった僕だったが、ひとつ、いつもとは違うところで道を曲がると、あることに気づいて、足が止まった。
「いくぞ?」
主人がリードを引っ張っても、足が震えて動けない。
「どうした?」
この道はやめよう、と主人に伝えたいのに、目は見開いて、体は固まって動かない。
その道のつきあたりの家の扉があいた。
「あれっ? ママ、レオがいるよ!」
その小さな女の子の声をきいて、ぼくは、主人を振り払わんばかりの力をこめて、その場から逃げ出した。
「まて! 走るな!」
そんな主人の声も聞こえない。数百メートル進んで、道に飛び出しそうなところを、主人に首根っこを掴まれた。
「ばかやろう!」
その日はたくさんたくさん叱られた。
他の犬たちは、もう少し危なくない場所でだけど、思う存分走らせてもらってるのに。なんでぼくだけ、どこで走っても、少し走っただけでも怒られるのだろう。危ないから叱られるのもわかるが、ぼくの言い分は何一つ伝わらないのは釈然としない。
それにしても、あの家が頭から離れられなかった。こんなに近かったんだ。レオ、というあの声が耳にこびりつく。
帰ってお腹が空いているはずなのに、出される餌も、今日はとりわけまずい。
いつも何か混ぜているようなのだが、何を混ぜているのだろう。おいしくなるものならいいのだけど。
あぁ、唐揚げがたべたい。
その夜、主人は、ぼくが落ち着いて寝たのを確認すると、そっと外に出た。
カチャリと静かに玄関の扉が開け閉めされた。誰かが入ってくる。
「あの女の子、あの周辺をウロウロ探してる。しばらく近所での散歩はやめよう」
「元の家なの?」
「それは間違いないだろう」
玄関からそんな声が聞こえて目が覚めた。ちらりと片目だけ一瞬開けて確認すると、まだ深夜のようだった。
「でも、車で少し行けば、自然公園があるからな。そこで歩かせてやろう」
主人はぼくのことをよくみていてくれている。涙でまみれたぼくの顔は、いつものふわふわの毛並みではなくなっていた。
その日は曇り空だった。
自然公園を歩くと、どんな天気でもぼくはご機嫌だ。
途中で立ち止まって、クンクンクンクンと草木を嗅ぐ。先客はいないようだ。今日はここでマーキングするとしよう。
道にはたくさんどんぐりが落ちている。ぼくはそれを蹴りつつ、踏みつつ、音とともに散歩を楽しんだ。
公園の中心部には公園の管理センターがある。主人がそこでトイレを借りようと、管理センターの外にぼくを繋げて待っているように指示した。男性のトイレだからすぐ帰ってくるし、ここなら人目があるからぼくを誘拐もしにくい。何かあったら吠えて主人を呼んでやるから、安心していってこい。ぼくは力強く一声吠えて返事した。
その声が遠くに届く頃。
キャンキャンと別の犬がその声に反応し吠えた。聞き覚えのある声に、トイレにいこうとした主人は、止まってぼくと目を合わせた。
「ししのライバルか?」
ぼくは鼻をきかせ、匂いでも確認する。間違いない。ここへ近づいてくる。ぼくは主人に頷いた。
どうしよう。
ちょうどそこに、管理センターから管理人らしき人がでてきた。主人は咄嗟に引き止めた。
「すみません。今吠えてる犬、うちの子とめちゃくちゃ仲悪くて、酷い喧嘩するんです。周りの子供たちにも危ないですし、大人しくさせるので匿ってもらえませんか」
尋常ではない怒りのこもった犬の鳴き声が近づいてくるのが、ハッキリとわかる。ぼくがそれに反撃せず静かに身を潜めている様子であることを確認した管理人は、管理センターをあけてくれた。
「どうぞ。ただし、隠れたら動かないでください。中にも子供たちがいるので」
管理センターはガラス戸で、外からも見えそうだったので、隠れる場所をキョロキョロ探す。
森のもので子供たちが作ったリースを飾っているラティスが立っていたので、主人はその陰へぼくを導き、作品には手を出さないように伏せさせた。
伏せたぼくの背中に片手をおいて撫で、ぼくを制御しつつ宥める主人は、ラティスから顔だけ出して外の様子を伺っていた。ぼくもラティスの隙間から外を覗いた。
「何があったの!?」
レディの主人が戸惑っている。レディは地面の匂いを嗅ぎ、ぼくを探している。管理センターに入りたそうにするレディだったが、本来、ここは犬は立ち入り禁止だ。そこはレディの主人が止めてくれている。
三十分ほど、粘り強くレディはぼくを探し続けたが、日が暮れて、主人に促されると、ついに諦めて帰っていった。
「危なかったなぁ」
悪い時には悪いことが続くものだ。公園までも散歩ルートから外さないと、しばらく危ないかもしれない。
ずっと一日中家にいて、ご飯と散歩だけがぼくの楽しみなのに。ストレス発散ができない。
その日帰ってからイライラと家具など色んなものに噛み付くようになったぼくをみて、次の日は珍しく、主人から散歩に誘ってきた。
「散歩にいこう、しし」
それにしても、どこを歩くんだ。公園はダメだし、あの家付近もダメ。あの家の反対側の道を歩くしかないけど、これから毎日同じルートか。
それでも行かないよりかはマシだから、ぼくは渋々、リードにかけられた。
いつものように玄関を出て、段差を飛び降りたとたん、
「いたっ!!!!」
聞いたこともないような主人の声が背後から聞こえた。段差の下で、座り込んで足を抱えている。
リードは、落ちている。
しめた。
自由だ。
ぼくは全速力で走った。
最近縛られた散歩のストレス、いつもなぜか走らせてくれない主人、そんな鬱憤を晴らすように走った。
しかし、がくん、とハーネスが引っ張られた。
おかげで短距離しか走れなかった。
後ろをみると、足を引きずりながら、凄い形相で主人がこちらを睨んでいる。
「主人が怪我した時に、躊躇わず、見捨てていく、とはな……」
血走った主人の目に、ぼくはしゅんと頭を垂れた。
「いたたた……親父、もう少し優しく巻いてくれよ」
主人が怪我をして散歩は中止になった。
その後、電話一本かけて、ボスを連れて柔道整復師の資格をもった主人の父がきた。
「これで安静にしろ」
「親父、ししにフィラリアの薬やってほしいんだけど」
フィラリアの薬?
