1 二人の少女
物心つく前から嗅覚が異常だった。
シドは里の者たちがその瞬間何をしているのか全員の動きを把握できたし、魔の森の動物や侵入してきた人間の動きをつぶさに知ることができた。
まるで千里眼でも持っているようなシドの言動を周囲の大人たちは気味悪がった。
(馬鹿だなこいつら)
明らかに人間が里を襲撃するために近付いてきていることを警告すると、あまりにも毎回毎回の情報が的確すぎて実は人間側と通じているのではないかなどという嫌疑までかけられた。
(馬鹿だなこいつら)
地下牢に繋がれたのが七歳の頃。
族長の側近をしていた父親は、シドのせいで家族全員が人間と通じていたと冤罪をかけられて裏切り者の烙印を押されそうになり、シドを切り捨てることを選んだ。
襲撃の警告はそれなりに役に立っていたはずだが、女を巡ってシドが族長の息子を再起不能なまでに半殺しにしてしまったことが決定打だった。
兄弟は何人かいたし、父親はシドにそのまま獄中で死んでほしいようだった。母親も問題ばかり起こすシドを煙たがっていて、「何でこんな子を生んでしまったのだろう」が口癖だった。
食事は一週間に一度だけ運ばれてくる。それも一食だけ。緩やかな死刑にも似た指示を出したのは族長だ。シドはそれを牢獄から嗅いで知っていた。
族長は次期族長にもなれるはずだと期待していた一人息子が歩行困難なまでに痛めつけられたことを恨んでいた。
(無能なくせに、笑わせる)
逃走防止のために足の腱を切られた。それは意趣返しのようだった。
歩けなくなったことと食事を抜かれたことで筋肉が衰え、それまでは嵌められても何度となく粉砕していた量の多すぎる手枷と足枷が壊せなくなり、幾度か成功していた脱獄が不可能になった。
シドは虫が這い周りカビ臭く糞尿が溜まったままの粗悪な環境の中、ゴロリと床に寝そべるのみだ。
雨の日に穴の空いた壁から滲み出る雨水を容器に汲んで喉を潤し、空腹に耐えながら時には自分の皮を剥いでそれを食事としてやり過ごすこともあった。
剥いだ後の出血が止まらなければ致命的だが、その部分の筋肉を強く収縮させることで、シドは血をほとんど出さない技を編み出していた。
獣人用の重厚な枷は破壊できずとも、そのくらいならばやってのけられた
シドは起きていても目を閉じて、ほとんどの時間を心拍を落とすことに費やして代謝を下げていた。
族長の予想よりもシドが生きるので、陰険な質を持つあの男が歯噛みする様をシドは嗅覚を通して知覚し、嘲笑っていた。
(この落とし前は必ずつけてやる)
シドはここから必ず出て、自分の手で族長を殺してやるつもりだった。
ふと人の気配を感じてシドは目を開けた。本日は食事が運ばれてくる週に一度の日ではない。
「……オーリ、本当に行くの? やっぱりやめようよ」
「行こうって言い出したのはユリでしょ?」
「そうだけど…………」
雌の子供が二匹、地下の階段を下りてシドのいる牢へと近付いてくる。
オーリと呼ばれたのは、シドより二つほど年上の娘で、名をオリヴィアという。
銀髪に水色の瞳をした透き通るような美しさを持つオリヴィアは、まだ九歳だがこの里一番の美人で、シドの初恋の相手であり、族長の息子をぶん殴るきっかけにもなった女だ。
族長の息子がオリヴィアを自分の番にするべく動こうとしていたので、とりあえず「あれは俺のだ」と牽制するつもりでボコボコにしたのだが、相手があまりにも弱すぎたために、一生歩けないだろう重傷を負っていた。
オリヴィアに、ユリと愛称を呼ばれた金髪翠眼の少女の名はユリアで、族長の側近の娘だ。
ユリアはオリヴィアよりも一つ年上なのだが、現在はオリヴィアに引っ付くようにして暗い階段を怖々と降りている。
二人は親友、というか、義姉妹の関係だ。
オリヴィアは獣人だがこの里出身ではない。シドが物心ついた時にはすでに里にいて、ユリアの家族に引き取られて育てられていた。
シドは言葉を理解するのが早かった。獣人にとっての『番』とは何か、男女とは何かを理解したシドは、二歳になる頃にはもうオリヴィアを口説いていた。
対して四歳のオリヴィアは、まだ番のことやら異性についても興味はなく、それに年下の幼児が「俺だけを見ろ」とか自分の自由を縛るようなことを宣言してくるのも困惑していた様子で、「もっと大人になったらね」と、濁すようなことを言い続けて番になる明確な約束は避けていた。
シドは、この二人の少女が牢の中の自分に会いに来ようとしていることは鋭すぎる嗅覚で気付いていた。
――――正確には、ユリアの匂いを追うことで、ユリアがオリヴィアと共にユリアの父に掛け合いシドとの面会を画策していることを知った。
シドは、なぜかオリヴィアの匂いだけが上手く嗅ぎ取れなかった。
以前はもっとオリヴィアの匂いを探知できていたのに、年を追うごとに匂いが薄くなっていく。
今のように牢屋の前に立っているとか、同じ部屋にいるとかであれば通常の半分程度の割合で匂いもわかるが、オリヴィアがまた地上に出て行ってしまえば、匂いを捕まえらなくなるだろう。
嗅ぎ取れるのはどうでもいい奴らの匂いばかりだ。
シドは自分が、オリヴィアを愛すれば愛するほどに匂いがわからなくなっているのでは、という仮説を立てていた。