ぼくが疑問に思っていると、頼まれた主人の父は、ぼくの餌に何か混ぜてぼくに与えた。
うん、いつもの味だ。
「しばらく、ボスと一緒に散歩に連れて行ってやってほしい。このへんはダメだ。どうやら、ししを虐待した前の家族が住んでる。公園も、ししのライバルがいて喧嘩してしまう」
「わかった。ボスの散歩コースまで連れて行ってやろう」
「フィラリアがあるから、ししは走らせないようにしてくれ」
その話をきいて、初めて、ぼくが走ることをさせてもらえなかった理由がわかった。
ぼくはボスとともに、川沿いに連れていかれた。ここはぼくにとっては少し足を伸ばさないといけないところだが、たまに車に乗せて連れて行ってもらえる。
ボスはぼくより年長の老犬だ。いつも一緒に歩く時は、ぼくが後ろから尻を押してやるのだ。
ボスは喜んで川の中へ入っていくが、ぼくはとても水の中なんて入れない。シャワーだって嫌いだ。
今日は主人がいない。
いつもと違う場所の散歩で楽しいはずなのに、何かが足りない。
「犬の一日はおれの一週間。寿命が短いからな。だから一秒たりとも無駄にせず、ずっと一緒にいような」
そう口癖のように言ってくれた主人のいない散歩は、なんだか空が陰ってみえた。
今日の空はあの日の空に似ていた。
晴れているのに、上空の風が強いのか、雲の流れが早い。影になったと思った十秒後に、雲が通り過ぎて気持ちのいい晴れになり、また陰る。
あの日のぼくはそんな空模様のなか、町中を一人で歩いていた。
首輪だけつけて、リードもつけずに。
車が行き交う音がきこえる。
初めて出た外に、ぼくは優雅に歩く。
抜け出してきた家からは、唐揚げのにおいがする。ぼくが逃げ出したことなど気づかずに。
バレないように、声もあげない。
ただ、ふとっちょだから、息はあがるけど。走れないけど。
できるだけ急いで家から離れようとしているけれど、周りからみたら、ゆっくり呑気に歩いているようにしかみえないかもしれない。
木の下をくぐり抜けると、毛むくじゃらで絡まった毛に、木の葉が絡みつく。
頭に何か触れるのはちょっと怖くて、ぼくは顔を顰める。
「黙れ!!!」
と、頭に飛んできた手のひらがフラッシュバックする。
ちょっと落ち込むが、もうこんなこともないんだ。そう、ぼくはもう野犬なのだ。
やっと自由だ!
憧れていた自由を手にしたぼくは、道路へ向かって走り出した。
信号が赤になった。
「止まれ!!!」
まだついていた首輪を何かにつかまれる。
ぐえっと息が詰まる。
人間だ。
やっと自由を手に入れたのに、また捕まる。
叩かれる……。
「まて、まて。えぇと、近所でこいつを知ってる人いないかな。あと、動物病院連れて行って……保健所はまずいか」
暴れるぼくを宥めつつ、ぼくの首輪を離さない彼は、頭を一生懸命に巡らせていた。慌ててきたのか、彼は裸足だ。
「悪いようにはしないから。な。」
彼はすぐ近くの家の玄関にぼくを招き入れた。地面に指をさして、
「おまえはお客だから、ここから先は上がってはいけない。いいな?」
と、告げた。
ぼくは、上目遣いでじっと目を合わせ、その場に伏せた。わかった、と言いたいのが、これで伝わるだろうか。
ぼくは玄関のくつ置き場。
彼は玄関の廊下側。
そこで家が区切られていた。
このラインをこえる日を迎えるには、この時はまだ、ぼくらは突然の出会いに戸惑っていた。